プロローグ ~スライムさえも倒せない~
スライムという魔物をご存知だろうか。
そう。あのぶよぶよしていて、どろっとしていて、触れたものをゆっくり溶かして栄養にすることで生きている、例のあのやつである。
棍棒や銅でできたつるぎでもあれば、その辺で鬼ごっこをしている子供にも討伐されてしまうであろう、あの魔物である。
もっとも、わざわざ町の壁外に出るという危険を冒してまで、そんなことをやらせる親は居ないだろう。あれはほとんど動かないし硬さなど無いに等しいものだから、戦闘経験の足しにすらならないのである。
『女神の珠庭』における最弱のモンスター。それがスライム。
それが、いま俺が苦戦している相手であった。
「ハァ……ハァ……そいつを……寄越せっ!」
手に持った短刀を軟体動物に叩きつける。軌道は正確、刃は的確にその柔らかい体を捉え――
ぷにょん。
という手応えとともに得物が弾き返された。
「くそっ……どうすればダメージを与えられる!?」
手に持っていた短刀を投げ捨て、素手で殴りかかる。こうなりゃヤケだ。
ぬるん――という感触。拳はスライムの体表面に受け流され、バランスを失った俺は無様に転倒した。
……絶望的な攻撃センス。
苦し紛れに小石を手に取り投げつけてみても、明後日の方向に飛んでいく。
「くそっ」
別にこのスライムが特別なのではない。俺の戦闘技能の所為なのだ。
己の技能の特性はよくよく承知していたつもりだったのだが、ひとりがこんなに厳しいものだとは思わなかった。
ゴポ、と嘲笑うかのようにスライムの体内に気泡が発生した。透明なブルーの体液に、取り込まれた木の実の輪郭が少し滲む。
ああ、俺の木の実……。
三日前から空っぽの胃袋がキリキリと痛んだ。
実りの季節でもないいま、この森には人間の食えるようなものがほとんどない。そんな中ようやく見つけた木の実を、目の前でスライムに掻っ攫われたのだ。それが昨日の夕方の出来事。現在、周囲はうっすらと明るくなってきていた。
俺は、一晩中スライムと戯れていたのだった。
「限界だ……」
空腹と疲労で意識が朦朧としてきた。夜通しで一個の木の実に執着するなんて、もはや正常な判断ができているとは言えない。
ドサッ――
次に気付いたときには、自分の体が苔に覆われた地面に横たわっていた。そうか、倒れたんだ。などと他人事のように考える。
自分をこんな状況に陥れた人間の顔が脳裏に浮かんだ。
呪詛を呟き、歯噛みする。
「ちくしょう……ちくしょう……」
ああ、木の実を持ったスライムが逃げる……。その光景を最後に、俺は意識を手放した。