「家路」
よろしくお願いします。
ぽろん。
鍵盤に置いた指が最後の一音を惜しむように押して離れると、寂し気な音が響く。
溜息を付きながら美紀はピアノを撫で、最後の余韻を楽しんだ。
これで、おしまい。
今日、この学校で弾くピアノが美紀にのって人生で最後の演奏になることだろう。
授業が終わった後、一曲だけ、と思い弾き始めた演奏が続くうち、気が付けば辺りは暗くなっていた。
趣味で習っていたピアノも受験のために辞めた。
とはいえ、受験が終わり、進路も決まった今、卒業して、引越しをする前に思う存分、家でピアノを弾いても誰からも文句は言われないだろう。
それでも、ここで、今日、最後の一曲を弾きたかった。
遠き山に日は落ちて。
新世界より、なんて未来を歌っているようにみせてどこか物哀しい独特な響きを持つこの曲を美紀は嫌いじゃなかった。
懐かしい、あの思い出の日々が蘇るこの曲。
二人で始めて出かけた日、どきどきしながら隣の座席に座った電車。
普段は意識なんてしない電車の音が大きく聞こえて、とてもじゃないけど、会話なんて出来ないと思った。
水族館では、可愛いペンギンやクリオネを一心不乱に見つめるふりをしながら、でも本当は隣の横顔しか見えなかった。
受験が近づいてきたら一緒に図書館で、勉強したり。
勉強の息抜き、だなんて言って図書館の隣の喫茶店で大人みたいに背伸びして、本格的な豆から挽いた珈琲を飲んでみたりもした。
ブラックで珈琲を飲む様子がますます素敵に見えたりなんかして。
そして、いつも別れ際にはこの音楽が流れていた。
美紀が嫌いじゃなかったこの曲。
日暮れと共に町中で流れるこの曲が少しだけ二人の距離を開けるみたいで、あまり好きではなくなった。
それでも、明日また会えると信じていたから。
明日またこのメロディを一緒に聞けると思っていたから完全に嫌いにはなれなかった。
どこで、すれちがっちゃったんだろう。
ぽつん。
涙が一滴、鍵盤に零れる。
ずっと、ずっと一緒にいられると思っていたのに。
美紀だけが大学に合格し、二人で住むはずだった町で、一人きりの生活を始める。
ずっと一緒だったピアノも、持っていくことは出来ない。
この町とは違う、夕方に音楽が流れない都会の街。
明日、卒業式の後、制服も、思い出も全ておいて美紀は遠く離れた北の町で新しい生活を始めなければいけない。
新しい世界に楽しく心弾むはずなのに。
思い出すのは楽しかった日々ばかり。
先生が見回りを始めている音にはっと我に返り、涙を拭うと美紀は慌ててピアノに蓋をしてカバンとコートを手に昇降口に向かった。
とおき、やまに。
遠くから美紀が奏でていたメロディが途切れ途切れ聞こえてくる。
家に、帰る時間だ。
「美紀」
昇降口を出た美紀の後ろから、ためらうように声が掛けられる。
「彰吾」
ずっと幼馴染みで、ずっとずっと一緒に育った。
気が付いたらお互いに好きだったのに、二人とも素直になれず、気持ちを言えたのは高校三年生になってからだった。
今思えば、どれだけ遠回りをしてしまったんだろう。
困ったように美紀が微笑むと、ずっと連絡をくれなかった彰吾がその時間を飛び越えるように美紀の手を取り、家の方へとずんずんと歩き出す。
「わりぃ」
照れたように一言だけ前を向いたまま言うと、彰吾は空いている手で鼻の下を擦った。その姿が、ずっと昔の悪ガキだった頃の彰吾とダブって美紀はつい怒っていたことも、寂しかったことも、全部忘れて笑ってしまう。
ああ、彰吾だ。
どこまでいっても、彰吾は彰吾だ。
私と一緒にいたくて、無理して、必死で、勉強して、それでも駄目で。でもやっぱり私をいつでも迎えに来てくれる。
そして、私は、私だ。
将来のために選んだ道だ。その将来は、彰吾の隣にいる未来のため。だから、頑張れる。たとえ、一時的に一緒にいられなくなるとしても。ピアノも、彰吾も、この町にあるから。
きっと、もう大丈夫。
離れた町で違う生活をしていても。
二人とも隣同士の家に、またいつか帰ってこれる。
いつだってこの町には、この音楽があるのだから。