4.夜霧よ今夜も(以下略
とある県の、とある町。
田舎と言うには開けすぎ、都会と言うには手つかずの自然が溢れすぎた町である。
南には、広大な山地と剣呑な原始林が広がり、衝立のような背の高い山脈で東西を挟まれ、低い丘陵部を構成する北が、その土地古来よりの出口であった。
四方を山に囲まれた盆地のせいか、四季昼夜を通じて穏やかな気候に恵まれている。
大型の台風が来ようと辛辣な寒波が来ようと、この地理的要因が、襲いかかる自然の驚異を退けている。
まるで、神が住まいまする土地。
ゆえに、この季節、この時間、霧が立ちこめるなど、珍しい出来事だったのだ。
歳星有樹が、最終電車が出た駅より大通りへと降り立ったのは、そんな時刻だった。
見た目、三十路を越えるかどうかといった微妙なお年頃の彼女。家に向かう足取りに疲労は感じられない。
背筋をぴんと伸ばし、スーツにもタイトミニにもヨレ一つない。出るところは出、窪むところは窪むナイスなお姉様。筋肉を強靱なまま維持しているおかげだ。
健全な中学男子なら、思わず部屋に引きこもって、想像しながら写生したくなる……しつこいと飽きられる典型である。
一日の仕事を終え、短い付き合いだった男と別れた帰り道。かなり飲んでいたはずなのだが、足元に不安は感じられない。
彼女は慣れていた。男に嫌われないように別れる術は、匠の領域へと昇華されている。
長く伸ばしたソバージュの髪が、右に左にとリズミカルに動く。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
目をこらしてみたが、いつの間にか発生した霧のせいで、赤いランプすら見えない。
救急車のサイレンは、ドップラー効果をおこし、右から左へと走り抜けていった。
普段なら、犬共がサイレンにつられ、遠吠えの合唱を行ってたはずだ。ところが、今宵に限り、一匹の声も聞こえない。
この霧のせいであろうか。犬をはじめとした獣を嫌う歳星としては、願ったりかなったりだったが……。
いずれにせよ、この程度の霧で、彼女の歩みは止まらない。
やがて、切れ長の目を縁取る長い睫毛にまで露が浮かんだ頃、彼女は立ち止まった。
星空の一角を満月が占めているはずの上空を見上げる。霧のせいで月は見えない。
視線を右に振ると公園があった。この町で最大の公園である。学研都市で賑わっていたはずの夢の跡地でもある。
なぜか、この土地で起こされた巨大事業は、片っ端から頓挫していくのだった。まるで、土地が人の開発を許さぬ呪いであるかのように。
広大な敷地の片隅にある博物館が唯一、夢の名残であった。公的資金をつぎ込んで、恐竜化石展なる、入りの少ない企画が今週末まで催されている。
さて、彼女は考えた。
この公園を抜けていけば、歳星のマンションへ近道となる。
ただし、キーワードは「深夜の公園」と「うら若き女性」である。
判断材料を求め、彼女は視線を彷徨わせた。
まず一つめの材料は光であった。
青色防犯灯が増設された公園は、深夜とはいえ、明々と照らし出されていた。
二つめの材料。
彼女は、腕に覚えがあった。彼女の体技を持ってすれば、並大抵の男共など束になってもかなわないだろう。
霧は、愚か者から身を隠す遮蔽物、としか歳星は考えていない。
彼女は公園内に足を踏み出した。
ゆっくりと、粘度の高い霧も動き出した。
広葉樹の一群を過ぎた辺りで、彼女は後悔した。
濃くなった霧のせいで、三メートル先が見えなくなってしまったのだ。
彼女にしては珍しく、方向感覚も狂いだしてきた。
「まいったわね」
人の目がないのをいいことに、唇を歪め悪態をつく。腕を腰に当て、片足を前にして休めの姿勢を取る。
彼女お得意のポーズだった。
突然、後ろから音が聞こえてきた。錆びた金属のこすれる響きだ。
驚いた彼女は、音がした方向へ顔を向けた。
「ブランコ?」
公園の片隅で、誰も乗っていないブランコが揺れていた。
風もないのに?
いや、さっきまでの悪視界はどこへ行ったの?
彼女の疑問に対し、答えを示唆するかのように、遠くから遠吠えが聞こえてきた。
吼えているは一匹だけだ。
いや、一頭か。豊かな声量から判断して、大きな体躯と、豊かな肺活量を持った大型犬と彼女は推理した。
「あれは犬ではないのだ」
妙に気怠い声が、背後からした。
反応速度の良い歳星女史。声が全てを語り終える前に振り返っていた。
後ろを振り返って、……やや視線を下へ向けた。
「子供?」
線の細い少年であった。年の頃は十三・四だろうか?
目を惹いたのは、少年の特異な服装だった。
闇色としか表現できない色相である。
青に偏光した照明のためだろうか。少年の姿は、白い霧の中から浮かび上がっていた。
黒い髪、黒いシャツに黒いベスト。スラックスも黒い。丁寧にも、襟の高い黒いマントまで羽織っていた。
続いて歳星の目は、少年の容姿に惹きつけられた。
夜のせいだろうか? 青白い照明のせいだろうか? 少年の肌は透けるように白かった。歳星の肌も白度が高い方だが、この少年の肌には及ばない。
病的な色をした肌と対照的に、やたら血色のよい唇。みずみずしい漆黒の目。一言でいえば美少年。
もう一言いうと、日本人じゃない。完全にヨーロッパ系だった。
カトリック系の寄宿舎や、聖歌隊という言葉が似合う少年だった。
彼女の風変わりなスキルがなければ、催眠状態に落ちるほど美しい少年である。
そして、歳星が次に気になったのは……。
「なにゆえワイン?」
少年の手にある、大振りのワイングラスだった。中身は血のように赤いワイン。
「夜に霧、そして男と女。だがそれだけでは、何かが足りないのだ。何が言いたいのかというと……」
どうすればここまで脱力できるのか。そんな話術であった。
「今宵、我が輩と一晩のアバンチュールをたしなみませんか?」
乾杯! とばかりに少年はワイングラスをわずかに掲げる。ムーディーな科白がダウナー話法と時代遅れの決めぜりふと、見た目の年齢によって、全て台無しになっていた。
最低のナンパである。よい子は真似しちゃいけない。
あきれたのか、器用にも長方形に口を開ける歳星。いや、下辺に対し上辺がやや短い。彼女の口は台形だった。
歳星は、完全に少年の次のセリフを我が輩想して、右手を顔の近くまで上げていた。
「これは、1962年ものの赤ワインなのだ」
力のない決め科白が炸裂する前に、用意していた右手が歳星の顔を覆った。
「そうそう、あの遠吠えの正体を教えてあげよう」
少年が腕を一降りすると、世界から霧が消え去った。脱力系の話法と比較して、こちらの不思議な力はかなり強力だった。
途端、歳星の背後から、荒い息と生暖かい空気が流れてきた。
歳星の背中が理解した。今まで、霧で出来た遮蔽物が、その生物を覆い隠していたのだ。
彼女のカンが正しければ、その獣は牛ほどの大きさだ。削岩機のような牙と、鎌のような爪を複数持っていることは、見なくてもわかった。
「紹介するのだ。正体は……」
「狼?」
少年の言葉を遮って歳星が正体を暴露した。後ろを振り向きもせず、狼狽えもせず。ついでに慌ててもいない。
それが証拠に淡々と会話を続けていた。
「オオカミ……大神。点を付ければ犬神だし、『けもの偏』に『良』と書いて狼。日本では、山の民に信心されていた時代もあったようね」
気味が悪いほどにこやかに話す歳星。顔色の変化はおろか、呼吸一つ乱していない。
「よく知っているわ」
少年に顔を向けたまま、後ろの狼に放たれた挑発だった。
襲う方が、いつの間にか襲われている。
違和感に伴う危険を察知したのか、巨獣が動いた。でかい図体に似合わぬ身軽な動き。一咬みで細い首を咬み千切るつもりの強襲だ。
堅い物同士で殴り合う音がして、狼の口が閉じられた。歳星はそこにいない。
四つ足から繰り出される、圧倒的な瞬発力を誇る狼。彼女は、それを上回る運動能力で回避したのだ。
狼の右後ろに立つ歳星。巨獣は定点回頭し、歳星に牙をむける。
「今宵は、我が輩がエスコートするのだ。美味しいフランス料理店に案内しよう。終電に間に合わなくても大丈夫。そこはホテルのレストランなのだ」
この場の空気に馴染まない、緊迫感のない声がした。いつの間にか、歳星の右後ろに立つ闇色の少年。ワイングラスの中身は、波一つ立っていない。
「ボウヤ……いえ、あなたは何者です? まず年齢をお聞かせ願えましょうか?」
顔だけ先に振り向いて、ゆっくりと体全体を少年に向ける歳星。背後に位置することとなった巨獣は、失礼にもお構いなしだ。
不満なのか、くぐもったうなり声を牙の間から漏らす凶獣。少年は、掌を下に向けるだけで獣を御した。
「よく覚えていないのであるが、……六百歳は超えているはずなのだ」
何か嫌な場面を思い出したのか、眉を寄せ、困った顔をする少年。
「年下は大好物ですが、イロモノに興味はなくてよ」
乱れた髪を片手ですくい、背中に垂らして笑う歳星。大きく見開いて笑う。
そう、ちょうど白蛇が笑ったらこんな感じだろうという湿った笑顔だった。
天◎祐希さん大好き!