3.アルテミシア
「だ、だれ?」
輝の目は真なる円になっていた。
「わたくしは、アルテミシア・マリア・フニャディと申す者でございます。以後お見知りおきを」
45度±0.5度でお辞儀をするアルテミシア。その動き、ギアとモーターで制御されたように正確だった。
つられて、ペコリと頭を下げる穂乃香と輝。
「そちら様は、穂乃香様と輝様とお見受けいたしましたが?」
「は、はい!」
元気の良い返事は輝のもの。
「その通りです」
輝を横目で睨みながら、用心深い返事は穂乃香のもの。
期待通りの返事に、日の光を思わせる笑みを顔中に広げるアルテミシア。
「おいこら姉ちゃん! おまえ何してくれてんねん!」
臑をかばって、やや前かがみになりながら凄むヤス。目に涙を浮かべているヤス。
「こちら様は、……どなた様で御座いましょうか? わたくしのデーターに入っていないお顔と認識いたしますが?」
笑顔は崩さず、それでいて困ったように細い眉をハの字に寄せる仕種が色っぽい。彼女が動くたび、砲弾型であろう対天使最終決戦形バストが悪魔的に揺れる。
ヤス、アルテミシアのバストから目が離せないでいる。
「いや、あの、か、貸付金回収業者です。ホントです。嘘じゃありません、信じてください! ほら、この通り正式な借用書があります!」
男ならだれでもそうであろう、借用書をアルテミシアに見せて爽やかに微笑んだ。
「その……借金取り様が如何様なご用件で?」
にこやかに笑うアルテミシア。
「このガキ、……いえ、お子様に借金を払っていただこうと交渉中でして、エヘ!」
「違うわ! この人、借金を形に、あたしの体を狙って、イヤらしいことしようとしていたのよ!」
また上手いこと穂乃香が言葉を挟む。
「な、なにゆうて――」
ヤスは声を出せない状況に陥った。
アルテミシアが、黒い腕を伸ばしてヤスの喉に手を食い込ませていた。そして持ち上げる。
ヤスの体を。
片手で。
彼の足は、宙でバタついていた。
「人身売買は違法です」
彼女の笑みが怖い。その笑みの柔らかくて暖かくて優しそうなトコロが怖い。
首から上に血の気が無くなりつつあるヤス。
必死の抵抗虚しく、彼の動きは徐々に散漫となっていき、やがて手足をダランと伸ばすだけとなった。
落ちた……。
アルテミシアは、平和的な笑顔のまま、ヤスをプラプラ揺らしながら表に出た。そして、近くのゴミ収集所めがけ、アンダースローで放り投げる。
きわめて無造作に。流れるような動作でポイ捨て。
ヤスは10メートルの放物線を描いて、不燃ゴミ置き場に軟着陸した。
「さて、お伺いしたいことがございます」
掌を打ち鳴らし、上から見下ろすアルテミシア。乾いた音がやけに大きく響く。
今しがた、片手で大の男を軽々とネックハンギングしたうえに、なにげに投げ飛ばした怪力女。埃を払うために掌をはたいただけなのだが……。
何気ない動作ゆえに、恐るべき破壊力を感じる。輝はもとより穂乃香までもが身震いした。
「このお屋敷の名義が穂乃香様になっておりましたので、穂乃香様宛で参りましたが、大人の方、つまり責任能力を有した成年の方とお話をしたいのですが、どなたか居られませんか?」
「どういったご用件でしょうか? つーか、なんであたしンちに?」
大人という表現にさらに身構える穂乃香。見上げ続けた首が痛い。山脈のごとき胸の向こうに輝く、アルテミシアの見慣れない色の目が怖い。
穂乃香の腰にしがみついた輝。震える手が白くなっている。
そんな穂乃香達を笑顔で見下ろすアルテミシア。瞬きを二回するほどの間だった。
「マイロード、つまり、我が主が滞在先を探しております。この屋敷の一部をお借りできないものでしょうか? もちろん滞在費はお支払いいたします。しかし、契約事は子供相手に出来ません」
困った表情を顔に貼り付けるアルテミシア。騎旗家を選んだ理由は秘めたままだ。
「子供と思ってナメてない? 大きな顔をしないでよね。あなた密入国者でしょう?」
なんとかこちらのペースで事を運びたい。穂乃香はそう思っているようだ。
なにせ、あの怪力とこの外見。ただ者ではない。正直、怖い。
しかし、何とか利用できないか? 借金取りとの交渉を有利に運べないものか?
そして収入源のない穂乃香にとって、下宿代収入は魅力である。幸い、二階は広い。部屋は掃いて捨てるほどある。
「大人の方としか交渉できません」
アルテミシアはペースを崩さなかった。
「少々お待ちください」
穂乃香が、輝の襟首をつかんで後ろへ引っ張っていく。作戦会議である。
「こっちの狙い通りよ。ポーカーでたとえるなら、あたしたちは切り札を何枚も持っている状態なわけよ。あの密入国者の負けは決まったようなもの!」
「いや、何のカードがどれくらいあるのさ? 二階を貸すっていう、たった一枚のカードしか持ってないじゃないの?」
「うるさい! ごちゃごちゃ言わず、黙って私に任せなさい! とにかく、一枚目切るわよ!」
振り向いてにこやかに笑う穂乃香。眉はつり上がったままだが。
「実は、あたしは大人なんです。ほら、日本人て実年齢より若く見えるって言うでしょ? あなた、日本人の年齢、見わけつかないんじゃないの?」
「姉ちゃん、カードを切らずに場へ伏せちゃったよ!」
不利なときほど強気に出る。それが騎旗家の血の掟であった。
強引で無理のある穂乃香の弁を聞いたアルテミシアは、彼女の頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくりと観察した。
「日本人の見た目と年齢は、確かに解りづらいですね。でも、その茶色い制服が小学校のものであることくらいは解っているつもりですが?」
アルテミシアの笑みの中に、ほんの少し、試しの色が見えている。
「姉ちゃん……」
輝は小声で話しかける。
「お姉ちゃんは、『アルテミシアさんはきっと密入国者だ。あの人にとって、それらしい理由があればいい。意地は張らないでおこう』って考えているでしょう?」
穂乃香の目がギラリと光った。
「ふっ! さすが我が弟。考え方としては悪くないわ!」
輝は斜めに傾いだ。どうやら眩暈を感じたようだ。
「それってカードの出し合いじゃなくて、騙し合いっていうか、……ブタの手札を役札と見せかける心理戦、……いや、いやいや、イカサマゲームでしょう?」
「立派なカードゲームじゃない!」
輝は、頭を抱え込んで座り込んだ。
穂乃香は、薄っぺらな営業スマイルを顔に張り付かせ、アルテミシアに向き直った。
「あれは制服じゃなくてコスチューム。あたしは自分の背の低さを活用して、コスプレ風俗に努めているの。当然、風俗で働いている以上、あたしは成年女子よ! 今年で二十二歳よ。わかった?」
トンデモ理論である。
「失礼いたしました。交渉に入らせてください」
「えっ! そんなんでいいの?」
驚く輝と、腕を組んでふんぞり返る穂乃香の前で、深々と頭を下げるアルテミシア。
腹に一物ある彼女。折れるためには、充分な理由であるようだ。
「で、あなたのご主人様はちゃんとした人? 仕事何? お金持ってるんでしょうね?」
矢継ぎ早に質問する穂乃香。これでカードを切らせているつもりらしい。
輝は、また頭を抱え込んでいた。
「マイロードは、お世辞にも由緒正しき人間とは言い難いですが、由緒正しき東欧の貴族です。貴族について、穂乃香様はご存じですか?」
アルテミシアが自分の主人をどう思っているのかはよく解らない。だが、ヨーロッパにおける貴族という人種の権限、及び特権は日本人の想像以上である。アルテミシアはその事を問うたのだ。
「貴族って伯爵のことでしょ? それくらい知ってるわ」
アルテミシアは目を大きく丸く見開いた。
「今、怖いくらい核心を突かれました」
心から拍手をするアルテミシア。彼女は穂乃香に対して、多大な興味を湧かせたようだ。それは好意的な部類に属する興味である。
「でも貧乏貴族じゃしかたないわね」
幼稚な挑発をする穂乃香。先程といい、今といい、実に稚拙なカードの切らせ方である。しかし、アルテミシアは進んでカードを公開していった
「先だって、お城をいくつかと、手持ちの利権をいくつか売りに出しました。そのおかげで、資本金は以前より潤沢となりました」
「契約は成立です。いつからでも二階を自由にお使い下さい」
丁寧に頭を下げる穂乃香。角度は九十度。つられて輝も頭を下げる。
大金持ちと聞いた穂乃香。たった一枚のカードを二つ返事で、見事に切って捨てた。
「有り難うございます」
礼を述べるアルテミシア。その返礼に、より頭を深く下げる穂乃香。角度は百度を超えた。
そんな人としての何かまで捨ててしまいそうな穂乃香に、輝は小声でささやいた。
「お姉ちゃん、アルテミシアさんの主人がどんな人間で、住み込むのは何人なのか? っていった肝心ごとを聞いていないよ」
「人数が増えれば再交渉のネタになるから大丈夫さ!」
片目をつぶり、自信満々にサムズアップする穂乃香。
何度目だろうか、頭を両手で抱え込む輝である。
「マイロードは、穂乃香様と話が合うでしょう」
そんな二人の思惑を知ってか知らずか、アルテミシアはますます笑顔の度を上げた。
「任せておいて。接待の美学と大和魂を教えてあげるわ! そうね、まずは、この下宿荘の名前を考えなきゃね。日本的で、かつ、貴族の好みそうな名前!」
泣きそうになっている輝を無視し、穂乃香の力強く、ややズレた思考に深々と頭を下げるアルテミシア。
「ちょっと待ったれや!」
その瞬間を狙ったかのように、ヤクザモンがアルテミシアを背後から襲った。ヤスである。手に物騒な光り物を握ったストライクモードであった。
「殺したっらァ!」
ヤスは狂気に目を血走らせ、涎を垂らしながらアルテミシアに体ごとぶつかっていく。
「すんません。借金返してもらえへんかったら、僕、帰れませんねん」
顔の右半分を真っ赤に腫らしたヤス。鼻血を拭きながら、これ以上はないというくらい小さく正座していた。
卓袱台の上には、真っ二つに折れたアメリカ海兵隊用アーミーナイフが転がされていた。
「いかほどの借金でしょうか?」
「その、ちょっとです、その……複利ですんで、ちょっと……二千五百万円ほど」
アルテミシアの問いに、小声で答えるヤス。小さな建て売り住宅が買える値段を「ちょっと」扱いするヤス。つい先ほどまであった前歯二本が欠損しまったせいか、喋りにくそうであった。
「1USドルを日本円にして105円で換算いたしますと、たった238095ドルでございますわね?」
瞬時に暗算し、赤いメガネをクイと持ち上げるアルテミシア。
「二千五百万円を!」
「『たった』扱い?」
アルテミシアの金銭感覚に、胸をドキドキさせ見つめ合う輝と穂乃香。
「マイロードの数ある資産の一つ。ニコラエ様がマイロードに貢納されました金額の、数千分の一でございます」
穂乃香に向き直るアルテミシア。自慢げに、赤いメガネをクイっと持ち上げる。
「穂乃香様。この程度の金額なら、すぐに払って差し上げればよろしいでしょうに」
「あ、あいにく今は……チョット持ち合わせが無くて。さっきスーパーの特売で卵買っちゃったモンで。てへ!」
穂乃香の心に悪魔が憑依した。
「仕方ありません。ひとまず、わたくしがマイロードに変わって、立て替えいたしましょう」
小切手を取り出し、数字を書き込むアルテミシア。
「やった!」
穂乃香の目が怪しく光る。
しかし、小切手を切っているアルテミシアの目も、人知れず怪しく光るのであった。
少なくとも、もう一回、連投します。
明日の朝7時頃の予定。