10.水気 対 獣耳
ヴァズロックは、やってくる何かを待っていた。
「ひっ!」
悲鳴を上げる輝。彼の全身を網羅する神経ネットが、圧倒してやってくる何かを捉えたのだ。
「これは、洪水?」
「下がるのだ輝、穂乃香!」
ヴァズロックの瞳が、紅茶色から夕日の赤に変わった。
「秋菜!」
呼び声に振り向く秋菜。
ヴァズロックだった。ヴァズロックが秋菜を呼んだのだ。
秋菜はヴァズロックの赤い瞳をまともに覗き込んでしまった。
ヴァズロックの目が赤く光る。秋菜の意識が、赤い瞳に吸い込まれていく。
彼女の瞳に赤い光が映る。
秋菜の顔から、一切の表情が消えた。口を半開きにしたその様は、秋菜らしくない締まりのない表情だった。
「我が元へ来るのだ。秋菜」
音を立てて片側のマントを跳ね上げるヴァズロック。マントは跳ね上がったまま風もないのにたなびいている。
秋菜は言われるがまま、輝の前を横切り、ゆっくりとヴァズロックに歩み寄っていく。
輝が突っ込んできた。穂乃香ではなく輝がヴァズロックに飛びかかる。
「伯爵! 何やってるのさ? 知らないお姉さん、しっかりして!」
秋菜の腕をつかむ輝。しかし秋菜は、その手を乱暴にふりほどく。勢いで輝は尻餅をついた。
線が細い秋菜のどこに、これほどの力があったのか?
「ちょっと、何よ? 輝、大丈夫?」
輝を助けおこす穂乃香。輝は、いつもと違った穂乃香の優しさが嬉しかった。
「ありがとう穂乃香姉ちゃん。やっぱり優しい――」
見上げた穂乃香の瞳は、ナニカの期待に満ちあふれ、爛々と輝いている。
「ねえ、輝。伯爵って本物のアレじゃないの?」
穂乃香は、いつも通り平常運転中だった。
「安心するのだ輝。これはただのナンパなのだ」
ヴァズロックの手が秋菜に伸びた。
その時!
「待ちやがれっ!」
甲高い大声。バズロックが声の主を見る。
ヴァズロックの視線が仰角になる。そして少なからず違和感を覚える。
なぜ見上げねばならないのか?
ヴァズロックは、あり得ない高さに浮かぶ女子高生を視認した。
そして、背筋を伸ばした綺麗な姿勢のまま固まってしまった。中空の女子高生は、秋菜と瓜二つだったからだ。
春菜である。
彼女が、あの洪水に似た違和感の元だった。
春菜の両手から鋭く伸びた、刀のような爪が、月光を反射し、銀色の光を撒いていた。
弾道軌道を描いてジャンプしたのであろう春菜は、ミッドコース段階を終え、ターミナル段階にあった。イージス艦でも迎撃しにくい位置だ。
直線距離にして四メートル。二者が接触するまで、つまり、瞬きする間に春菜の攻撃がヒットするということだ。
この位置、この距離、迎撃側のヴァズロックがいかに異能の持ち主といえど、不利な立場であろう。さらに背筋が伸びきった体勢。ここから迎え撃つのは難しい。
遅まきながら、ヴァズロックが動く。
秋菜を突き飛ばしたのだ。
反動でヴァズロックの体勢が崩れ、迎撃は完全に不可能となる。
しかし、ヴァズロックに焦りの色は見えない。
ヴァズロックは迎撃も防御も、回避すらしていない。した事と言えば、そこだけは血色のよい唇に、わずかに薄く笑みを浮かべただけだった。
結果からいうと、春菜の攻撃はヴァズロックに届かなかった。
気のきいた者が横槍を入れたからだ。
二階の窓ほどの高さで交差する影が二つ。体をくの字に曲げた春菜と、彼女にチャージしている黒いメイド服姿のシータだった。
シータに弾かれた春菜は、落下しながら姿勢を整え、見事な着地を見せる。
口の端っこだけで笑う春菜。戦闘体勢は整っていた。
一方、弾いたはずのシータは、足以外に手まで付いて着地のバランスを取らねばならなかった。シータの右腕から肩にかけて、月光を反射して輝く刀状の氷柱が、何本も突き刺し貫いていたからだ。
春菜の爪だ。
「なんだてめえ? 邪魔するとナンだぞ! 容赦なくアレするぞ!」
口角泡を飛ばす春菜。彼女の目には狂気の光が宿っている。
シータは、何の感慨もなく右腕に刺さった氷柱を見つめている。何本かは反対側に抜けている。筋組織はもとより、骨まで逝ってしまったかもしれない。
シータはボロボロになった右腕をゆっくりと振り上げ、……勢いよく振り下ろした。
長く赤い血の糸を引きながら、氷柱が抜けて飛ぶ。右手の甲に、太い血の流れができ、音を立てて大地に滴った。……数滴だけ。
「これはまずいのだ」
「ちょっと伯爵! 説明しなさいよ。あのお姉さん誰よ? シータって何者? ねえ、悪いようにはしないから。むしろ利用したいから!」
穂乃香は興奮状態にあった。頬を紅潮させ目を爛々と輝かせている。
「もとより隠すつもりはない。ああゆう事なのだ」
ヴァズロックは、目の前の二人を顎で指し示した。
「お気に入りのお洋服でしたのに」
シータの怪我は回復していた。服に穿たれた穴から覗く肌に、傷の跡は見られない。
「お気に入りのっ! お洋服だったのにぃっ!」
初めて見せる感情の爆発。
茶色だったシータの目が、月の光を反射して黄金色に光った。ミディアムレイヤーの髪が、首筋で逆立ちうねり出す。
「え、なんだコイツ?」
春菜は、シータの豹変に腰が引けているようだ。
シータは唇を丸くすぼめ、空を見上げた。
「ユルルウォーーーーーン!」
小さい口から、周囲の空気を振るわす大音声が飛び出した。
シータの髪押さえが弾け飛び、下から先の尖った獣耳が跳ねおきる。
「え、なに? 付け耳?」
春菜が疑ったのもつかの間。シータの体が一回りも二回りも膨れていき、それにつれて服が裂け、破れていく。
白桃のような肉体がまろび出たと思いきや、全身が黄金の獣毛に覆われていく。
質量保存の法則を無視した生物がこの世にいた。
「ユゥールゥウォオオオオオオオン!」
さらに一ツ咆吼。春菜の眼前に、金色の獣毛に全身を覆われた人型の狼が立っていた。
二メートルを超える身長。たてがみのようなリーゼントロングの髪。何段にも割れた腹筋。のたうつ蛇のような筋肉が浮き出た太い腕。女性のウエストほどもある太股。
手足の指は節くれ立ち、その剛爪は鋼鉄を切り裂くであろう。
ただ、逆三角形に発達した胸筋の上に半球形の柔らかな膨らみが唯一、女性らしさの名残を残していた。
「狼男? ……もとい、狼女? ……語呂が悪いので、アレだ、人……人狼か! ケダモノになったらバストが膨らむ、ってのもツライな、オイ!」
春菜は眉を八の字に寄せて笑っていた。彼女は全く恐れていない。むしろ楽しそうだ。
「ツライのはそちらなのだ。長いので説明は省くが、シータはリュカオンの直系。つまり、血統書付きの純血種である。獣人と化したシータを瞬殺するのは難しいのだ」
秋菜を背に隠すように立つヴァズロック。
先程の余裕は何処へやら、焦る春菜。
「まて! 秋菜をどうするつもりだ!」
「どうするもこうするも、これはナンパである。悪意は全く無いのだ」
ニヤリと白い歯を見せて笑うヴァズロック。
「綺麗なお姉さんは好き?」
バズロックの後ろから、やけに艶っぽい声がした。
振り向くヴァズロック。反射的に目を手でかばった。
小さな粒が、バズロックを激しく打ち付けたのだ。
ヴァズロックに襲いかかってきたのは、豆粒ほどではあるが大量の礫であった。さして痛くもないそれは、闇の住人たるヴァズロックどころか、普通の人間にもダメージを与えることはない。
しかし、いい目くらましになった。
礫を投げた影が、秋菜を抱きかかえ、後方へ飛んだ。異常な距離を一っ飛びで離れてみせる。
「あの狼は、……お側に仕えるお嬢さんでしたか」
声の主は歳星有希子。乱れた髪を掻き上げる。
「ナイス歳星!」
叫ぶ春菜。ウインクで返す歳星。
歳星は、秋菜の顔を覗き込む。秋菜は、目を見開いたまま不反応だった。
「大丈夫です。秋菜さんは催眠術にかかっているだけです。簡単に解けますわ」
「これから始まる惨劇が終わるまで、そのままにしといてくれ。そっちの方が都合良い」
催眠術を解こうとした歳星に、春菜が待ったをかける。
「ちょっと待って! 伯爵は悪い人じゃないんです!」
声を限りに叫ぶ輝。自分でも不思議なくらい腹の底から声が出た。
「わたくし、夕べそこの伯爵様に襲われましたのよ」
「吸血鬼をかばうのか?」
歳星の告白と春菜の問いに、輝は答えを返せなかった。
「我が輩は吸血鬼などではないのだ。夕べも今宵も、罪のないナンパなのだ」
これも言葉に詰まる輝。穂乃香に至っては、腕を組みながら唸っている。
「……輝と穂乃香。その方共、後で話があるのだ。そこで控えておれ!」
怒りを込めて指差確認した後、歳星に向き直るヴァズロック。
「これは……夕べの美しきご婦人」
ヴァズロックの目に再び赤い光が灯る。歳星は、赤い目を見ているのに全く動じない。
「ご機嫌麗しゅう、伯爵様」
優雅な一礼をする歳星。実に嫌みったらしい。
「さて、金剋木といいまして、……わたくし、木気の精霊神は、金気に属する毛虫、すなわち獣毛が生えた獣を苦手としておりますの」
チラリと赤い目でシータを見るヴァズロック。
「一方、金生水といいまして、……詳しい話は端折りますが、水気の精霊神、つまり水神である春菜さんは、金気たる毛虫の狼と相性がよろしゅうございます」
「やれやれなのだ」
嫌そうな顔をするヴァズロックだった。
「そーゆーことだ。……裸虫の姿を借りた毛虫よ! そこ動くなっ!」
瞬間湯沸かし器的に怒りを再燃させた春菜は、真っ直ぐに人狼シータへ突っ込んでいった。直球好きの水神である。
「誇り高き狼は、邪神などに後れを取らぬ!」
獣の吠える声と、春菜が呼吸を詰める音が重なる。シータが打ち出す拳と、春菜が打ち出す拳が正面から激突し、肉と骨が爆ぜた。
シータの右拳が潰れ、骨が見えた。春菜の右手からも拗くれた指が見える。
シータは拳のダメージを無視。春菜に向け、左足で蹴り上げる。
だが、春菜の左ローがシータの蹴りを受けていた。シータが放った蹴りを春菜が蹴り返したのだ。筋肉がぶつかる音と、硬質の骨がしなる音を立てて、二者は間を空ける。
潰れた右拳をプラプラと振るシータ。さすが人狼。傷口は跡形もなく塞がっていた。
春菜が左右の拳を音を立てて打ち合わせている。潰れたはずの手に、怪我の痕はない。
「邪神呼ばわりはひでぇな? 俺様は水神と呼ばれた存在。水芸だってお手の物」
左手で指を鳴らす春菜。
あちこちから激しい水音が聞こえてきた。公園の水道が壊れて、水を大量に吐き出しているのだ。
「再生は人狼だけの専売特許じゃないぜ!」
春菜の気は輝達から離れ、シータに向いていた。
「生命と死を司る水気にとって、こんなもの怪我のうちに入らない。お互い、痛みを感じる前に再生してしまうのが辛いところだよな?」
嫌らしく、声高々に笑う春菜。
「確かにね。一度でいいから大怪我ってのをしてみたいわね」
牙の間から長い舌を覗かせ、ベロリと唇を舐めた。
ジリジリと円を描きながら数センチずつ再接近していく二人。
シータが先に踏み込んだ。治ったばかりの右手を放つ。だが、腕を伸ばしきることなく春菜に迎撃される。春菜の足がシータの腕を蹴り上げていた。
そのまま、春菜の蹴りが、シータの頭を襲う。腕でガードしたものの、春菜の蹴りは予想を超えた重さだった。人狼シータがバランスを崩した。
そこに春菜の後ろ回し蹴りが襲いかかる。これは大きく仰け反ってクリアされた。
「チッ!」
シータが上げた声か? 金色の体毛が千切れる音か?
たたみ掛けるように、春菜の蹴撃が連続で繰り出される。人間の動体視力程度では捉えきれないスピードだ。
その蹴撃を際どい差でかわしていくシータ。いや、シータはかわせるのだ。
「こっ、この!」
シータに向け春菜の右足が蹴り上げられる。仰け反るようにかわした足がシータの顔面を通り過ぎたとき、春菜の左足首がくるりと回転。体をシータ側に傾けた。足のリーチが一気に伸びる。
「でぇい!」
振り上げた足を鉈のように振り下ろす。春菜の踵がシータの左肩口から、右脇腹へと流れ、鈍い音を立てて地面にめり込んだ。
噴出音をたて、シータの肩口から血が吹き出る。春菜の鋭い蹴りが産んだ真空波が、シータの上半身を袈裟切りに切り下ろしたのだ。
「どうだ!」
自慢げに笑う春菜。対して――。
「ふーん」
あまり関心なさそうに傷口を見つめるシータ。彼女は右手を傷口にあて、そして放す。
それだけで血は止まり、傷口も消滅した。
「お互い、再生能力の高さが嫌になるわね。手詰まりを感じてない?」
ニコリともしないシータ。苦虫を噛みつぶす春菜。彼女も手詰まりを感じていたのだ。
しかし、シータはもう一手持っていた。
大きく息を吸い込む。
裂帛の咆吼!
高域に属する大音量の一部は、人間の可聴域を易々と突破していた。いわゆる超音波。
顔の全面でクロスした春菜の腕から、血煙が何本もあがる。肩や腕、腹や腰の制服が鋭利な刃物で切られていく。
長い咆吼が止む。シータの息が切れたのだ。このスキに、春菜は後ろへ飛び下がった。
シータの第二撃が放たれた。今度は重低音だ。
ドスドスと春菜の体に見えない硬球がめり込む。音が空気を固形化し、高速で春菜に降り注ぐのだ。
シータの第三撃。高音域の攻撃が春菜の体を朱に染める。
三回目ともなると手が込んでいた。高音域から低音域へと途中で変化させたのだ。
不可視の斬撃の後に、見えない鉄球が飛んだ。
「がはっ!」
春菜に、吐くような悲鳴をあげさせ、後方へと弾き飛ばす。大きく弧を描いて飛ぶ先にはジャングルジムがあった。無防備に突っ込んでいく春菜。構造材がひん曲がる。
「くっ!」
苦痛を我慢しているのだろうか、春菜は無理に目を開けた。目を開けて、空中のシータと目が合った。
人狼の巨体は、落下体勢にあったのだ。
「これが止めよっ!」
叫びながら、シータは全体重を足に乗せて、春菜に突っ込んだ。




