第五話
私は研究所のビルの隣のスーパーマーケットの中におりました。
いつの間にここまで戻って来たのでしょうか。
涙は止まっています。
釈然としない気持ちで椿に渡された紙を見ると、そこには何処かの住所が記されていました。
紙の右端には『橋職人:桐崎十三』と申し訳程度に記載されています。
なるほど、この住所は桐崎十三なる人物の工房か何かの場所を示すものなのでしょう。
橋職人ならば橋がなくなった事情に着いて知らないはずがありません。これは光明が見えてきました。
私はスーパーマーケットで埃の味がするタバコを買うと外に出ます。
外は雪が降っていました。
これは急いだ方が良さそうです。雪には毒性がありますから吹雪くとまず助かりません。幸い橋職人の工房は瓦礫山の麓にあるようなので、全速力で走れば吹雪く前には到着出来るでしょう。
私はタバコの煙で風の向きを確かめると、煙が飛ばされた方へと走りだしました。
テナント募集中のほぼ廃墟と化したビルを通り過ぎ、大きなブラウン管に映る偶像を尻目に、豚の糞を出汁にしたスープを売りにしているラーメン屋台を吹き飛ばし、私は走ります。このまま吹雪いてはたまらないのです。
私は死にたくないのですから。
夢中で足を動かす私の後ろから息遣いのようなものが聞こえます。ぜえぜえと苦しそうに鳴るその音は一向に私の耳から離れようとしません。
誰かが私を追いかけているのでしょうか。
もしかしたら私は落とし物をしたのかもしれません。そしてそれを拾った後ろの何者かが、親切にも直接届ける為に追いかけてきているのかもしれません。そうでも無ければ他人を全速力で追いかける理由が他に思いつきません。
悠長にしている暇など無いのですが、私は一旦足を止めました。
振り返ると真っ白な髪をした少女が息を切らせて私に追いついて来ます。
私は、何か御用でしょうかと尋ねます。
少女は、もう少しゆっくり移動してくださいと言いました。
ゆっくりと移動しろと頼むのが用であるとは意味が分かりません。
また変な人間に捕まってしまったのでしょうか。
白を基調とする人間にはまともな人間はいないと相場が決まっているようです。
あの真っ白な死体もまともとは言えない性格でした。
私は警戒しながら少女の様子を伺います。
「突然走り出すなんて聞いていませんわ。普段は運動なんざしねえクセにどういう風の吹き回しだよ。何をそんなに急いでいるのですか? 生き急ぐ身分でもねえだろうに」
やはりまともな人間では無かったようです。
ころころ変わる口調は混乱を誘います。私の頭の上ではクエスチョンマークが竜巻を起こしていました。
「もうちょっとペースを落として下さいませんこと? 距離を保ちながら着いて行くのって難しいんだよ」
指摘したい点は多々ありますが、まず私が普段運動をしない人間だという事をなぜ当然のように知っているのか、という点は非常に気になる所です。
まるで私の日常を覗いているかのような発言ではありませんか。
私はそのことを彼女に問いつめました。
「それは私があなたのストーカーだからです。あんたのことなら何でも知ってるぜ。性嗜好はもちろん、趣味や好みの服装まで承知しております。だからあんたが普段運動をしない人間だってことぐらいお見通しだよ」
最悪です。いつの間にか私は監視されていたのです。
ああ、なんと言うことでしょう。こんな不幸が許されるのでしょうか。
いえ、私にだからこそ許される不幸かもしれません。見ず知らずの人間に全てを知られるという不幸など、私以外には起こり得ないでしょう。
雪はどんどん強さを増していきます。このまま死んでしまいたい衝動に駆られます。しかし、このまま雪に埋もれては死ぬ直前に深く後悔する事になるでしょう。
私は塔子を見つけなければならないのです。
とは言えこのまま進むのは得策とは言えません。
私は金魚すくいの屋台を見つけると、そのまま水槽に飛び込みました。
水の中でならば雪を完全に防ぐが出来ます。
金魚達は迷惑そうな顔をしました。私は一言謝罪を入れます。そして水槽の端まで移動しました。
あめ玉のような酸素が上昇するのを見ていると、白い髪の少女が私を追って飛び込んでくる姿が目に入りました。
この少女は何処まで着いてくるつもりなのでしょうか。
とにかく雪がやむまではここでやり過ごさなくてはなりません。
「すごい雪ですね。屋台があって本当に助かったぜ。それにしても、何故あんなに急いでおられたのですか?」
ストーカーでも知らない事はあるようです。
私は橋職人を訪ねる為に瓦礫山の麓に行かなければならない事を告げました。
「なるほどな、けど急ぐ理由にはなってないぜ。橋職人は眠りません。いつ行っても不都合な時間なんて無いはずだ」
ほう、どうやら橋職人という人種は睡眠を必要としないようです。
有益な情報が手に入りました。
しかし知らなかったとは言え、確かに私が急いでいた理由は橋職人に早く会いたいが為ではありません。
私は雪の毒性について説明します。
すると少女は青い顔をして身震いをしました。
「そうだったのですか。確かに雪には毒がある。その毒に免疫のない人間もいるという話は聞いたことがありますが、あなたがそうだったとは知りませんでした。ストーカー失格だなこりゃ。あなたが死んだなら私も死ななくてはなりません。なるほどそう考えりゃあ俺も雪の毒で死ぬ可能性のある人間だってことだな。恐ろしい事です」
このストーカーはどうやら死後の世界まで着いてくるつもりのようです。
不幸を嘆いておきながらこんな事を言うのはなんですが、そこまで着いてくるつもりなら中途半端ではなく、もっとしっかりストーキングをするべきだと思います。
自分の志す事に対しては真剣に取り組まなくてはなりません。
私のような人間がこれを口にする資格は無いので言葉にはしませんが、彼女はもう少ししっかりとするべきです。
「でもどうするよ。金魚の住む水槽は水が燃えてしまいます。まあこの水槽は新しいから暫くは保つだろうが、長居は出来ないぜ。水が燃える前に次の避難場所を決めておいた方が良いでしょう」
確かに彼女の言う事には一理あります。いえ、二理も三理もあるでしょう。
燃えた水に触れると水火傷を負います。水火傷は治りが遅いのでとても厄介なのです。
しかし、彼女は一つ見落としています。
雪で水かさが増せば水が燃える事はありません。かさが増せば増すほど水は新しくなるのですから。
私は彼女にその事を伝えました。
「ああそうか。確かにそうですね。盲点だったな」
彼女は納得したようでした。
私たちは大人しくここで雪が止むのを待てば良いのです。
しかしどうしたものでしょう。待つと言っても私は彼女の事をほとんど知りません。私は人見知りなのです。とてもではありませんが自分から話題を振る事などできません。
私は頭を捻ります。頭の中で皺だらけの物体が不気味な音をたてているのが聞こえます。
そうです。自己紹介です。知らない人間にあったからには自己紹介をしなければなりません。邑に会った時も自己紹介をしましたし、百合子に会ったときもそうでした。
とは言え彼女は私の事を知っています。知らなくて良い事まで知っています。
ならば私が彼女の一切合切を知るべきでしょう。
早速私は彼女に名前を聞きました。
「私ですか? 俺は塗壁加楠ってんだ。改めてよろしくお願いいたします」
塗壁加楠と名乗った白髪の少女は可憐に笑います。
「ようやくお前に自分の事を伝えられたぜ。ストーカーは自分から名乗る事を禁じられていますから、私、今とても嬉しいです」
ストーカーも色々な制約の中で生きているようです。決して楽な商売ではないという事が判りました。
私は何故そんな職業を選んだのか加楠に質問しました。
「そうだなあ……ストーカーというのは相手に与える為の愛も持っていなければ、相手の愛を受け止める器もありません。けど相手を想う気持ちだけはあるんだ。とても曖昧なのです。つまり俺はそう言う人間だから、なるべくしてストーカーになったわけだよ。これ以外に道などなかったのです」
どうやら加楠は難儀な性質を持った人間のようです。彼女の話を聴けば、ストーカーというのは職業というよりは生き様のようなものなのだという事が良く判ります。ここは彼女に敬意を払うべきでしょう。
まだ雪はやみません。私は足りない頭を振り絞って次の質問を考えます。
いちいち会話をするのに頭を使わなくてはならないなんて、自分の対人能力のなさを呪うばかりです。
三秒ほど悩むと私はようやく質問を思いつきました。
それは加楠が何故分けの分からない口調で喋っているのかという事です。そんな口調では相手どころか自分も混乱してしまうのではないでしょうか。
「それは私が両性具有だからです。どっちか一つの性に決めて生きるなんて勿体なくて出来ねえよ」
加楠には驚かされっぱなしです。私は事実というものがいかに人間を疲弊させ消耗させるのかを今この身に実感しています。
「あなたはどうして橋職人に会いたいのですか?」
今度は加楠が私に質問を投げかけました。
私は塔子を捜している事を白状しました。
「ああ、いつもお前の隣にいた女の子な。居なくなってしまったのですね。そりゃあお気の毒だ。協力したい所なのですが、私に出来る事と言えば三歩下がってあなたを見守る事くらいです。すまねえな」
加楠は嫉妬している風でもなく私に謝罪しました。彼女くらい志の高いストーカーともなると嫉妬という感情の無意味さを痛いほどよく知っているのでしょう。
しかしそんなことよりも、私は一人の少女に頭を下げさせてしまった自分を恥じます。この事実は私の人生の汚点として一生残り続けるでしょう
言い訳などたつはずがありません。
反省しなければ。
私が鬱々とした気分で反省していると、突然金魚達の挙動が激しくなりました。
どうやら雪がやんだようです。
そろそろ行かなくては水が燃えてしまい、私たちは大水火傷を負う事となるでしょう。
私は加楠に背を向けると、行こうと声を掛け、水槽から抜け出したのでした。




