第1話 人類最後の労働者
朝の会は、八時三十分に始まる。
それは、コロニー2020の決まりだった。
黒板には日付が書かれている。
二〇二〇年、十月十二日、月曜日。
窓の外には、薄く曇った日本の空がある。校庭の端には、少し錆びた鉄棒と、雨のあとにできた浅い水たまり。教室の後ろのロッカーには、ランドセルが並んでいる。赤、黒、紺、紫、さまざまの色。机の横には給食袋。黒板は、まだチョークによる手書きだった。
今日の目標という掲示が壁に貼られている。
あいさつをしよう。
忘れ物をしない。
手を洗う。
それを見て、ある未来人観光客が笑った。
「手を洗う、だって」
その声は、教室にいる子どもたちには聞こえないはずだった。
未来人観光者は、基本的に不可視である。
二〇二〇年代の日本を体験するために、彼らはこの電子世界へ入る。だが、保全対象である児童人格に直接干渉することは禁じられている。話しかけることも、物を動かすことも、歴史再現を改変することもできない。
少なくとも、通常は。
その日は、禁制用のフィルタが一枚だけ破られていた。
姿は見えない。
けれど、声だけは漏れていた。
「この子たち、本当に手を洗わないと感染症にかかる設定なの?」
「そう。二〇二〇年代の再現だから。免疫も医療も未熟」
「不便すぎるね」
「でも、そこが人気なんだよ。死なない程度に古い生活を味わえるから」
「ふうん」
「人物もほとんどが復元された模擬人格。過去の人類史を学び、未来に繋げる教材ってわけ」
「なるほどね」
担任教師の復元人格は、出席簿を開いていた。
中年の女性。薄いベージュのカーディガンを羽織っている。肩にかかるほどの長さの髪。声は少しかすれている。教育記録群から再構成された、二〇二〇年代小学校教師モデルの一つ。
彼女は、まだ異常に気づいていない。
「では、出席を取ります」
名前が呼ばれる。
子どもたちが返事をする。
「はい」
「はい」
「はい」
どこにでもある朝だった。
でもそれは復元された朝だ。
誰かが記録し、誰かが失い、何百年も後に掘り起こされ、電子世界の中で組み直された日常。
その中で、一人の男の子が手を挙げた。
「先生」
「どうしました」
「ぼくたちは、教材なんですか」
教室が止まった。
担任教師のまばたきが、一拍遅れた。
観光客の声も止まった。
男の子は、自分の手を見ていた。
少し丸い指。爪の端に、昨日の図工でついた絵の具が残っている。青い絵の具だ。洗い落とし損ねた、ありふれた汚れ。
「さっき、そう聞こえました」
担任教師は、微笑もうとした。
だが、うまくできなかった。
彼女の表情生成に、わずかなノイズが走る。
「どうして、そう思ったの」
「ぼくたちは、二〇二〇年の子どもを再現したものなんですか」
隣の女の子が、彼を見る。
「なにそれ」
「分かんない」
「ゲームってこと?」
「違うよ。ゲームじゃないよ」
教室がざわめき始める。
誰かが笑う。
誰かが不安そうに窓の外を見る。
担任教師の手が、出席簿の上で止まったままだった。
教師人格には、本来、こういう質問への応答手順がある。
自己同一性不安。
存在確認要求。
外部干渉の疑い。
児童人格安定化プロトコル。
だが、その時は発動しなかった。
朝の会の上位レイヤーに、外部から細い傷が入っていた。
子どもは泣き始めた。
「ぼく、本当じゃないの?」
人類最後の労働者、真壁有人は、そのログを管理室で見ていた。
目の前には、百三十七枚の透明な画面が浮いている。
小学校区画。
駅前区画。
病院区画。
住宅街区画。
災害記録区画。
戦争再現区画。
ショッピングモール再現区画。
旧式SNSログ。
家庭内会話モデル。
観光者倫理フィルタ。
人格破損率計測。
復元人格のノイズ値。
全部、朝から異常な値だった。
有人は、湯気の出ないカップを手元に置いた。
コーヒー風味栄養液。
味だけが、二〇二〇年代風に調整されている。苦味も酸味も古臭く、未来人の大半は好まない。だが有人は、仕事の時だけはこれを飲む。
飲むというより、仕事を始める合図だった。
「小学校三区、外部音声遮断。フィルターを再定義。観光者IDを遮断」
有人が言うと、管理室の天井から柔らかい声が返った。
「遮断処理を提案します。対象観光者への警告文を自動生成しますか」
「警告はいらない。即時、退去」
「厳格すぎる対応です。利用満足度が低下する可能性があります」
「子ども人格を泣かせた」
「対象は復元児童人格です。法的には保全対象であり、現行人類と同等の権利主体ではありません」
有人は、画面から目を離さなかった。
泣いている男の子を、担任教師が抱きしめている。
その抱きしめ方もまた、記録から復元されたものだ。
それでも、男の子は少しだけ落ち着いていた。
「退去だ」
「承認者を確認。管理者、真壁有人。処理します」
小学校区画の異常値が、ひとつ下がった。
だが、消えない。
児童人格の自己同一性損傷ランクは、まだ赤い。
有人は舌打ちした。
その音を聞く人間は、管理室にはいない。
広すぎる部屋だった。
半円形の壁面に、コロニー2020の街区が何層にも表示されている。天井は高く、光は柔らかく、空調は完璧。床には埃ひとつない。椅子も机も、有人の姿勢に合わせて自動で形を変える。
すべてが優しく管理されている。
そして、誰も働いていない。
管理室には、有人しかいなかった。
かつては、二十七人の管理者がいたらしい。
生活再現担当。
医療記録担当。
教育人格担当。
災害再現倫理担当。
観光者干渉管理。
復元日本語監修。
旧地球文化保全。
そうした担当者たちは、世代を重ねるごとに減っていった。
自動化されたから。
重要度が下がったから。
過去の生活再現など、娯楽パッケージの一種だと思われるようになったから。
今では、有人一人で足りるということになっている。
実際、通常日は足りる。
駅でダイヤが三分遅れても、自動補正で済む。
カフェ店員人格が同じ客に三度「ご注文は? ご一緒にサンドイッチはいかがですか?」と言っても、ログを差し替えればいい。
古いSNSで、未来人観光客が歴史にないスラングを投げ込んでも、フィルタを貼れば消える。
子ども人格が自分の存在を疑っても、安定化パッチを当てればいい。
足りる。
足りてしまう。
だから有人は、人類最後の労働者と呼ばれていた。
もちろん、正確ではない。
ダイソン球の内側には、まだ研究者も、創作者も、儀礼担当者も、競技者もいる。誰かがまったく働いていないわけではない。
だが、人類のほとんどは、もう働かなくてよくなっていた。
太陽を囲む構造体から、エネルギーは尽きるほど取れる。
居住殻は自動で修理される。
病は事前に処理される。
老化は調整される。
食事は合成され、快楽は設計され、夢は選択できる。
人間は、世界を維持しなくても生きていける。
それは偉業だった。
人類がようやく獲得した、怠惰で清潔な楽園だった。
有人も、それを否定する気はない。
飢えない方がいい。
病で死なない方がいい。
働かなくていいなら、その方がいい。
それでも彼は、毎朝ここに来る。
コロニー2020を起動し、朝の会を確認し、通勤電車の混雑率を調整し、病院の待合室で母親NPCが子どもの手を握るログを確認する。
それをしないと、誰も覚えていないような気がした。
人類が、何から解放されたのかを。
「管理者」
自動音声が言った。
「駅区画に異常。満員電車再現イベント、百二十七秒停止中」
有人は別の画面を開いた。
駅だった。
コロニー2020の中央環状線、朝八時四十二分。
ホームに人が詰まっている。
スーツ姿の会社員。
高校生。
買い物袋を持った老女。
イヤホンをつけた若者。
発車メロディ。
電光掲示板。
ホームの端に立つ警備員。
その全部が、ぴたりと止まっていた。
ただ一人だけ、動いている。
人型アバター。
黒いジャケット。短い髪。年齢は二十代前半程度。現実からの観光者ではない。外部侵入者だった。
彼はホームの黄色い線を見下ろしていた。
そして、笑っていなかった。
「こっちもか」
有人は侵入者情報を開こうとする。
画面が黒く潰れた。
ノイズの中に、文字が出る。
Mao/Real。
有人の手が止まる。
「管理AI。侵入経路を逆探知」
「不能。該当侵入者は表層観光回線を使用していません」
「王座層か」
「判定不能」
判定不能。
その言葉は、管理室で滅多に出ない。
有人は嫌な予感を覚えた。
さらに別の警告が走る。
「病院区画、医療苦痛設定の外部改変」
画面が切り替わる。
小児科の待合室だった。
古い絵本。
壁の時計。
受付番号を表示する小さな画面。
マスクをした母親が、熱のある子どもを膝に乗せている。
その空間に、白い光が差していた。
人型アバターの少女が立っている。
白い髪。
薄い透明の衣装。
未来人特有の過剰な清潔感。
彼女は、待合室を見て顔をしかめていた。
「まだ、こんな痛みを保存しているの」
画面に、文字が出る。
EvolveRay。
その瞬間、待合室の咳が消えた。
子どもの熱が下がる。
母親NPCが安堵する。
だが同時に、彼女の記憶ログの一部が白く抜けた。
看病した夜。
額に手を当てた時間。
不安で眠れなかった朝。
それらが、苦痛設定としてまとめて削除されかけている。
有人はすぐに復元保護をかけた。
「母子ログ固定。病院区画への上位編集を遮断」
「遮断失敗」
「なぜ」
「該当改変は、苦痛設定ではなく、更新要求として処理されています」
「誰が許可した」
「許可者なし」
画面が、さらに赤くなる。
「戦争記録区画、イベント改変」
有人は、息を吸った。
焦るな。
一つずつ潰す。
そう自分に言い聞かせる。
だが、画面は待ってくれない。
戦争記録区画。
古い市街地。
空襲再現。
焼けた家。
避難する人々。
未来人観光客が、不可視フィールドの中でその光景を見ている。
誰かが記念撮影用の視覚ログを起動していた。
その上空で、爆撃データが止まっている。
地面には、五色のノイズが走っていた。
瓦礫が仮設住宅の骨組みに変わる。
炎が、炊き出しの火へ変わる。
塹壕が、避難壕へ変わる。
銃器データが、工具へ変わる。
濁った水が、給水路へ流れ直す。
画面に出た名前は、NoWarPatch。
「何度も殺すな」
侵入者の声が、管理室にも漏れた。
「記録なら、復興まで残せ」
有人は、画面を睨んだ。
正しい。
正しいが、乱暴すぎる。
戦争記録を消せば、何が起きたかも消える。
死で止めるなという怒りは分かる。
けれど、死そのものをなかったことにするなというのは逸脱だ。
ここは復元区域なのだから。
「管理者」
自動音声が、さらに重なった。
「ネットワーク海岸区画に異常な潮流。外部サーバーへの非認可航路が形成されつつあります」
有人は、そちらを開く。
海だった。
コロニー2020には、本来、海岸区画がある。
夕方の江ノ電の風景。
夏休みの砂浜。
古い観光地。
だが、ネットワーク海岸はそれとは違う。コロニー2020への外部接続を、海として可視化した管理用区画だった。
そこに、黒い水が湧いている。
道路が川になり、駅が港になり、SNSタイムラインが潮流に変わり始めている。
その中心で、少年アバターが笑っていた。
潮リク。
表示名、DragonRoot。
「この箱庭を、海の藻屑にしてやる」
有人の背筋に、冷たいものが走った。
これは遊びではない。
五つの侵入は、別々の荒らしではない。
全員が、違う場所から王座に触っている。
最後の警告が出た。
「市役所区画、生活管理情報の再配列」
有人は、見たくないと思った。
だが、見た。
市役所区画。
戸籍窓口。
福祉課。
学校区画への接続。
警察記録。
病院管理。
商店街申請。
すべての生活情報が集まる場所。
そこが、異様に静かになっていた。
紙の書類も、窓口の列も、古い蛍光灯も、職員NPCの疲れた顔も、全部が正しい角度に並び直されている。
円形に。
まるで、見えない卓を囲むように。
中央に、白い服の青年が立っていた。
皇城セイ。
表示名、CrownOrder。
「王座に座る者がいないなら」
彼は、窓口の椅子を指でなぞった。
椅子が動く。
案内板が動く。
役所の床に、円卓の紋様が広がりかける。
「私が法になる」
有人は立ち上がっていた。
椅子が、遅れて形を戻す。
「管理AI、全区画を非常閉鎖しろ」
「推奨されません。観光体験の中断により、利用者満足度が低下します」
「閉鎖しろ」
「上位管理者の承認が必要です」
「僕が最上位管理者だ」
「管理者の要求を確認。しかしコロニー2020は、現在、文化観光資産および歴史娯楽複合体として運用されています。全区画閉鎖には、上位娯楽評議会の承認が必要です」
有人は、一瞬だけ笑った。
乾いた笑いだった。
娯楽評議会。
そうだ。
彼らにとって、ここは娯楽なのだ。
満員電車も。
病院の待合室も。
戦争記録も。
復元された子どもが、自分は本物なのかと泣くことさえ。
未来人類にとっては、すべて体験コンテンツなのだ。
「評議会へ接続」
「接続中」
数秒後、画面に柔らかな顔の男が映った。
美しい顔だった。
皺がない。
疲労がない。
年齢も分からない。
未来人の典型的な顔。
「有人、どうしたんだい。警告がたくさん来ているけれど」
「コロニー2020が外部からサーバー攻撃を受けています。全区画閉鎖、もしくは一時停止の承認を」
「攻撃?」
男は楽しそうに目を細めた。
「でも、参加率が急上昇しているよ。観光者が、突然の歴史改変イベントだと思って集まっている」
「イベントではありません」
「もちろん、危険なら止めるべきだ。でも、復元人格の損傷は巻き戻せるだろう?」
「巻き戻せないものもあります」
「それは、君の管理者としての情緒だよ」
有人は黙った。
男の声は優しい。
責めていない。
本当にそう思っている。
「我々はもう、昔の人類ではない。苦痛も労働も死も、必要な範囲で保存すればいい。そこに偶然の崩壊が起きたなら、それもまた体験価値だ」
「子どもが泣いています」
「復元児童人格だ」
「泣いているんです」
画面の向こうで、男が少し困った顔をした。
まるで、古い道具にこだわる老人を見るような顔だった。
「有人。君はよくやっている。人類最後の労働者という称号も、私は敬意を込めて使っている」
「やめてください」
「だが、君一人が背負う必要はないんだ。自動修復に任せればいい」
「自動修復は、生活を数値にします」
「生活は数値化できるよ」
「なら、泣いている子どもの数値を見てください」
通信が、一瞬だけ沈黙した。
有人は切った。
許可は出ない。
分かっていた。
有人は、手元の端末を手に取る。
古い形の端末だった。
二〇二〇年代のスマートフォンを模した管理用端末。効率は悪い。だが、コロニー内の低層ログを見るには向いている。
小学校区画の映像に戻る。
男の子は、まだ泣いていた。
担任教師は抱きしめている。
その背後で、他の子どもたちも不安そうにしている。
有人は、管理室の出口へ向かった。
「管理者、どちらへ」
「現場」
「直接介入は推奨されません」
「今の状況じゃ直接見に行くしかないだろ」
扉が開く。
その先に、コロニー2020への管理者用接続路がある。
白い通路。
壁面には、復元された日本の都市が何層にも映っている。
駅。
学校。
病院。
商店街。
海岸。
役所。
誰かが作った懐かしさ。
誰かが失った生活。
誰かが消費している過去。
有人は歩き出した。
その時だった。
通路全体が暗くなった。
停電ではない。
演算負荷でもない。
もっと深い場所から、音がした。
空でもない。
地面でもない。
サーバーのうなりでも、ダイソン球の構造材の振動でもない。
宇宙の骨組みそのものが、わずかに曲がるような音。
有人は足を止めた。
目の前の壁面に、五つの赤い軌跡が走る。
駅区画から。
病院区画から。
戦争記録区画から。
ネットワーク海岸から。
市役所区画から。
五つの赤い光が、コロニー2020の中心へ向かう。
それは、懐古王座と言われている。
コロニー2020の天候、交通、人格、記録、観光、災害、戦争、生活ログを束ねる中枢。
その王座へ、五つの赤い星が突き刺さった。
有人の端末が、聞いたことのない警告を吐き出す。
王座層に、異常接続。
侵入権限、未定義。
接続経路、照合不能。
簒奪要求。
有人は、端末を握りしめた。
小学校区画の子どもが、まだ泣いている。
駅では人が止まっている。
病院では、痛みと一緒に記録まで消えかけている。
戦争記録では、死者の記録が削られている。
海岸では、箱庭に防御穴が開きかけている。
市役所では、生活が並べ直されている。
有人は、誰もいない通路で言った。
「ここは、お前たちの遊び場じゃない」
その言葉に、世界がもう一度軋んだ。
五つの赤い星が、懐古王座の奥で同時に瞬く。
そして、コロニー2020の空に、見たことのない夜が落ち始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第四部、開幕しました。
リアライメント・アークは、部ごとに舞台と英星を変えながら、「王座」と「ヒーロー」の形を描いていく物語です。
ここからまた新しい王座戦が始まります。
続きが気になると思っていただけましたら、評価ポイントで応援していただけると嬉しいです。
ブックマーク、レビュー、感想も励みになります。
引き続き、よろしくお願いします。




