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英星王座戦 リアライメント・アーク  作者: 明丸 丹一
海冠帝国オルドマーレ
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第9話 龍鱗艦《ドラゴンスケイル》

 夜明け前の海は、まだ黒かった。


 黒鯉号は、潮に逆らって進んでいる。


 船首の先では、昇龍が曳き綱をくわえていた。黒い背鰭が、暗い海面をゆっくり裂いている。尾が一度動くたび、黒鯉号の船腹に重い振動が伝わった。


 その振動にも、船の者たちは慣れ始めていた。


 慣れたくないものにも、人は慣れる。


 甲板では、誰も大声を出していない。


 サヤは槍を抱いて座り、目を閉じている。眠ってはいない。肩の傷が痛むのか、時折眉を動かす。


 トマは小舟に積む縄を確認している。何度も数え直し、そのたびに足りない気がして首をひねる。


 リーネは薬箱を膝に置き、中身を三つに分けていた。黒鯉号用。小舟用。収容区画へ持ち込む用。


 マルクは海図を抱えたまま、月明かりもない空を見ている。帝国海図に載る潮の線と、昇龍が破っていく現実の潮を、頭の中で必死に合わせているのだろう。


 ガルドだけが、いつもと少し違った。


 舵輪のそばに立ち、遠い西の海を見ていた。


「西の果ての、さらに外に」


 突然、ガルドが言った。


 ナギは船首から振り返った。


「何だよ」


「新大陸があるって話を聞いたことがある」


 トマが顔を上げる。


「新大陸?」


「ああ。白冠海を抜けた先だ。帝国の灯台も、検疫港も、徴税船も届かない。海図の端に、半分だけ描かれてる。あとは水夫の与太話だ」


 ガルドの声は、いつものように低かった。


 だが、いつもより少し遠くを見ている声だった。


「麦が、人の背より高く育つらしい。牛も豚も、数えるのが馬鹿らしいほどいる。川には魚が勝手に飛び込み、木には甘い実が腐るほど成る。民は裸足で笑って暮らしていて、王の名も税の決まりもろくに知らん」


 トマが鼻で笑った。


「嘘くせえ」


「半分は嘘だろうな」


 ナギが聞いた。


「残り半分は?」


 ガルドは少し笑った。


「船乗りは、嘘だけじゃ遠い海を渡れん」


 甲板に、小さな沈黙が落ちた。


 新大陸。


 帝国の外。


 灯台の外。


 台帳の外。


 誰も登録労働民と呼ばれず、誰も検疫証を見せず、誰も帝国の港に入れてくれと頼まなくていい場所。


 そんな場所が本当にあるのなら。


 ナギは昇龍の背を見た。


 黒い背鰭は、もう小さな岩礁のようだった。


 こいつがもっと船を噛めば。


 黒鯉号が、本当に龍の船になれば。


 帝国の普通の船は、たぶん追いつけない。


「これが終わったら」


 ナギは、ぽつりと言った。


「そこを目指すのもいいかもな」


 トマが笑った。


「肉があふれてるんだろ? 俺は行く」


 リーネが顔を上げる。


「薬もあるなら」


「薬草もあるさ」


 ガルドは適当に言った。


「たぶんな」


 リタが船室の入り口から顔を出した。


「麦もある?」


「辺り一面金色の海のようだそうだ」


「肉も?」


「肉もあるだろうな」


「魚は?」


「魚もだ」


 リタは少し考えた。


「じゃあ、昇龍もお腹いっぱい?」


 ナギは一瞬だけ笑った。


 昇龍が、その声を聞いたのか、低く喉を鳴らした。


 船底で聞いた舟唄の名残は薄い。


 だが、今の声には、不思議と機嫌のよさがあった。


 ナギは、その夢を少しだけ見た。


 黒鯉号が、白冠海を越える。


 帝国の灯台が後ろに消える。


 追っ手は来ない。


 海図のない海を、昇龍が切り開く。


 船倉の者たちは、どこか豊かな岸辺へ降りる。


 畑がある。


 肉がある。


 子どもが腹いっぱい食う。


 リタが魚を釣る。


 サヤが槍を置く。


 リーネが病人ではなく、畑の薬草を見る。


 トマは食い意地が張ってるから、嘘みたいに太るかもしれない。


 ガルドが、海を見ながら酒を飲む。


 自分は。


 ナギは、自分が何をしているのか、うまく思い描けなかった。


 そこでも船長なのか。


 それとも、ただ飯を食っているだけなのか。


 分からなかった。


 ガルドが、ぽつりと言った。


「これが、終わればな」


 その言葉で、夢は少し冷えた。


 終わるのか。


 何が終わればいいのか。


 帝国か。


 奴隷――労働登録制度か。


 黒龍の名か。


 昇龍の成長か。


 ナギ自身にも、もう分からなかった。


 その時、見張り台のエリオが声を落として言った。


「灯りが見えた」


 全員が顔を上げる。


 前方の海。


 朝霧の向こうに、白い光が滲んでいる。


 灯台だった。


 再配置港、カスティリア。


 新大陸の夢は、そこで終わった。


 目の前には、人売りの港がある。


 ナギは深く息を吸った。


「配置につけ」


 誰も返事をしなかった。


 だが、全員が動いた。


 カスティリアは、朝霧の中にあった。


 最初に見えたのは、灯台だった。


 白い石の塔。


 その下に、台帳館。


 さらに北側に、鉄格子のある長い収容区画。


 西には倉庫群が並んでいる。


 南には小舟桟橋。


 東には深い水路があり、大型船が入れるように整えられている。


 外港には低い砲台。


 信号塔。


 検疫小屋。


 港湾兵の詰所。


 そして、収容区画の窓の奥に、顔が並んでいた。


 人の顔だ。


 数えきれない。


 鉄格子の内側で、朝霧の中の黒い旗を見ている。


 誰かが気づいた。


 黒龍だ。


 声は届かない。


 だが、ざわめきは見えた。


 ナギは、口の中が乾くのを感じた。


 鎖が港の形をしている。


 カスティリアは、まさにそれだった。


 人を集める。


 番号を確認する。


 名を消す。


 行き先を分ける。


 水と食料を積む。


 船へ載せる。


 鉱山島。


 造船所。


 砂糖島。


 懲罰労働区画。


 そのすべてへ人を回すための港だった。


 ナギは手を上げた。


「やるぞ」


 昇龍が海へ沈んだ。


 黒鯉号の船腹に、低い振動が走る。


「黒潮波動! 撃て!」


 第一波は、外港砲台へ向かった。


「濡らすだけだ!」


 ナギは叫ぶ。


 黒い波動が海面すれすれを走った。


 砲台の手前で水が爆ぜる。


 塩水が砲門へ降り、火薬箱の上へ飛び込む。


 砲兵たちが慌てて箱を閉める。


 一つ。


 二つ。


 砲台が沈黙する。


 だが、カスティリアは待っていた。


 黒龍を。


 砲は一か所に集まっていない。


 低い壁の裏。


 倉庫の屋根下。


 東水路の入口。


 小型の分散砲が、黒鯉号を狙う。


 さらに火薬は防水箱に入っていた。


 黒潮をかぶっても、すぐには死なない。


 マルクが叫んだ。


「対策済みだ!」


 ガルドが舵を切る。


「想定通りだ! 止まるな!」


 黒鯉号が防波堤を抜ける。


 修理した偽黒龍の船が、囮として東水路へ向かう。


 アレイオンから借りた小舟三隻は、南桟橋を目指す。


 中継船は黒鯉号の後ろで揺れながら続く。


 港中に鐘が鳴った。


 サヤが北桟橋へ飛び移る。


 その後ろに、ゼルたち若者が続いた。


 槍、斧、縄、金具外し。


 武器と道具の区別がつかないものばかりだ。


「収容区画へ!」


 サヤが叫ぶ。


 トマは西倉へ向かった。


「水! 肉! 保存パン! 薬箱! レモン! 火薬庫には近づくな!」


 リーネは小舟の一つに乗って、南桟橋へ向かう。


「病人と子どもから! 歩ける人は荷物を持って! 押さないで!」


 その声は、戦場の中では細かった。


 だが、彼女の声を聞いた黒鯉号の者たちは動いた。


 もう、ただの逃亡者ではない。


 それぞれに役割がある。


 それでも、収容区画の扉は開かなかった。


 帝国兵が内側から封鎖している。


 サヤが槍の柄で打つ。


 開かない。


 若者たちが斧を入れる。


 開かない。


 中から、人々が扉を叩く音がする。


 声がする。


 ここだ。


 開けてくれ。


 黒龍。


 黒龍。


 ナギは船首から見ていた。


 あそこを壊せば早い。


 昇龍ならできる。


 鉄の扉ごと、壁ごと吹き飛ばせる。


 だが、中には人がいる。


 ナギは拳を握った。


「サヤ!」


 サヤが振り返る。


「少し待って!」


「待てない!」


 収容区画の横から、港湾兵の一隊が出てきた。


 盾を構えている。


 盾の表面には、油を塗った布が張られていた。


 黒潮を滑らせるための対策だろう。


 ナギは舌打ちした。


「昇龍、足元に!」


 黒潮が石畳の上を走る。


 兵に直撃させない。


 足元だけを濡らし、滑らせる。


 盾列が崩れた。


 サヤたちはその隙に扉の留め具へ斧を入れた。


 ゼルが叫ぶ。


「押せ!」


 内側からも人が押す。


 木と鉄が軋む。


 扉が開いた。


 収容区画から、人が溢れた。


 最初は、誰も走れなかった。


 長く閉じ込められた者は、自由になった瞬間、走り方を忘れている。


 女が泣く。


 老人が膝をつく。


 若い男が空を見上げる。


 子どもが、黒い旗を見て固まっている。


 サヤが叫んだ。


「走るな! 病人と子どもから! 南桟橋へ!」


 誰もすぐには従わない。


 当然だった。


 彼らは軍隊ではない。


 ただ、今日どこかへ送られるはずだった人々だ。


 ナギは船首から叫んだ。


「逃げろ! でも押すな! 船は沈む!」


 自分でも、ひどい命令だと思った。


 逃げろ。


 押すな。


 急げ。


 待て。


 全部を同時に言っている。


 だが、それが救助だった。


 トマの方では、西倉が開いた。


 水樽が転がる。


 保存パンの箱が運ばれる。


 豆袋が担がれる。


 薬箱が見つかった。


 レモンの木箱を見つけたトマが一瞬笑った。


「お宝だ」


 次の瞬間、彼は顔を引き締めた。


「食うのは後だ! 運べ!」


 ゼルたちは、収容区画の前で人の流れを押さえようとしていた。


 彼らも混乱していた。


 自分たちも逃げたい。


 けれど、逃がす側にも立っている。


 ナギはそれを見た。


 船底で番号札を下げていた者たちが、今は別の誰かを押し潰さないように腕を広げている。


 それは勝利に見えた。


 その時、信号塔から赤い旗が上がった。


 ガルドが叫ぶ。


「白冠艦隊を呼んだぞ!」


 霧の向こうで、遠い鐘が鳴った。


 白冠号。


 英星エクススター、アルトリウス。


 帝国女王、そして君主タイクーン、レオノーラ。


 ナギは奥歯を噛んだ。


「急げ!」


 港の奥で、分散砲が火を噴いた。


 黒潮で黙らせきれなかった一門だ。


 砲弾は南桟橋へ落ちた。


 小舟の一隻が大きく跳ねた。


 人々が悲鳴を上げる。


 リーネが転んだ。


 病人を抱えた男が、海へ落ちかける。


 ナギの頭に血が上った。


 昇龍も反応した。


 海が黒く膨れる。


「待て!」


 ナギは叫んだ。


 間に合った。


 昇龍の波動は砲台そのものではなく、砲台の前の石垣を叩いた。


 石が砕け、砲台が傾く。


 砲は撃てなくなった。


 だが、砕けた石が南桟橋へ降った。


 木の桟橋が一部崩れる。


 そこに係留されていた退避用の小舟二隻が、横倒しになった。


 ナギは息を止めた。


 壊した。


 敵は止めた。


 同時に、逃がす船を壊した。


 リーネが叫ぶ。


「こっちの船、使えない!」


 マルクが怒鳴った。


「だから桟橋は壊すなと言った!」


「分かってる!」


 ナギは怒鳴り返した。


 だが、その声は怒りではなく、悲鳴に近かった。


 収容区画から出てくる人数は、多すぎた。


 黒鯉号。


 中継船。


 修理船。


 アレイオンの小舟。


 全部を合わせても、全員は乗らない。


 それなのに、さらに船が壊れた。


 サヤが、子どもを抱えた女を小舟へ押し上げながら、ナギを見た。


 その目で分かった。


 全員は無理だ。


 分かっていた。


 でも、分かりたくなかった。


「キャプテン!」


 ゼルの声が聞こえた。


「船が足りねえ!」


「分かってる!」


 ナギは叫び返した。


「だったらどうする!」


 ゼルの声は、責めていた。


 泣いているようでもあった。


 ナギは答えられなかった。


 その時だった。


 昇龍が、水面から顔を出した。


 赤い目が、ナギを見た。


 壊すか。


 そう聞いているようだった。


 ナギは、歯を食いしばった。


「違う」


 昇龍が首を傾げる。


「壊すんじゃない」


 ナギは、収容区画から溢れる人々を見た。


 南桟橋の壊れた小舟を見た。


 黒鯉号の狭い甲板を見た。


 中継船の限界を見た。


 助けたくて、助けられない人間の数を見た。


 そして、叫んだ。


「乗せるんだ!」


 昇龍の赤い目が、深く光った。


「全部乗せる! 黒鯉号を大きくしろ! 船を噛め! あいつらを乗せろ!」


 ガルドが目を見開いた。


「ナギ、それは」


 昇龍が鳴いた。


 その声は、もう舟唄ではなかった。


 だが、ただの怪獣の咆哮でもなかった。


 船底で聞いた低い歌が、巨大な海の底から戻ってくるような音だった。


 黒い潮が、黒鯉号の竜骨へ走った。


 船が軋む。


 木材が悲鳴を上げる。


 船首に黒い鱗が浮かぶ。


 船腹が広がる。


 いや、広がっているように見える。


 木と鱗と黒潮が混じり、黒鯉号の外側に、もう一つの船体が生えていく。


 船首が尖り、龍の頭のようになる。


 中継船へ黒い筋が伸びる。


 修理船へも伸びる。


 小舟を抱き込むように、黒い鱗の腕が水面を走る。


 人々が悲鳴を上げた。


 だが、それは恐怖だけではなかった。


 収容区画から出てきた者たちは、目の前で船が変わっていくのを見た。


 黒龍が、船になっている。


 船が、龍になっている。


 黒鯉号の甲板が広がり、鱗の足場が生まれ、壊れた小舟のかわりに黒い渡し板が水面へ伸びた。


 リーネが叫ぶ。


「渡って! 急いで! でも押さないで!」


 サヤが、呆然としていた人々を押し出す。


「動け! 船が待ってる!」


 トマが叫んだ。


「水樽を先に転がすな! 人が先だ、人!」


 ゼルが、目を輝かせた。


「黒龍だ……」


 その声は、祈りに似ていた。


 港のあちこちから、同じ言葉が上がる。


 黒龍。


 黒龍。


 黒龍。


 黒鯉号は、もう黒鯉号ではなかった。


 龍鱗艦ドラゴンスケイル


 誰がそう呼んだのかは分からない。


 だが、その名は、波より早く広がった。


 龍鱗艦が、人々を呑み込む。


 いや、収容する。


 収容区画から溢れた人々が、黒い鱗の甲板へ渡っていく。


 泣きながら。


 転びながら。


 子どもを抱えながら。


 番号札を引きちぎりながら。


 ナギは、その光景を見ていた。


 いける。


 一瞬、そう思った。


 全員ではない。


 それでも、さっきまで絶対に乗れないと思った人々が、龍鱗艦の上へ流れ込んでいく。


 昇龍が応えた。


 自分の声に。


 自分の願いに。


 黒龍は、壊すだけではなかった。


 運ぶ船にもなれた。


 ナギは初めて、本当に勝てると思った。


 この人たちを連れていける。


 白冠海の外へ。


 新大陸へ。


 どこか、鎖のない場所へ。


 昇龍がいれば。


 龍鱗艦があれば。


 帝国はついてこられない。


 そう思った。


 その時、白い鐘が鳴った。


 カスティリア沖の朝霧が割れる。


 白い船体。


 冠の紋章。


 巨大な旗艦。


 白冠号。


 その後ろに、騎士艦。


 砲艦。


 灯台連絡船。


 救護船。


 白い艦隊が、横一列ではなく、弧を描くように広がっていた。


 逃げ道を塞ぐ形だ。


 ガルドが舵輪を握りしめた。


「やられた。戦列じゃない。網だ」


 マルクが顔を青くする。


「白冠号が中心にいる。女王旗だ」


 ナギは白冠号を見た。


 遠い。


 だが、分かった。


 あれはただの旗艦ではない。


 女王の国艦。


 帝国そのものが、海の上に出てきたような船だ。


 白冠号の甲板に、人影がある。


 顔は見えない。


 声も届かない。


 だが、そこにいるのは分かった。


 女王。


 レオノーラ。


 ナギは、初めて帝国の頂点を見た。


 見た気がした。


 白冠号の上の女王も、きっとこちらを見ている。


 だが、互いの声は届かない。


 ナギとレオノーラは、同じ海にいて、同じ港を見ている。


 それでも、顔を合わせることはなかった。


 白冠号の舳先から、白金の騎士が進み出る。


 白金の鎧。


 深紅の外套。


 フルフェイスの兜。


 聖盾。


 聖剣。


 サー・アルトリウス。


 その兜が、龍鱗艦を見た。


 黒い鱗の船体。


 人々を満載した巨大な黒龍艦。


 カスティリアの港を破り、潮に逆らって逃げようとする不吉な影。


 アルトリウスの声が、海に響いた。


「黒龍がいくら速くとも、ここで倒しきる。不吉の象徴よ」


 ナギは船首に立った。


 昇龍が唸る。


 龍鱗艦の船腹が震える。


 乗っている人々が、息を呑む。


 白い艦隊は、朝霧の中で逃げ道を塞いでいる。


 黒龍は、初めて巨大な船そのものになった。


 その瞬間、白冠海そのものが、黒龍を逃がさない形に変わっていた。

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