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英星王座戦 リアライメント・アーク  作者: 明丸 丹一
海冠帝国オルドマーレ
36/44

第6話 黒龍の代償

 薬は、効いた。


 それは、黒鯉号にとって勝利だった。


 灰湾沖で奪った薬箱の中には、酒精と乾いた薬草、清潔な布、針、軟膏、そして小さな瓶に入った苦い煎じ薬があった。


 リーネは一晩中、その箱を抱えるようにして働いた。


 熱を出していた子どもの額を拭き、腫れた足首の傷を洗い、膿んだところを切って、泣き叫ぶ男の手をサヤに押さえさせた。咳の止まらなかった老人には、薄めた葡萄酒に薬草を混ぜて少しずつ飲ませた。


 夜明け前、熱を出していた子どもが目を開けた。


 小さな声で、水、と言った。


 リーネはその場に座り込んだ。


 泣かなかった。


 泣く体力も残っていなかった。


 ただ、顔を両手で覆って、深く息を吐いた。


 ナギはそれを見ていた。


 助かった。


 少なくとも、今朝は死ななかった。


 その事実だけで、胸の奥に溜まっていたものが少しほどけた。


 だが、すぐに別の音が聞こえた。


 夜の海で、帝国護衛船が裂けた音。


 木材が砕ける音。


 水夫たちが海へ投げ出される声。


 助けてくれ、と叫んでいた誰かの声。


 ナギは甲板の端に座ったまま、空になった器を握っていた。


 灰湾沖から逃げた後、黒鯉号は夜通し走った。


 昇龍は海に降り、船を引き続けた。


 黒鯉号の後ろには、中継船が曳かれている。


 人が増えた。


 水も薬も増えた。


 けれど、船の空気は重くなっていた。


 朝の鍋は、昨日より濃かった。


 灰湾沖で奪った豆と干し魚が入っている。保存パンも少し多めに使えた。レモンの果汁を薄めた果実水が、病人と子どもに配られた。


 誰かが、小さく言った。


「助かったな」


 それは本当だった。


 誰かが別の場所で言った。


「あの船、沈んだよな」


 それも本当だった。


 黒鯉号の甲板には、その二つの本当が同じ重さで置かれていた。


 サヤは、朝から昇龍を見ていた。


 黒い龍魚は、船の前方をゆっくり泳いでいる。


 もう小舟ほどではない。


 海中に沈んでいる部分まで含めれば、黒鯉号の半分近い長さがあるかもしれない。背鰭は波の上に出て、濡れた帆のように黒く光っていた。尾が動くたび、黒鯉号の船腹に低い振動が伝わる。


「大きくなったな」


 サヤが言った。


 ナギは答えなかった。


 答えなくても、分かっていた。


 リタが船縁から昇龍を見下ろしている。


 以前なら、触りたそうに手を伸ばしていた。


 今は、手を伸ばさない。


 ただ、じっと見ている。


 昇龍が水面から顔を出した。


 赤い目がリタを見た。


 リタは小さく手を振った。


 昇龍が喉を鳴らす。


 その声に、リタは少しだけ肩を震わせた。


 ナギはそれを見逃さなかった。


「怖いか」


 リタは振り返った。


 少し迷ってから、うなずいた。


「うん」


 ナギの胸がきしんだ。


 リタはすぐ続けた。


「でも、嫌いじゃないよ」


「そうか」


「助けてくれたし。魚も獲ってくれるし。だけど」


 リタは昇龍の赤い目を見た。


「怒ってる時は、ナギの声を聞いてないみたい」


 ナギは何も言えなかった。


 子どもの言葉は、短い。


 だから逃げ場がない。


 サヤが近づいてきた。


 槍を持っているが、今日は構えていない。


「リタの言う通りだ」


 ナギは顔をしかめた。


「お前まで言うのか」


「言う。言わないと、船が沈む」


「俺は止めようとした」


「止めようとしたな」


 サヤは、そこは否定しなかった。


「でも沈んだ」


 ナギは器を握る手に力を入れた。


 割れそうになったので、慌てて力を抜く。


「俺は沈めろなんて言ってない」


「船長」


 サヤの声が少し低くなった。


「命じてなくても、お前の船がやった。お前の龍がやった。お前の怒りで、あいつは撃った」


 ナギはサヤを睨みそうになった。


 だが、睨めなかった。


 サヤの言葉は、刃物みたいにまっすぐだった。


 痛い。


 だが、間違っていない。


「じゃあ、どうすればよかった」


「知らない」


 サヤは即答した。


 その正直さに、ナギは一瞬だけ息を呑んだ。


「知らない。でも、あれがなかったら中継船が撃たれていた。リタも、子どもたちも、病人も死んだかもしれない。だから私は、昇龍ショウリュウを使うなとは言わない」


「じゃあ」


「だからこそ、逃げるな」


 サヤはナギを見た。


「沈めるつもりはなかった、で終わるな。使うなら、背負え。背負えないなら、船長を名乗るな」


 ナギは黙った。


 サヤはそれ以上責めなかった。


 言いたいことだけ言うと、甲板の反対側へ歩いていった。


 その先で、トマが水樽の数を数えていた。


 いつもなら軽口を叩いている男が、今日はやけに静かだった。


 ナギが近づくと、トマは少しだけ笑った。


「顔が怖いぞ、船長」


「お前も怖い顔してる」


「そりゃするだろ。昨日のあれを見た後だぞ」


 トマは水樽に手を置いた。


「水は増えた。薬も増えた。レモンもある。すごいことだ。正直、俺は嬉しい」


「嬉しいのか」


「嬉しいよ。死にかけてた子が助かった。そっちの方が大事だろ」


 トマはそこで口を閉じた。


 少しして、続ける。


「でも、あの口だ。あの黒い波。あれがこっちを向いたら終わりだなって思った」


 ナギは昇龍の方を見た。


「向けさせない」


「どうやって」


 トマは軽く言ったつもりだったのかもしれない。


 だが、声は笑っていなかった。


「ナギが言えば、今は止まる。たぶん。でも、昨日はちょっと遅かった。次にもっとでかくなったら? 次に怒った時、ナギの声より波の音の方が大きかったら?」


 ナギは答えられなかった。


 トマは慌てて手を振る。


「責めてるんじゃない。俺だって、あいつがいなきゃとっくに海の底だと思ってる。だから余計に困るんだよ」


「何が」


「怖いのに、頼るしかない」


 トマは水樽を叩いた。


「この水も、薬も、レモンも、昇龍がいなきゃ取れてない。だけど、昇龍に頼ったから帝国船が沈んだ。これ、どうすりゃいいんだろうな」


 ナギは小さく言った。


「分かんねえ」


「だよな」


 トマは笑った。


 今度の笑いは、少しだけ本物だった。


「俺も分かんねえ」


 船の奥では、リーネが薬を整理していた。


 灰湾沖で奪った薬箱は、黒鯉号にとって宝箱だった。


 清潔な布。


 薬草。


 包帯。


 小瓶。


 針。


 酒精アルコール


 リーネは、それを一つずつ確認し、使えるものと危ないものに分けている。


 ナギが近づくと、リーネは顔を上げた。


「熱は少し下がった」


「よかった」


「うん」


 短い返事だった。


 ナギは薬箱を見た。


「それ、なかったら」


「死んでたと思う」


 リーネは静かに言った。


「熱の子も、足の傷の人も。たぶん、何人かは」


 ナギは唇を噛んだ。


 リーネは布を畳みながら続ける。


「だから、私は昨日の襲撃を全部否定できない」


 ナギは、少しだけ救われた気がした。


 だが、リーネはすぐに言った。


「でも、沈んだ船の人たちにも、船医はいたかもしれない。薬が必要な人がいたかもしれない。家族がいたかもしれない」


 救いは長く続かなかった。


 リーネの声は責めているわけではない。


 ただ事実を並べている。


 それが一番つらい。


「私は、この薬で助かる人を見る。だから、奪ってよかったと思う。でも、沈んだ船のことを忘れていい理由にはならない」


「俺にどうしろって言うんだ」


「覚えてて」


 リーネはナギを見た。


「船長なら、覚えてて」


 ナギは返事をしなかった。


 返事をすると、何かが壊れそうだった。


 舵輪のそばでは、ガルドとマルクが海を見ていた。


 ガルドは腕を組み、マルクは帝国海図に何かを書き込んでいる。


 黒鯉号は、帝国海図から外れた場所を走っている。


 だが、完全に地図なしで走れるわけではない。


 皮肉なことに、帝国から奪った海図がなければ、黒龍海賊団は一週間ももたなかった。


 ナギが近づくと、マルクが言った。


「今の黒鯉号は、海賊船ではない」


 ナギは眉を寄せた。


「じゃあ何だ」


「移動する災害だ」


 近くにいたトマが顔をしかめる。


「言い方ってものがあるだろ」


「柔らかく言っても意味がない」


 マルクは海図を指した。


「この海では、潮と風と補給港と灯台で船が動く。船がその規則に従うから、救助も追跡も検疫もできる。だが、黒鯉号はそれを破る。しかも、破るたびに昇龍が大きくなる。次にどこへ出るか読めない。どれほどの波を起こすかも分からない。これは船ではなく災害だ」


 サヤが険しい顔で言った。


「言いすぎだ」


「沈んだ護衛船の水夫に聞けば、そう答える」


 サヤは黙った。


 マルクはナギを見る。


「君は、帝国の鎖を嫌っている。それは分かる。だが、航路が乱れれば、最初に死ぬのは貴族ではない。漁師だ。小商人だ。救護船だ。飢えた島へ向かう穀物船だ」


「だから帝国に従えってか」


「違う」


 マルクは即答した。


「従えと言えるほど、帝国はきれいではない。私はそれを見た。セラフィム号の船長も、監督人も、登録台帳も、全部見た。だが、帝国の港は鎖であると同時に、港でもある」


 ナギは何も言えなかった。


 港。


 水がある場所。


 薬がある場所。


 病人を降ろせる場所。


 船を直せる場所。


 帝国の印がついていて、登録されていて、税を取られていて、鎖とつながっている。


 でも、港は港だ。


 ガルドが低く言った。


「船乗りは風を使う」


 ナギはそちらを見る。


「でも、風を自分のものだとは思わん。風は借りるもんだ。読み、待ち、少しだけ背を押してもらう」


 ガルドは昇龍を見た。


「あいつも同じだ。お前は昇龍を使っているつもりかもしれん。だが、あいつは海そのものに近づいている。海を所有できると思った船乗りは、みんな沈む」


「じゃあ使うなって言うのか」


「使うなとは言わん」


 ガルドは首を横に振った。


「使わなければ、弱った子どもは死んだ。俺たちもとっくに捕まってる。だが、怒りで舵を取るな」


 その言葉に、ナギは少しだけ胸を突かれた。


 ガルドは続けた。


「怒りは速い。だが、舵にはならん。舵は、遅くても手で握るものだ」


 ナギは自分の手を見た。


 曳き綱で裂けた手のひら。


 斧を握り続けた指。


 船長と呼ばれるようになった手。


 その手で、自分は本当に舵を握っているのか。


 それとも、昇龍に引きずられているだけなのか。


 ◇


 昼過ぎ、黒鯉号は小さな植民島へ近づいた。


 名はラダ島。


 灰色の岩場と、細い砂浜、椰子に似た木が数本。小さな井戸と、漁村がある。帝国の正式港ではないが、水を取れる場所として海図に載っていた。


 黒鯉号にいる解放者の一部を降ろせるかもしれない。


 少なくとも、病人と老人を陸に上げられるかもしれない。


 ナギはそう考えていた。


 だが、黒鯉号が近づく前に、浜辺で鐘が鳴った。


 村人たちが走る。


 小舟が浜へ引き上げられる。


 男たちが槍や古い火縄銃を持って集まる。


 そして、浜の端に白い布が立った。


 近づくな。


 ガルドがそれを読んだ。


「拒否だ」


 ナギは聞き返した。


「まだ何も言ってない」


「言わなくても分かるんだろう。黒い旗が見えてる」


 サヤが叫ぶ準備をした。


「話だけでも」


 マルクが止めた。


「近づけば撃たれる」


「相手は漁村だろ」


「漁村だから撃つ。あちらからすれば、黒龍海賊団が来た時点で、帝国艦隊も偽黒龍も無法海賊も来る可能性がある」


 ナギは浜を見た。


 女が子どもを抱えて家の中へ走っている。


 老人が戸を閉めている。


 男たちは怖そうに銃を構えている。


 彼らは奴隷商ではない。


 帝国の役人でもない。


 ただ、自分たちの村を守ろうとしている。


 ナギは叫んだ。


「病人を降ろしたいだけだ!」


 浜の方から返事が来た。


「近づくな!」


「水と場所がいる! 金は払う!」


「黒龍の仲間を入れたら、帝国が来る! 海賊も来る! うちは小さな島だ!」


 ナギは息を詰まらせた。


 黒龍海賊団の名は、もう解放の噂だけではない。


 それを追う帝国。


 それを騙る海賊。


 それを疎む海賊。


 そのすべてに怯える村。


 全部が一緒に届いている。


 サヤが低く言った。


「強引に降りるか」


 ナギは浜を見た。


 降ろせる。


 昇龍に引かせれば、村の防備など意味がない。


 水を奪うこともできる。


 井戸も押さえられる。


 反撃されれば、黒潮で黙らせればいい。


 それは簡単だった。


 簡単だと思った瞬間、ナギは自分の考えに寒気がした。


「いや」


 サヤは何も言わなかった。


 ナギは浜へ向かって叫んだ。


「水だけ買わせろ! 病人は降ろさない! 近づかない!」


 しばらく返事はなかった。


 やがて、浜の男が叫んだ。


「小舟一艘だけ! 武器を持たせるな! 黒い龍を近づけるな!」


 ナギは昇龍を見た。


 昇龍は海面に顔を出している。


 村人たちは、その姿を見るだけで後ずさっていた。


「昇龍、離れてろ」


 昇龍が不満そうに鳴く。


「頼む」


 昇龍はしばらくナギを見ていた。


 それから、ゆっくり沖へ離れた。


 その動きに、浜の人々がまたざわつく。


 小舟には、トマとマルクと水夫一人が乗った。


 金目のものとして、銀の食器と奪った金貨を持たせた。


 水樽を買う。


 それだけだ。


 ナギは船から見ていた。


 小舟は浜へ近づく。


 村人たちは銃を下ろさない。


 交渉は長くかかった。


 やがて、水樽が五つだけ積まれた。


 少ない。


 でも、ゼロよりはいい。


 小舟が戻る途中、浜から老人の声が届いた。


「お前たちが正しいかどうかは知らん!」


 ナギは顔を上げた。


「だが、お前たちを入れたら、うちの子が死ぬ!」


 その言葉は、波よりはっきり届いた。


 ナギは返事をしなかった。


 返せなかった。


 黒鯉号はラダ島を離れた。


 病人はまだ船にいる。


 老人も船にいる。


 水は少し増えた。


 だが、降りる港は見つからなかった。


 夕方、海鳥が西へ飛んだ。


 渡り鳥ではない。


 近くの島へ戻る鳥だ。


 鳥には港がある。


 帰る岩場がある。


 黒鯉号には、まだない。


 その夜、黒鯉号の甲板では小さな口論が起きた。


 発端は、解放者の一人が言った言葉だった。


「あの村、脅せば水をもっと出しただろ」


 サヤが睨んだ。


 トマが止めようとした。


 だが、別の男が言った。


「こっちは病人を抱えてる。相手は水を隠してる。昇龍を見せればよかった」


 リーネが顔を上げた。


「それをやったら、次からどこの村も撃ってくる」


「今でも撃たれそうだった」


「だからって」


「じゃあどうする。子どもが死んでも、村が怖がってるから仕方ないって言うのか」


 リーネは黙った。


 男はナギを見た。


「船長。あんたが命じれば、昇龍は動く。だったら使ってくれ。俺たちはもう鎖に戻りたくないんだ」


 その声には、責めよりも願いがあった。


 ナギはそちらを見ることができなかった。


 別の女が言った。


「使わないで。あの黒い波、怖い。子どもが眠れない」


 また別の老人が言った。


「あれは神獣だ。黒龍様がいなければ、わしらはまだ船倉だった」


 恐れる者。


 頼る者。


 崇める者。


 同じ甲板の上で、昇龍の名が三つに割れていた。


 昇龍は海に浮かび、その声を聞いているようだった。


 赤い目は静かだった。


 だが、ナギには分かった。


 声が集まっている。


 恐怖も、願いも、祈りも、怒りも。


 全部が、昇龍を大きくする。


 ナギは立ち上がった。


「昇龍は神じゃない」


 甲板が静まる。


「俺たちの船を引く。敵を止める。でも、神じゃない」


 老人が何か言おうとした。


 ナギは続けた。


「それから、脅して水を奪うなら、あの魚骨旗の海賊と同じだ」


 男が歯を食いしばる。


「きれいごとで死ねって言うのか」


「死なせねえ」


「どうやって」


 ナギは答えられなかった。


 答えられないことが、船長として一番弱かった。


 その時、ガルドが言った。


「答えはすぐ出ん。だから掟がある」


 全員がガルドを見た。


「迷った時に戻るための杭だ。水がほしい。薬がほしい。子どもを助けたい。どれも正しい。だが、正しいまま魚骨旗になることがある」


 ガルドはナギを見た。


「船長。掟をもう一度言え」


 ナギは、少し息を吸った。


「奴隷船は襲う」


 甲板の人々が黙って聞く。


「奴隷商は裁く。薬と食い物は沈めない。降伏した船員は殺さない。解放した人間を売らない。分け前は、飯と水と薬から先」


 言いながら、ナギは自分がどれだけ危うい場所にいるか分かった。


 灰湾沖の補給船は、奴隷船ではなかった。


 降伏した船員を殺してはいない。


 だが、護衛船は沈めた。


 村の水は奪わなかった。


 だが、脅せば奪えた。


 掟はある。


 だが、穴だらけだ。


 それでも、ないよりはましだった。


 サヤが言った。


「仲間を売ったやつは追放」


 トマが続ける。


「火薬庫は壊さない」


 リーネが言った。


「病人と子どもから先」


 マルクが少し迷ってから言った。


「港を焼けば、次の船が水を取れなくなる」


 皆がマルクを見た。


 マルクは少し居心地悪そうにする。


「……掟に入れるべきだ」


 ガルドが笑った。


「いい掟だ」


 ナギはうなずいた。


「港は焼かない」


 その言葉で、少しだけ甲板の空気が落ち着いた。


 完全ではない。


 腹は減る。


 水は足りない。


 病人はまだいる。


 だが、黒鯉号は少なくとも、今夜は魚骨旗にならずに済んだ。


 夜半。


 エリオが見張り台から降りてきた。


 顔がこわばっている。


「船長」


 ナギは起き上がった。


「何だ」


「小舟が一艘、近づいてる。白い布を上げてる。敵意はなさそうだ」


 甲板がざわついた。


 サヤが槍を取る。


 トマが眠そうに目をこする。


 昇龍が海面へ顔を出す。


 近づいてきた小舟には、男が二人乗っていた。


 一人は若い漁師。


 もう一人は、黒い布を抱えた少年だった。


 小舟は、黒鯉号から十分に距離を取って止まった。


 漁師が叫ぶ。


「撃つな! ラダ島からじゃない! 錆灯から来た!」


 ガルドが目を細めた。


「錆灯の泊地か」


 ナギが叫ぶ。


「何の用だ!」


 漁師は黒い布を掲げた。


 そこには、焼けた鎖と龍に似たものが描かれていた。


 ナギは眉をひそめた。


 自分たちの旗に似ている。


 だが、下手だ。


 いや、リタの絵も下手だった。


 違うのは、そこではない。


 龍の口元に、魚骨のような白い線が描かれている。


 漁師が叫んだ。


「黒龍の名を名乗る海賊が出た! 商船を襲って、乗員を殺して、積んでいた登録労働民を別の島へ売ろうとしてる!」


 甲板が凍った。


 ナギの腹の奥が冷たくなる。


「どこの連中だ」


「魚骨旗の残党だ! 旗だけ黒く染めてる!」


 サヤが低く唸った。


 トマが歯を食いしばる。


 リーネが口元を押さえる。


 漁師は続けた。


「そいつらが言ってた。俺たちも黒龍だって。黒龍は帝国船を沈めるんだろうって。鎖を切った後の人間は、誰が持っていっても同じだろうって」


 ナギは、何かを言おうとした。


 声が出なかった。


 自分たちがつけた名だ。


 黒龍。


 その名が、もう他人の手に渡っていた。


 希望として。


 恐怖として。


 商売道具として。


 ガルドが静かに言った。


「始まったな」


 ナギはガルドを見た。


「何が」


「黒龍の名が、お前の手を離れた」


 昇龍が海面で低く鳴いた。


 その声は、怒っているようにも、喜んでいるようにも聞こえた。


 ナギは拳を握った。


 魚骨旗の連中。


 黒龍の名で人を売る連中。


 自分たちが一番なりたくなかったものが、自分たちの名前を使っている。


 ナギは言った。


「行くぞ」


 サヤが即座にうなずく。


 トマが鉤縄を取る。


 リーネは薬箱を抱え直す。


 マルクは海図を広げた。


「場所は」


 漁師が答える。


「アレイオンの外れだ。中立港の手前。潮待ちの入り江」


 ガルドが海図の上に指を置く。


「半日だ。昇龍を使えば、夜明け前に着く」


 ナギは昇龍を見た。


 使うしかない。


 また使う。


 怖くても。


 手に負えなくなり始めていても。


 使わなければ、黒龍の名で売られる人間が出る。


 ナギはゆっくり息を吸った。


「昇龍」


 黒い龍魚が近づく。


 赤い目が、ナギを見る。


「今度は、船を沈めるな」


 昇龍が低く鳴いた。


 その声に、今度は誰も笑わなかった。


 黒鯉号の甲板では、人々が黙って動き出した。


 帆を上げる者。


 水樽を縛る者。


 怪我人を船室へ移す者。


 子どもたちを奥へ入れる者。


 黒い旗を上げ直す者。


 焼けた鎖と細い龍。


 その旗は、もうただの目印ではなかった。


 守らなければならない名になっていた。


 そして、守らなければ、呪いになる名だった。


 夜の海で、昇龍が曳き綱をくわえた。


 黒い尾が水を打つ。


 黒鯉号が動き出す。


 潮に逆らって。


 帝国に追われながら。


 自分たちの名を騙る海賊を追って。


 ナギは船首に立ち、暗い海を見た。


 鎖を切っただけでは終わらない。


 飯を食わせるだけでも終わらない。


 名を掲げたなら、その名で行われることまで背負わなければならない。


 それが船長ということなのかもしれない。


 ナギは、まだ答えを持っていなかった。


 だが、進むしかなかった。


 黒鯉号の船腹を、昇龍の引く波が強く叩いた。


 その波は、前より大きく、前より暗かった。

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