第6話 黒龍の代償
薬は、効いた。
それは、黒鯉号にとって勝利だった。
灰湾沖で奪った薬箱の中には、酒精と乾いた薬草、清潔な布、針、軟膏、そして小さな瓶に入った苦い煎じ薬があった。
リーネは一晩中、その箱を抱えるようにして働いた。
熱を出していた子どもの額を拭き、腫れた足首の傷を洗い、膿んだところを切って、泣き叫ぶ男の手をサヤに押さえさせた。咳の止まらなかった老人には、薄めた葡萄酒に薬草を混ぜて少しずつ飲ませた。
夜明け前、熱を出していた子どもが目を開けた。
小さな声で、水、と言った。
リーネはその場に座り込んだ。
泣かなかった。
泣く体力も残っていなかった。
ただ、顔を両手で覆って、深く息を吐いた。
ナギはそれを見ていた。
助かった。
少なくとも、今朝は死ななかった。
その事実だけで、胸の奥に溜まっていたものが少しほどけた。
だが、すぐに別の音が聞こえた。
夜の海で、帝国護衛船が裂けた音。
木材が砕ける音。
水夫たちが海へ投げ出される声。
助けてくれ、と叫んでいた誰かの声。
ナギは甲板の端に座ったまま、空になった器を握っていた。
灰湾沖から逃げた後、黒鯉号は夜通し走った。
昇龍は海に降り、船を引き続けた。
黒鯉号の後ろには、中継船が曳かれている。
人が増えた。
水も薬も増えた。
けれど、船の空気は重くなっていた。
朝の鍋は、昨日より濃かった。
灰湾沖で奪った豆と干し魚が入っている。保存パンも少し多めに使えた。レモンの果汁を薄めた果実水が、病人と子どもに配られた。
誰かが、小さく言った。
「助かったな」
それは本当だった。
誰かが別の場所で言った。
「あの船、沈んだよな」
それも本当だった。
黒鯉号の甲板には、その二つの本当が同じ重さで置かれていた。
サヤは、朝から昇龍を見ていた。
黒い龍魚は、船の前方をゆっくり泳いでいる。
もう小舟ほどではない。
海中に沈んでいる部分まで含めれば、黒鯉号の半分近い長さがあるかもしれない。背鰭は波の上に出て、濡れた帆のように黒く光っていた。尾が動くたび、黒鯉号の船腹に低い振動が伝わる。
「大きくなったな」
サヤが言った。
ナギは答えなかった。
答えなくても、分かっていた。
リタが船縁から昇龍を見下ろしている。
以前なら、触りたそうに手を伸ばしていた。
今は、手を伸ばさない。
ただ、じっと見ている。
昇龍が水面から顔を出した。
赤い目がリタを見た。
リタは小さく手を振った。
昇龍が喉を鳴らす。
その声に、リタは少しだけ肩を震わせた。
ナギはそれを見逃さなかった。
「怖いか」
リタは振り返った。
少し迷ってから、うなずいた。
「うん」
ナギの胸がきしんだ。
リタはすぐ続けた。
「でも、嫌いじゃないよ」
「そうか」
「助けてくれたし。魚も獲ってくれるし。だけど」
リタは昇龍の赤い目を見た。
「怒ってる時は、ナギの声を聞いてないみたい」
ナギは何も言えなかった。
子どもの言葉は、短い。
だから逃げ場がない。
サヤが近づいてきた。
槍を持っているが、今日は構えていない。
「リタの言う通りだ」
ナギは顔をしかめた。
「お前まで言うのか」
「言う。言わないと、船が沈む」
「俺は止めようとした」
「止めようとしたな」
サヤは、そこは否定しなかった。
「でも沈んだ」
ナギは器を握る手に力を入れた。
割れそうになったので、慌てて力を抜く。
「俺は沈めろなんて言ってない」
「船長」
サヤの声が少し低くなった。
「命じてなくても、お前の船がやった。お前の龍がやった。お前の怒りで、あいつは撃った」
ナギはサヤを睨みそうになった。
だが、睨めなかった。
サヤの言葉は、刃物みたいにまっすぐだった。
痛い。
だが、間違っていない。
「じゃあ、どうすればよかった」
「知らない」
サヤは即答した。
その正直さに、ナギは一瞬だけ息を呑んだ。
「知らない。でも、あれがなかったら中継船が撃たれていた。リタも、子どもたちも、病人も死んだかもしれない。だから私は、昇龍を使うなとは言わない」
「じゃあ」
「だからこそ、逃げるな」
サヤはナギを見た。
「沈めるつもりはなかった、で終わるな。使うなら、背負え。背負えないなら、船長を名乗るな」
ナギは黙った。
サヤはそれ以上責めなかった。
言いたいことだけ言うと、甲板の反対側へ歩いていった。
その先で、トマが水樽の数を数えていた。
いつもなら軽口を叩いている男が、今日はやけに静かだった。
ナギが近づくと、トマは少しだけ笑った。
「顔が怖いぞ、船長」
「お前も怖い顔してる」
「そりゃするだろ。昨日のあれを見た後だぞ」
トマは水樽に手を置いた。
「水は増えた。薬も増えた。レモンもある。すごいことだ。正直、俺は嬉しい」
「嬉しいのか」
「嬉しいよ。死にかけてた子が助かった。そっちの方が大事だろ」
トマはそこで口を閉じた。
少しして、続ける。
「でも、あの口だ。あの黒い波。あれがこっちを向いたら終わりだなって思った」
ナギは昇龍の方を見た。
「向けさせない」
「どうやって」
トマは軽く言ったつもりだったのかもしれない。
だが、声は笑っていなかった。
「ナギが言えば、今は止まる。たぶん。でも、昨日はちょっと遅かった。次にもっとでかくなったら? 次に怒った時、ナギの声より波の音の方が大きかったら?」
ナギは答えられなかった。
トマは慌てて手を振る。
「責めてるんじゃない。俺だって、あいつがいなきゃとっくに海の底だと思ってる。だから余計に困るんだよ」
「何が」
「怖いのに、頼るしかない」
トマは水樽を叩いた。
「この水も、薬も、レモンも、昇龍がいなきゃ取れてない。だけど、昇龍に頼ったから帝国船が沈んだ。これ、どうすりゃいいんだろうな」
ナギは小さく言った。
「分かんねえ」
「だよな」
トマは笑った。
今度の笑いは、少しだけ本物だった。
「俺も分かんねえ」
船の奥では、リーネが薬を整理していた。
灰湾沖で奪った薬箱は、黒鯉号にとって宝箱だった。
清潔な布。
薬草。
包帯。
小瓶。
針。
酒精。
リーネは、それを一つずつ確認し、使えるものと危ないものに分けている。
ナギが近づくと、リーネは顔を上げた。
「熱は少し下がった」
「よかった」
「うん」
短い返事だった。
ナギは薬箱を見た。
「それ、なかったら」
「死んでたと思う」
リーネは静かに言った。
「熱の子も、足の傷の人も。たぶん、何人かは」
ナギは唇を噛んだ。
リーネは布を畳みながら続ける。
「だから、私は昨日の襲撃を全部否定できない」
ナギは、少しだけ救われた気がした。
だが、リーネはすぐに言った。
「でも、沈んだ船の人たちにも、船医はいたかもしれない。薬が必要な人がいたかもしれない。家族がいたかもしれない」
救いは長く続かなかった。
リーネの声は責めているわけではない。
ただ事実を並べている。
それが一番つらい。
「私は、この薬で助かる人を見る。だから、奪ってよかったと思う。でも、沈んだ船のことを忘れていい理由にはならない」
「俺にどうしろって言うんだ」
「覚えてて」
リーネはナギを見た。
「船長なら、覚えてて」
ナギは返事をしなかった。
返事をすると、何かが壊れそうだった。
舵輪のそばでは、ガルドとマルクが海を見ていた。
ガルドは腕を組み、マルクは帝国海図に何かを書き込んでいる。
黒鯉号は、帝国海図から外れた場所を走っている。
だが、完全に地図なしで走れるわけではない。
皮肉なことに、帝国から奪った海図がなければ、黒龍海賊団は一週間ももたなかった。
ナギが近づくと、マルクが言った。
「今の黒鯉号は、海賊船ではない」
ナギは眉を寄せた。
「じゃあ何だ」
「移動する災害だ」
近くにいたトマが顔をしかめる。
「言い方ってものがあるだろ」
「柔らかく言っても意味がない」
マルクは海図を指した。
「この海では、潮と風と補給港と灯台で船が動く。船がその規則に従うから、救助も追跡も検疫もできる。だが、黒鯉号はそれを破る。しかも、破るたびに昇龍が大きくなる。次にどこへ出るか読めない。どれほどの波を起こすかも分からない。これは船ではなく災害だ」
サヤが険しい顔で言った。
「言いすぎだ」
「沈んだ護衛船の水夫に聞けば、そう答える」
サヤは黙った。
マルクはナギを見る。
「君は、帝国の鎖を嫌っている。それは分かる。だが、航路が乱れれば、最初に死ぬのは貴族ではない。漁師だ。小商人だ。救護船だ。飢えた島へ向かう穀物船だ」
「だから帝国に従えってか」
「違う」
マルクは即答した。
「従えと言えるほど、帝国はきれいではない。私はそれを見た。セラフィム号の船長も、監督人も、登録台帳も、全部見た。だが、帝国の港は鎖であると同時に、港でもある」
ナギは何も言えなかった。
港。
水がある場所。
薬がある場所。
病人を降ろせる場所。
船を直せる場所。
帝国の印がついていて、登録されていて、税を取られていて、鎖とつながっている。
でも、港は港だ。
ガルドが低く言った。
「船乗りは風を使う」
ナギはそちらを見る。
「でも、風を自分のものだとは思わん。風は借りるもんだ。読み、待ち、少しだけ背を押してもらう」
ガルドは昇龍を見た。
「あいつも同じだ。お前は昇龍を使っているつもりかもしれん。だが、あいつは海そのものに近づいている。海を所有できると思った船乗りは、みんな沈む」
「じゃあ使うなって言うのか」
「使うなとは言わん」
ガルドは首を横に振った。
「使わなければ、弱った子どもは死んだ。俺たちもとっくに捕まってる。だが、怒りで舵を取るな」
その言葉に、ナギは少しだけ胸を突かれた。
ガルドは続けた。
「怒りは速い。だが、舵にはならん。舵は、遅くても手で握るものだ」
ナギは自分の手を見た。
曳き綱で裂けた手のひら。
斧を握り続けた指。
船長と呼ばれるようになった手。
その手で、自分は本当に舵を握っているのか。
それとも、昇龍に引きずられているだけなのか。
◇
昼過ぎ、黒鯉号は小さな植民島へ近づいた。
名はラダ島。
灰色の岩場と、細い砂浜、椰子に似た木が数本。小さな井戸と、漁村がある。帝国の正式港ではないが、水を取れる場所として海図に載っていた。
黒鯉号にいる解放者の一部を降ろせるかもしれない。
少なくとも、病人と老人を陸に上げられるかもしれない。
ナギはそう考えていた。
だが、黒鯉号が近づく前に、浜辺で鐘が鳴った。
村人たちが走る。
小舟が浜へ引き上げられる。
男たちが槍や古い火縄銃を持って集まる。
そして、浜の端に白い布が立った。
近づくな。
ガルドがそれを読んだ。
「拒否だ」
ナギは聞き返した。
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かるんだろう。黒い旗が見えてる」
サヤが叫ぶ準備をした。
「話だけでも」
マルクが止めた。
「近づけば撃たれる」
「相手は漁村だろ」
「漁村だから撃つ。あちらからすれば、黒龍海賊団が来た時点で、帝国艦隊も偽黒龍も無法海賊も来る可能性がある」
ナギは浜を見た。
女が子どもを抱えて家の中へ走っている。
老人が戸を閉めている。
男たちは怖そうに銃を構えている。
彼らは奴隷商ではない。
帝国の役人でもない。
ただ、自分たちの村を守ろうとしている。
ナギは叫んだ。
「病人を降ろしたいだけだ!」
浜の方から返事が来た。
「近づくな!」
「水と場所がいる! 金は払う!」
「黒龍の仲間を入れたら、帝国が来る! 海賊も来る! うちは小さな島だ!」
ナギは息を詰まらせた。
黒龍海賊団の名は、もう解放の噂だけではない。
それを追う帝国。
それを騙る海賊。
それを疎む海賊。
そのすべてに怯える村。
全部が一緒に届いている。
サヤが低く言った。
「強引に降りるか」
ナギは浜を見た。
降ろせる。
昇龍に引かせれば、村の防備など意味がない。
水を奪うこともできる。
井戸も押さえられる。
反撃されれば、黒潮で黙らせればいい。
それは簡単だった。
簡単だと思った瞬間、ナギは自分の考えに寒気がした。
「いや」
サヤは何も言わなかった。
ナギは浜へ向かって叫んだ。
「水だけ買わせろ! 病人は降ろさない! 近づかない!」
しばらく返事はなかった。
やがて、浜の男が叫んだ。
「小舟一艘だけ! 武器を持たせるな! 黒い龍を近づけるな!」
ナギは昇龍を見た。
昇龍は海面に顔を出している。
村人たちは、その姿を見るだけで後ずさっていた。
「昇龍、離れてろ」
昇龍が不満そうに鳴く。
「頼む」
昇龍はしばらくナギを見ていた。
それから、ゆっくり沖へ離れた。
その動きに、浜の人々がまたざわつく。
小舟には、トマとマルクと水夫一人が乗った。
金目のものとして、銀の食器と奪った金貨を持たせた。
水樽を買う。
それだけだ。
ナギは船から見ていた。
小舟は浜へ近づく。
村人たちは銃を下ろさない。
交渉は長くかかった。
やがて、水樽が五つだけ積まれた。
少ない。
でも、ゼロよりはいい。
小舟が戻る途中、浜から老人の声が届いた。
「お前たちが正しいかどうかは知らん!」
ナギは顔を上げた。
「だが、お前たちを入れたら、うちの子が死ぬ!」
その言葉は、波よりはっきり届いた。
ナギは返事をしなかった。
返せなかった。
黒鯉号はラダ島を離れた。
病人はまだ船にいる。
老人も船にいる。
水は少し増えた。
だが、降りる港は見つからなかった。
夕方、海鳥が西へ飛んだ。
渡り鳥ではない。
近くの島へ戻る鳥だ。
鳥には港がある。
帰る岩場がある。
黒鯉号には、まだない。
その夜、黒鯉号の甲板では小さな口論が起きた。
発端は、解放者の一人が言った言葉だった。
「あの村、脅せば水をもっと出しただろ」
サヤが睨んだ。
トマが止めようとした。
だが、別の男が言った。
「こっちは病人を抱えてる。相手は水を隠してる。昇龍を見せればよかった」
リーネが顔を上げた。
「それをやったら、次からどこの村も撃ってくる」
「今でも撃たれそうだった」
「だからって」
「じゃあどうする。子どもが死んでも、村が怖がってるから仕方ないって言うのか」
リーネは黙った。
男はナギを見た。
「船長。あんたが命じれば、昇龍は動く。だったら使ってくれ。俺たちはもう鎖に戻りたくないんだ」
その声には、責めよりも願いがあった。
ナギはそちらを見ることができなかった。
別の女が言った。
「使わないで。あの黒い波、怖い。子どもが眠れない」
また別の老人が言った。
「あれは神獣だ。黒龍様がいなければ、わしらはまだ船倉だった」
恐れる者。
頼る者。
崇める者。
同じ甲板の上で、昇龍の名が三つに割れていた。
昇龍は海に浮かび、その声を聞いているようだった。
赤い目は静かだった。
だが、ナギには分かった。
声が集まっている。
恐怖も、願いも、祈りも、怒りも。
全部が、昇龍を大きくする。
ナギは立ち上がった。
「昇龍は神じゃない」
甲板が静まる。
「俺たちの船を引く。敵を止める。でも、神じゃない」
老人が何か言おうとした。
ナギは続けた。
「それから、脅して水を奪うなら、あの魚骨旗の海賊と同じだ」
男が歯を食いしばる。
「きれいごとで死ねって言うのか」
「死なせねえ」
「どうやって」
ナギは答えられなかった。
答えられないことが、船長として一番弱かった。
その時、ガルドが言った。
「答えはすぐ出ん。だから掟がある」
全員がガルドを見た。
「迷った時に戻るための杭だ。水がほしい。薬がほしい。子どもを助けたい。どれも正しい。だが、正しいまま魚骨旗になることがある」
ガルドはナギを見た。
「船長。掟をもう一度言え」
ナギは、少し息を吸った。
「奴隷船は襲う」
甲板の人々が黙って聞く。
「奴隷商は裁く。薬と食い物は沈めない。降伏した船員は殺さない。解放した人間を売らない。分け前は、飯と水と薬から先」
言いながら、ナギは自分がどれだけ危うい場所にいるか分かった。
灰湾沖の補給船は、奴隷船ではなかった。
降伏した船員を殺してはいない。
だが、護衛船は沈めた。
村の水は奪わなかった。
だが、脅せば奪えた。
掟はある。
だが、穴だらけだ。
それでも、ないよりはましだった。
サヤが言った。
「仲間を売ったやつは追放」
トマが続ける。
「火薬庫は壊さない」
リーネが言った。
「病人と子どもから先」
マルクが少し迷ってから言った。
「港を焼けば、次の船が水を取れなくなる」
皆がマルクを見た。
マルクは少し居心地悪そうにする。
「……掟に入れるべきだ」
ガルドが笑った。
「いい掟だ」
ナギはうなずいた。
「港は焼かない」
その言葉で、少しだけ甲板の空気が落ち着いた。
完全ではない。
腹は減る。
水は足りない。
病人はまだいる。
だが、黒鯉号は少なくとも、今夜は魚骨旗にならずに済んだ。
夜半。
エリオが見張り台から降りてきた。
顔がこわばっている。
「船長」
ナギは起き上がった。
「何だ」
「小舟が一艘、近づいてる。白い布を上げてる。敵意はなさそうだ」
甲板がざわついた。
サヤが槍を取る。
トマが眠そうに目をこする。
昇龍が海面へ顔を出す。
近づいてきた小舟には、男が二人乗っていた。
一人は若い漁師。
もう一人は、黒い布を抱えた少年だった。
小舟は、黒鯉号から十分に距離を取って止まった。
漁師が叫ぶ。
「撃つな! ラダ島からじゃない! 錆灯から来た!」
ガルドが目を細めた。
「錆灯の泊地か」
ナギが叫ぶ。
「何の用だ!」
漁師は黒い布を掲げた。
そこには、焼けた鎖と龍に似たものが描かれていた。
ナギは眉をひそめた。
自分たちの旗に似ている。
だが、下手だ。
いや、リタの絵も下手だった。
違うのは、そこではない。
龍の口元に、魚骨のような白い線が描かれている。
漁師が叫んだ。
「黒龍の名を名乗る海賊が出た! 商船を襲って、乗員を殺して、積んでいた登録労働民を別の島へ売ろうとしてる!」
甲板が凍った。
ナギの腹の奥が冷たくなる。
「どこの連中だ」
「魚骨旗の残党だ! 旗だけ黒く染めてる!」
サヤが低く唸った。
トマが歯を食いしばる。
リーネが口元を押さえる。
漁師は続けた。
「そいつらが言ってた。俺たちも黒龍だって。黒龍は帝国船を沈めるんだろうって。鎖を切った後の人間は、誰が持っていっても同じだろうって」
ナギは、何かを言おうとした。
声が出なかった。
自分たちがつけた名だ。
黒龍。
その名が、もう他人の手に渡っていた。
希望として。
恐怖として。
商売道具として。
ガルドが静かに言った。
「始まったな」
ナギはガルドを見た。
「何が」
「黒龍の名が、お前の手を離れた」
昇龍が海面で低く鳴いた。
その声は、怒っているようにも、喜んでいるようにも聞こえた。
ナギは拳を握った。
魚骨旗の連中。
黒龍の名で人を売る連中。
自分たちが一番なりたくなかったものが、自分たちの名前を使っている。
ナギは言った。
「行くぞ」
サヤが即座にうなずく。
トマが鉤縄を取る。
リーネは薬箱を抱え直す。
マルクは海図を広げた。
「場所は」
漁師が答える。
「アレイオンの外れだ。中立港の手前。潮待ちの入り江」
ガルドが海図の上に指を置く。
「半日だ。昇龍を使えば、夜明け前に着く」
ナギは昇龍を見た。
使うしかない。
また使う。
怖くても。
手に負えなくなり始めていても。
使わなければ、黒龍の名で売られる人間が出る。
ナギはゆっくり息を吸った。
「昇龍」
黒い龍魚が近づく。
赤い目が、ナギを見る。
「今度は、船を沈めるな」
昇龍が低く鳴いた。
その声に、今度は誰も笑わなかった。
黒鯉号の甲板では、人々が黙って動き出した。
帆を上げる者。
水樽を縛る者。
怪我人を船室へ移す者。
子どもたちを奥へ入れる者。
黒い旗を上げ直す者。
焼けた鎖と細い龍。
その旗は、もうただの目印ではなかった。
守らなければならない名になっていた。
そして、守らなければ、呪いになる名だった。
夜の海で、昇龍が曳き綱をくわえた。
黒い尾が水を打つ。
黒鯉号が動き出す。
潮に逆らって。
帝国に追われながら。
自分たちの名を騙る海賊を追って。
ナギは船首に立ち、暗い海を見た。
鎖を切っただけでは終わらない。
飯を食わせるだけでも終わらない。
名を掲げたなら、その名で行われることまで背負わなければならない。
それが船長ということなのかもしれない。
ナギは、まだ答えを持っていなかった。
だが、進むしかなかった。
黒鯉号の船腹を、昇龍の引く波が強く叩いた。
その波は、前より大きく、前より暗かった。




