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英星王座戦 リアライメント・アーク  作者: 明丸 丹一
海冠帝国オルドマーレ
34/44

第4話 白冠の女王

 薔薇は、潮風を知らない。


 少なくとも、白冠宮の薔薇園に咲く薔薇はそうだった。


 白い石壁に囲われ、風を弱めるための低い樹木に守られ、庭師が枝を選び、虫を払い、水を量り、咲く場所を決めている。


 美しい。


 棘さえ、手入れされている。


 レオノーラ・ヴェル・オルドマーレは、その薔薇園を見下ろす食堂で食事を取っていた。


 窓は高い。


 白冠宮の東翼、その上階。


 外には薔薇園。


 その向こうには白い崖。


 さらに向こうには、白冠海が広がっている。


 海は宮殿の窓から見ると、まるで絹の生地のようだった。


 波の白は細かく、青は深く、遠くの灯台列島が朝の光を受けている。


 だが、レオノーラは知っている。


 あの海は絹ではない。


 かつての戦乱の舞台だった海だ。


 だから帝国は、海を整えた。


 潮を測り、風を測り、灯台を建て、検疫港を置き、穀物船を守り、私掠を免許制にし、港湾法を整えた。


 その結果、白冠海では無駄な争いが減った。


 島同士の小競り合いは、帝国裁定に持ち込まれるようになった。


 港町は夜でも灯台を頼りに船を迎えられるようになった。


 漁師は、海賊の影を恐れながら出港しなくてよくなった。


 穀物船は、飢えた島へ予定通り麦を届ける。


 商人は海図を買い、船主は保険を払い、旅人は検疫証を持って海を渡った。


 白冠海は、完璧な平穏とは言えないかもしれない。


 だが、以前より人が暮らせる海になった。


 それが、海冠帝国オルドマーレの平和だった。


 銀器が音もなく置かれる。


 給仕の足音は、絨毯に吸われて消える。


 皿の位置は正確だった。


 ナイフは外側から。


 杯は右上。


 塩の入った器が一つ。


 最初に王配エドゥアルが短く挨拶をする。


 次に海軍卿。


 それから財務監。


 必要があれば、女王が口を開く。


 誰も急がない。


 誰も声を荒らげない。


 ここでは、食べ物も会話も、正しい順序で口に運ばれる。


 レオノーラの前に、白身魚の料理が置かれた。


 銀の皿に、尾頭つきの魚が横たえられている。


 香草と白葡萄酒で蒸されたものだ。


 身は柔らかく、皮は薄く、骨は細い。


 レオノーラは魚用のナイフを取り、背に沿って静かに刃を入れた。


 皮を乱さず、身を崩さず、骨を探る。


 まず上身を外す。


 皿の端に小骨を寄せる。


 次に中骨を浮かせ、尾の近くで切り離す。


 音は立てない。


 手元は急がない。


 魚は、見苦しく裂かれることなく、食べられる形へ整えられていく。


 王配エドゥアルは、向かいの席で同じように魚を扱っていた。


 海軍卿も、財務監も、宮廷の作法に従う。


 誰かが骨を噛んで音でも立てれば、それだけでこの部屋では目立つ。


 レオノーラは一口分の身を取り、口へ運んだ。


 淡い塩気。


 白葡萄酒の香り。


 香草の苦み。


 窓の外では、赤い薔薇が朝の光を受けていた。


 海軍卿が言った。


「東白冠航路の穀物船団は、予定通りミラ島へ到着しました」


 レオノーラは頷いた。


「農作物は順調でしょうか? 凶作の可能性は?」


「今年はありません。昨年の堤防工事と、帝国倉庫からの種麦配布が効いています」


 財務監が書類をめくる。


「港湾税も安定しています。西の香料船団は遅れましたが、海賊被害ではなく季節風の乱れです。保険組合からも、大きな苦情は出ていません」


 王配エドゥアルが静かに言った。


「北礁諸島の境界争いは」


「帝国裁定に従うとの返答がありました。両島とも艦隊派遣を望んでいません。交易権の調整で収まります」


 レオノーラは魚の小骨を銀皿の端へ寄せた。


 平穏。


 それは、この食堂の静けさと似ていた。


 自然にそこにあるように見える。


 けれど、実際には違う。


 灯台守が火を消さない。


 船医が検疫を怠らない。


 砲艦が海賊を追う。


 役人が通行証を確認する。


 水夫が帆を上げる。


 そして、女王がそれらを命じる。


 海軍卿が、そこで一枚の報告書を別に置いた。


 空気が少し変わる。


 レオノーラは、それを見逃さなかった。


「悪い報告ですね」


「はい。登録労働民輸送船セラフィム号が襲撃を受けました」


 レオノーラの手は止まらなかった。


 小骨を外す。


 白い身を崩さず、刃先で分ける。


 それから一口を食べ、ナイフを皿の右側へ置いた。


「海賊ですか」


「当初はそのように報告が上がりました。魚骨旗を掲げる無法海賊の襲撃です」


「当初は、ということは、違ったのですね」


 海軍卿は一瞬だけ目を伏せた。


「はい。海賊襲撃中に、搬送されていた登録労働民が反乱を起こしました。船長以下、一部乗員は錆灯の泊地で発見されています。船は奪取されました」


 財務監が低く言った。


「登録労働民、四十二名。うち若年の者が二十七名。造船所、鉱山島、砂糖島へ再配置予定の者です。損耗記録は未確定です」


 登録労働民。


 損耗。


 再配置。


 宮廷の食堂で使うには、乾いた言葉だった。


 だが、その言葉を禁じれば帳簿は回らない。


 港は動かず、船は運べず、補償は支払われず、作業場の人員もそろわない。


 レオノーラは、その事実も知っていた。


 その言葉が、人間をどれほど遠くへ押しやるかも知っていた。


 王配エドゥアルが静かに言った。


「襲撃者の名は」


「不明。ただし、船尾の登録名は削られ、新たに黒鯉号くろごいごうと刻まれていたとの証言があります」


「黒鯉号」


 レオノーラは反復した。


 奇妙な名だった。


 海賊船にしては、幼さを感じる名づけだ。


 竜でも嵐でも剣でもない。


 鯉。


 海軍卿は続ける。


「さらに、複数の証言があります。黒い龍魚を見た、と」


 食堂の空気が、わずかに揺れた。


 財務監が眉をひそめる。


「逃亡奴隷の妄言では」


「船長も同じ証言をしています。加えて、巡視艇からの報告によれば、黒鯉号は逆潮を東へ走りました」


 王配の手が止まった。


「逆潮を?」


「はい。風も潮も西でした。通常船なら東進は不可能に近い。しかし黒鯉号は、海面を走る黒い影に牽引され、巡視艇の進路予測を破ったとのことです」


 財務監が書類を奪うように見た。


「新型船舶か」


 海軍卿は渋い顔をした。


「少なくとも、既存の帆走技術ではありません」


「他国の技術供与の可能性は」


 王配が問う。


「西方諸王国に、潮流を無視する曳航技術は確認されていません。北方共和国の水上機関説も考えられますが、証言にある黒い龍魚と一致しません」


 財務監がすぐに言う。


「密輸港の船体改造では。錆灯の泊地、黒市、旧海賊技師。あり得なくはない」


 海軍卿が首を振った。


「船体改造だけで逆潮は破れません。しかも損傷した輸送船です」


「では、海中生物の調教テイムか」


「馬鹿な」


「馬鹿なことが起きているのでしょう」


 会議は、にわかに熱を帯びた。


 新型船。


 他国の技術。


 密輸港の改造船。


 海中曳航具。


 旧王国の遺物。


 海賊の幻術。


 逃亡奴隷の集団妄想。


 レオノーラは、黙って聞いていた。


 帝国は海を管理してきた。


 潮流、風、港、水、検疫、灯台。


 その海図の上に、潮に逆らって走る黒い船が現れた。


 それは単に一隻の船が逃げたという話ではない。


 白冠海の平穏に穴が空いたということだった。


 あの船が予測航路を破れるなら、灯台網の意味が変わる。


 巡視艇の包囲が破られる。


 検疫線も破られる。


 穀物船団の航路にも割り込める。


 登録労働民船団だけではない。


 漁船、商船、救護船、巡礼船、港町、島々の市場。


 黒鯉号が自由に海を走れば、人々はまた海を恐れるようになる。


 帝国が積み上げた平穏が、黒い波で掻き乱される。


 財務監が言った。


「ただちに討伐すべきです。登録制度の信用が崩れれば、植民地会社、鉱山島、造船所、砂糖島、すべての労働配置が止まります」


 海軍卿は別の書類を出した。


「それだけではありません。黒鯉号が中継船を襲ったという未確認報告があります。薬と食糧を奪い、登録台帳の一部を焼却したと」


「台帳を焼いた?」


 財務監の声が鋭くなる。


「それは明白な反帝国行為です」


「反帝国で済めばよいのですが」


 海軍卿は苦い顔をした。


「証言では、彼らは病人と子どもを優先して移した。降伏した船員を殺さなかった。監督人は小舟で流され、後に漁船が回収しています」


 財務監は鼻で笑った。


「善良な海賊とでも言いたいのですか」


「違います。だから厄介なのです」


 レオノーラは、そこで初めて口を開いた。


「黒鯉号は、無法海賊と同じではない」


 食堂が静まった。


「同時に、無害でもない」


 彼女は窓の外を見た。


 薔薇園。


 白い崖。


 海。


「あの船が民衆の希望になれば、帝国の航路は乱れます。奴隷だけではない。借金を抱えた水夫、税を嫌う商人、裁定に不満を持つ島、私掠免許を失った船主。すべてが黒い旗に意味を見出すかもしれない」


 財務監が頷く。


「だからこそ、早急に」


「討つだけで足りますか」


 財務監は口を閉じた。


 レオノーラは続けた。


「黒鯉号がただの海賊なら、討てば終わります。ですが、彼らが秩序から漏れた者の希望になるなら、沈めても別の黒鯉号が現れるでしょう」


 その瞬間だった。


 食堂の窓が、音もなく震えた。


 銀器が、わずかに鳴った。


 遠くで、鐘が鳴ったのかと思った。


 違う。


 海の底で、誰かが剣を抜いたような音。


 空でも海でもない場所から、細い光が降りた。


 レオノーラの左目が熱くなった。


 痛みはない。


 ただ、深い冷たさと熱が同時に走る。


 視界の端に、青い光が灯った。


 十字に割れた、小さな星。


 王配が椅子を鳴らして立ち上がった。


「レオノーラ」


 海軍卿が膝をつく。


 財務監も、何が起きたか分からないまま遅れて頭を下げた。


 レオノーラの頭の奥で、声がした。


 ――君主タイクーン王冠顕現ドミニオン


 意味は分からない。


 だが、拒めない響きだった。


 王冠。


 それは、レオノーラが生まれた時から背負ってきた言葉だ。


 ただし、今聞こえた王冠は、帝国の宝冠ではない。


 もっと古く、もっと広い。


 海図よりも古い。


 帝国よりも古い。


 海に秩序を置こうとする者の名だった。


 窓の外、薔薇園の向こうで、白い光が降った。


 レオノーラは立ち上がった。


 食堂の扉が開く。


 衛兵が駆け込む。


 だが、誰も叫べなかった。


 薔薇園の白い小径に、騎士が立っていたからだ。


 白金の鎧。


 フルフェイスの兜。


 背には深紅の外套。


 左腕に聖盾。


 腰には、光を抑えた長剣をく。


 その姿は、人間に似ていた。


 だが、人間ではなかった。


 庭師たちが尻もちをついている。


 薔薇の花弁が、風もないのに揺れている。


 騎士は、レオノーラの方を見た。


 兜の奥の目は見えない。


 だが、視線は分かった。


 レオノーラは食堂を出た。


 階段を降り、薔薇園へ向かう。


 誰も止めなかった。


 王配だけが後ろへ続いたが、レオノーラが手を上げると止まった。


 これは、女王として会うべきものだ。


 白い小径に出ると、潮の匂いがした。


 宮殿の中では消されていた匂い。


 海の匂い。


 騎士は片膝をついた。


 鎧が、石畳に静かに触れる。


 兜越しの声が響いた。


 少し籠もっている。


 だが、不思議と遠くまで届く声だった。


君主タイクーン。白冠の女王」


 レオノーラは、ゆっくり息を吸った。


「あなたは」


英星エクススター、アルトリウス」


 騎士は頭を垂れた。


「御身の剣として、ここに」


 うやうやしい声だった。


 彼は、いま降臨した英雄というより、古くから女王に仕える騎士のように振る舞った。


 レオノーラは、その姿を見た。


 白金の鎧。


 聖盾。


 聖剣。


 フルフェイスの兜。


 神話に出てくる騎士。


 だが、目の前にいる。


「サー・アルトリウス」


 レオノーラは自然にその敬称を口にしていた。


 アルトリウスは、深く頭を下げた。


「御意」


「黒鯉号を知っていますか」


「報告にある姿かたちから、推し量れることはございます」


「何です」


昇龍ショウリュウ


 その名を聞いた瞬間、レオノーラの左目の青い星が、わずかに熱を持った。


 アルトリウスは続ける。


「鯉が滝を越え、龍へ至るもの。弱きものが、世界の流れに抗って昇ろうとする象徴です」


「美しい名ですね」


「はい。だからこそ危うい」


 レオノーラは黙った。


 アルトリウスは顔を上げないまま言った。


「昇龍は、怒りによって膨れ上がる英星です。虐げられた者、鎖を負った者、海図の外へ弾かれた者。そうした者たちの希望になり得ます」


「希望」


「はい。弱者の希望です」


 その言い方に、レオノーラは意外さを覚えた。


 討伐対象。


 反逆者。


 海賊。


 そう呼ぶのは簡単だ。


 だが、アルトリウスはまず希望と言った。


「あなたは、黒鯉号を庇っているのですか」


「いいえ」


 アルトリウスは静かに答えた。


「希望であるからこそ、国を飲み込む前に片付けなければなりません」


 その言葉は重かった。


 片付ける。


 討つ、ではない。


 裁く、でもない。


 終わらせる、でもない。


 国を治めた者の言葉だった。


 レオノーラは、目の前の騎士がただの龍殺しではないと感じた。


 彼は王だったのかもしれない。


 少なくとも、王として何かを背負った者の言葉を知っている。


 アルトリウスは続けた。


「怒りは正しいことがあります。鎖を断とうとする願いもまた、正しいことがあります。しかし、怒りによって膨れ上がる龍は、最後には敵だけを飲み込みません。港を、漁村を、避難船を、守ろうとした者まで巻き込みます」


「黒鯉号の目的は」


「まだ分かりません」


 即答だった。


 そこに嘘はなかった。


「なら、あなたにもすべては見えていないのですね」


「はい。ゆえに、今この場で、深く語るべきではありません」


 レオノーラはわずかに目を細めた。


「語れないのではなく」


「語るべきではない、と申し上げます」


 アルトリウスは恭しく頭を下げたまま言った。


「陛下が今知るべきことは、黒鯉号がただの海賊船ではないこと。昇龍が弱者の希望になり得ること。そして、その希望が怒りで膨れれば、帝国の平穏を飲み込むこと。この三つです」


 レオノーラは、薔薇園の向こうの海を見た。


「その平穏の中に、登録労働民制度があります」


「はい」


「奴隷登録も、植民地支配も、私掠免許も、帝国の秩序の一部です」


「はい」


 アルトリウスは否定しない。


 慰めもしない。


 レオノーラは続けた。


「帝国は不要な戦争を止めました」


「はい」


「灯台は船を救い、検疫は疫病を止め、穀物船は飢えた島を救った」


「はい」


「その帝国を、黒鯉号は乱す」


「はい」


「同時に、黒鯉号が生まれた理由も、帝国の中にある」


 アルトリウスは、そこで初めてわずかに顔を上げた。


 兜の奥の表情は見えない。


 だが、騎士が静かにレオノーラを見ていることだけは分かった。


「陛下は、すでにお分かりです」


「分かっている、とは言えません」


 レオノーラは言った。


「私はまだ、報告しか聞いていません」


「ならば、真実を見るべきです」


「そして」


「守るべきものを決めるべきです」


 アルトリウスの声は、兜越しに少し籠もっていた。


 けれど、その言葉には、海軍卿や財務監とは違う重みがあった。


 命令ではない。


 助言だった。


 それも、王が王に渡す助言。


 その時、庭の外で足音がした。


 伝令兵だった。


 顔が蒼白だ。


 薔薇園に踏み込む前に、膝をつく。


「陛下。追加報告です。青輪印の中継船が襲撃を受けました。船は奪われず、曳航された形跡があります。登録台帳の一部が焼却。売買印と番号札が燃やされ、名簿の一部のみ持ち去られました」


 レオノーラは目を開けた。


「死者は」


「護衛に負傷者。死者は少数です。監督人は小舟で流され、後に漁船が回収しました」


「登録労働民は」


「多数が解放。行方不明です」


 財務監なら、損耗と言うだろう。


 伝令兵は言わなかった。


 レオノーラは静かに聞いた。


「ほかには」


「目撃証言があります。襲撃者は、薬と食糧を沈めず、子どもと病人から移したと」


 海軍卿が後ろで息を呑んだ。


「また、黒い龍魚が海面すれすれに黒い水の砲撃を放ち、砲門と帆を黙らせたとの証言があります。船体を沈めるものではなかった、と」


 アルトリウスの兜が、わずかに海の方を向いた。


「それから、彼らは自らを黒龍海賊団と称し始めたとのことです」


 黒龍海賊団。


 その名は、薔薇園には似合わなかった。


 だが、海には似合う。


 レオノーラは伝令兵を下がらせた。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて海軍卿が言った。


「陛下。討伐艦隊を」


「出します」


 レオノーラは即答した。


 海軍卿が少し安堵する。


 だが、レオノーラは続けた。


「ただし、黒龍海賊団を無法海賊と同じに扱ってはなりません」


 財務監が顔を上げる。


「陛下、それは譲歩と受け取られます」


「違います。見誤らないためです」


 レオノーラの声は静かだった。


 だが、食堂で銀器を扱う時の静けさではない。


 潮が満ちる前の静けさだった。


「海軍卿。白冠号を出します。騎士艦を二隻。灯台連絡船を一隻。救護船を三隻。検疫医も乗せなさい」


「救護船も、ですか」


「黒龍海賊団が解放した者、置き去りにされた者、漂流者を収容するためです」


「はっ」


「登録労働民船団は、当面、単独航行を禁じます。船団を組ませ、航路を変更し、灯台からの信号を密にしなさい」


 財務監が言った。


「船団を止めれば、鉱山島と造船所の労働配置が遅れます」


「遅らせます」


「陛下」


「平穏を守るとは、ただ帳簿を予定通り埋めることではありません」


 財務監は黙った。


 レオノーラはアルトリウスを見た。


「サー・アルトリウス」


「御前に」


「黒龍を討てますか」


「今ならば」


 アルトリウスは短く答えた。


「ただし、怒りは育ちます。希望もまた、人から人へ移ります」


「では急がなければならない」


「はい。ですが、急ぎすぎれば見誤ります」


「あなたは難しいことを言う」


「王とは、難しいものです」


 レオノーラは一瞬だけ沈黙した。


 その後、ほんのわずかに笑った。


「王の経験がおありなの?」


 アルトリウスは答えなかった。


 否定もしなかった。


 ただ、白金の兜を静かに下げた。


「今の私は、陛下の騎士です」


 その言葉で十分だった。


 レオノーラは命じた。


「白冠号の出港準備を」


 海軍卿が膝をつく。


「はっ」


「黒龍海賊団は追跡します。ただし、沈めることを第一としない。まず、見るのです」


「何を」


 レオノーラは海を見た。


「黒鯉号が何を壊そうとしているのか。そして、何に群がっているのか」


 アルトリウスが、ゆっくりと頭を垂れた。


「御意」


 その声は、兜越しに少し籠もっていた。


 だが、そこには確かな響きがあった。


 白金の聖騎士。


 女王に仕える剣。


 海を整える戦列の先端。


 サー・アルトリウス。


 やがてその名は、港から港へ広がる。


 黒龍に怯える者たちは、白金の騎士の噂にすがるだろう。


 登録労働民を失った商会は、彼に討伐を願うだろう。


 救護船に拾われた子どもは、彼を英雄と呼ぶだろう。


 そして黒龍海賊団は、いつか彼と出会う。


 レオノーラは、海を見た。


 遠く、白冠海の向こうで、一羽の海鳥が低く飛んでいる。


 薔薇園の上ではなく、海の上を。


 風を読み、潮を読み、許可証も持たずに飛ぶ鳥だった。


 レオノーラは、その鳥が少し羨ましかった。


 だが、女王は鳥ではない。


 海を渡る者たちのために、灯台を消さない者だ。


 たとえ、その灯台の下に鎖が沈んでいるとしても。


 その日の正午。


 白冠号の出港を告げる鐘が鳴った。


 帝国港の人々は、白い旗艦の甲板に立つ白金の騎士を見上げた。


 誰かがつぶやいた。


「あれが、アルトリウス卿……」


 別の誰かが、祈るように膝をついた。


 船が動き出す。


 白冠号の後ろには、騎士艦、灯台連絡船、救護船が続く。


 討伐艦隊。


 だが、それだけではない。


 救うための船も含んだ戦列。


 海を守るための秩序。


 その秩序の平穏を乱す黒い船を、見定めるための船団。


 レオノーラは甲板に立ち、潮風を受けた。


 宮殿の薔薇園とは違う風だった。


 塩の匂い。


 木材の匂い。


 帆布の匂い。


 遠くで海鳥が鳴く。


 アルトリウスが隣に立った。


 兜の奥から、少し籠もった声がした。


「陛下。黒龍は、逃げ足が速い」


「分かっています」


「追うには、海を読む必要があります」


「帝国は長く海を読んできました」


「黒龍は、海に逆らいます」


 レオノーラは静かに頷いた。


「なら、こちらは海を読み直しましょう」


 アルトリウスは何も言わなかった。


 白冠号の帆が膨らむ。


 灯台の光が、昼の海にも薄く伸びている。


 遠いどこかで、黒い龍が潮に逆らって泳いでいる。


 白い艦隊は、まだその影を知らない。


 黒龍海賊団もまた、白金の騎士を知らない。


 だが、白冠海は広くない。


 潮は巡る。


 風は戻る。


 鳥は同じ島へ帰る。


 やがて、黒い波と白い戦列は出会う。


 レオノーラは、左目の奥で青い冠星紋が静かに灯っているのを感じていた。


 彼女は女王だった。


 帝国を継いだ者だった。


 不要な戦争を止め、海を渡らせる者だった。


 その平穏を乱す黒い希望を、放置するわけにはいかなかった。


 弱者の希望。


 怒りで膨れ上がる龍。


 それが国を飲み込む前に、片付けなければならない。


 そのために、女王は海へ出る。


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