第2話 潮に逆らう船
船を奪った。
だからといって、自由になったわけではなかった。
嵐が去ったあと、甲板には雨水と血と砕けた木片が残っていた。
帝国旗は落ちた。
海賊旗も落ちた。
焼けた鎖と細い龍を描いた黒い布だけが、折れたマストの上で濡れていた。
それを見上げて、泣く者がいた。
笑う者がいた。
黙ったまま膝をつく者もいた。
ナギは、そのどれでもなかった。
腹が鳴っていた。
自分でも場違いだと思った。
けれど、腹は減る。
戦っても、叫んでも、鎖が切れても、人間の腹は減る。
「……なんか食うもんないのか」
ナギがそう言うと、サヤが振り返った。
濡れた髪を乱暴にまとめた少女だった。ナギより少し年上に見える。さっきまで鎖を引きずって海賊の足に絡みついていたせいで、膝と腕に傷がある。
「この状況で、飯?」
ガルドが口を出す。
「船を奪ったばかりなんだぞ」
「だから腹が減った」
サヤは呆れたように口を開き、それから少しだけ笑った。
「大物なのか、馬鹿なのかな」
「どっちでもいい。なんか食えるものないか」
ガルドが舵輪の前から声を飛ばした。
「なら、食料庫を見ろ。船長室の下だ。ただし、先に水樽だ。飯より水だ」
ナギは顔をしかめた。
「飯の話をしてる」
「船では水の話が飯の話だ。水が腐れば、パンがあっても死ぬ」
ガルドは舵輪を握ったまま、空を見た。
嵐は遠ざかりつつあった。
だが、海はまだ高い。雲は低く、波は黒く、帝国灯台の白い光が遠くに滲んでいる。
奪った船は、無事ではなかった。
帆は裂け、舷側には砲弾の跡がある。海賊船に引っかけられた鉤縄の傷が残り、階段の一部は昇龍が壊した。船底にはまだ水が溜まっている。死人もいる。怪我人もいる。泣いている子どももいる。
そして、船にはまだ、帝国側の人間が大勢残っていた。
白い制服の兵。
船長。
航海士。
砲手。
甲板水夫。
帆を扱う者。
調理係。
見張り。
海賊との戦闘で倒れた者もいたが、生き残りの方が多い。
当然だった。
この船は軍艦ではない。
登録労働民を運ぶ輸送船だ。
武装した帝国兵は一部で、船を動かしていたのは、ほとんどが雇われの水夫だった。
だが、その水夫たちも帝国船の人間だった。
さっきまで、ナギたちは船底に鎖でつながれていた。
向こうは甲板の上にいた。
それだけで、簡単には同じ船の仲間になれない。
甲板の端に、生き残った帝国兵と水夫たちが集められていた。
武器は取り上げた。
手を縛った者もいる。
縛っていない者もいる。
帆綱を握れる者まで縛れば、船が動かない。
だが、完全に自由にすれば、こちらが寝ている間に海へ落とされるかもしれない。
ナギは、その人数を見て顔をしかめた。
「多いな」
ガルドが鼻を鳴らす。
「船ってのは、人間がいるんだ。帆だけで走ってるわけじゃない」
「全員、敵か」
「敵だったやつもいる。命令で動いてたやつもいる。飯のために船に乗ってただけのやつもいる」
「見分けられるか」
「全部は無理だ」
サヤが槍を握ったまま言った。
「じゃあ、まとめて縛る」
甲板水夫の何人かが顔をこわばらせた。
ナギは彼らを見た。
手のひらが荒れている。
指が太い。
足の運びが船に慣れている。
だが、剣を持つ手ではない。
その中に、さっきリタの前に立った若い帝国兵がいた。
肩章は外している。剣も床に置いている。だが、白い制服のせいで、誰から見ても帝国兵だった。
サヤが彼を睨む。
「そいつも縛るか?」
若い兵が肩を震わせる。
ナギは一度だけ見た。たしかこの若い兵は、あのとき鍵を投げたやつだ。最初の分岐点。
「名前は」
「……エリオ」
「エリオ。船は動かせるか」
「帆の扱いは少しだけ。見張りと信号なら」
「じゃあ生きてろ」
サヤが眉を吊り上げた。
「それでいいのか」
「こいつはリタの前に立った」
「遅すぎた」
「でも立った」
「帝国兵だぞ」
「知ってる。だから見張る。働けるなら働かせる。逆らうなら縛る」
エリオは顔を上げた。
「……俺は」
「敬語はいらねえ」
「分かった。俺は、海賊に奴隷を渡すのは違うと思った。でも、止められなかった」
「なら、次は止めろ」
エリオは言葉に詰まった。
ナギは、水夫たちの方へ歩いた。
中年の男がひとり、他の水夫より少し前に出ている。航海士らしい。顔は青いが、目は死んでいない。
「お前、船を動かせるか」
「一応は」
「一応って何だ」
「私は二等航海士だ。船長がいれば補佐する。船長がいなければ、応急の針路くらいは見る」
「船長は」
甲板の柱に縛られていた男が、こちらを睨んだ。
整った外套は裂れ、顔には血がついている。
だが、背筋だけはまだ高い。
ナギはその顔を見て、船底で聞いた声を思い出した。
本船と残余資産は保全できます。
その言葉を言ったのは奴隷管理者だった。
だが、積荷の一部を引き渡すと決めたのは、この船長だ。
船長が言った。
「貴様らは、帝国船を不法占拠している」
ナギは少し考えた。
それから近くに転がっていた濡れた布をつかみ、船長の口に押し込んだ。
「今のは聞く価値ない」
サヤが笑った。
二等航海士の顔がさらに青くなる。
ナギは彼を見た。
「お前は?」
「私は、船を沈めたくない」
「俺もだ」
「乗員も、積まれていた人々も、全員死なせたくない」
「じゃあ同じだ」
「だが、帝国船を奪うことには協力できない」
「なら、港まで働け。港で降ろす」
航海士が目を細めた。
「本気か」
「殺したいなら、さっき海へ落としてる」
「港で当局へ通報するぞ」
「するだろうな」
「分かっていて降ろすのか」
「お前らを船に乗せたまま寝るよりましだ」
ガルドが舵輪の横で小さく笑った。
「悪くない。半端な情けより、ずっと船乗りの話だ」
ナギは続けた。
「武器は渡さない。舵と帆と水と食料に必要な仕事はしろ。逃げるな。船を壊すな。海賊を呼ぶな。帝国の港じゃない場所に着いたら降ろす。そこで好きに行け」
水夫たちがざわついた。
サヤが言った。
「甘くないか」
「じゃあ全員縛るか」
「できるなら」
「できねえ。帆を張れない。水も汲めない。舵も見られない。船を沈めたいなら別だけどな」
サヤは黙った。
不満はある。
だが、言い返せない。
ガルドが二等航海士へ声をかけた。
「おい、名は」
「マルク」
「マルク。俺はガルドだ。昔、北回り航路で帆を見ていた。今はこの通り鎖つきの管理労働民だ」
「……聞いたことがある。片耳のガルドか」
「悪名の方なら忘れろ」
「それは……難しい」
「なら覚えとけ。今この船で一番沈みたくないのは俺だ。お前も沈みたくないなら、帆を見る。船長ごっこはしなくていい。船を生かしてくれ」
マルクは、縛られた船長を見た。
船長は布を噛んだまま怒っている。
だが、怒っているだけだった。
嵐の残り。
破れた帆。
傷んだ舵。
怪我人。
腹を空かせた逃亡奴隷たち。
そして、甲板に丸まる黒い龍魚。
この状況で船長の命令だけを聞いていれば、全員死ぬ。
マルクは深く息を吐いた。
「帆を見る。だが、船長を殺すな」
「港で降ろす」
「護衛兵は?」
「武器を持たせない。暴れたら縛る。港で降ろす」
「奴隷管理官は」
「そんなやつもいたな。海に落ちた」
マルクは黙った。
何か言いたそうだったが、言わなかった。
ナギも言わなかった。
甲板の中央で、昇龍が丸まっていた。
黒い龍魚は、さっきより小さくなっていた。
それでも、大型犬よりは大きい。熊ほどではないが、普通の獣ではない。濡れた黒い鱗が、呼吸に合わせてわずかに波打っている。
リタが、少し離れたところからじっと見ていた。
「触っていいのかな」
「やめとけ」
ナギは即答した。
「噛む?」
「分からん」
昇龍が片目を開けた。
赤い目が、ナギを見た。
それから、少しだけ首を低くした。
まるで、噛まない、と言っているようだった。
リタが一歩近づく。
ナギはリタの襟をつかんで止めた。
「やめとけって」
「でも、助けてくれた」
「助けてくれたやつが安全とは限らねえ」
昇龍の喉が鳴った。
船底で聞いた舟唄に近い、低い音だった。
怒ってはいない。
拗ねたような音だった。
リタが笑った。
「小熊みたい」
ナギは昇龍を見た。
クマ。
たしかに、犬というには大きすぎる。丸まっているからおとなしく見えるだけで、さっきは人間を二人まとめて海へ叩き落とした。
「こんなクマ、近所にいたら村が逃げる」
昇龍が尾で甲板を打った。
濡れた板が、どん、と鳴る。
「ほら見ろ。すぐ怒る」
リタが声を出して笑った。
その笑い声を聞いて、甲板の空気が少しだけ緩んだ。
泣いていた者が、泣きながら笑った。
座り込んでいた者が、ようやく息を吐いた。
自由になった。
けれど、何をすればいいのか分からない。
だから、まず皆で食料庫を開けた。
食料庫には、黒い保存パンが積まれていた。
硬い。
重い。
石みたいなパンだった。
ほかには塩漬けの魚、豆、干し肉、酢の樽、葡萄酒と、水樽がいくつか。奥には小さな木箱があった。
トマがそれを開けた。
「レモンだ」
黄色い実が、網に包まれて入っていた。
ナギは一つ手に取った。
「食えるのか」
「酸っぱい果実だよ」
「酸っぱいだけ?」
マルクが後ろから言った。
「船では大事だ。長く海にいると、歯茎が腐る。足が弱る。傷も治りにくくなる。柑橘は薬みたいなものだ」
トマが肩をすくめる。
「だってさ」
リーネが横からうなずいた。
船医見習いの少女は、負傷者の血で手を赤くしていた。
「大事に食べて。病人から先」
ナギはレモンを見た。
小さい。
硬い。
こんなものが命を分けるのか。
「じゃあ金より大事だな」
トマが笑う。
「金も大事だろ」
「金は食えねえ」
「レモンもそのままだときついぞ」
「食えないわけじゃない」
ナギはかじろうとした。
リーネが手を叩いた。
「待って。全員分を考えて」
「一口だけ」
「一口が何人分の薬になると思ってるの」
ナギは不満そうにレモンを戻した。
サヤがそれを見て笑う。
「大海賊様、初めての命令は飯とレモンか」
「俺は海賊じゃねえ」
「旗は上げた」
「そうだ。もう俺たちは誰のものでもない」
「船も奪った」
「そう。奪った」
「なら海賊だ」
ナギは少し黙った。
海賊。
さっきまで、あの魚骨の旗を掲げた連中がそうだった。
奴隷を売る連中。
人間を獲物と呼ぶ連中。
ナギは、その言葉が好きではなかった。
だが、帝国の言葉はもっと嫌いだった。
登録労働民。
保護監督対象。
戦後再配置民。
人間を番号にする言葉。
どちらの言葉も嫌いなら、自分で意味を奪うしかない。
「海賊なら」
ナギは言った。
「俺たちは、海賊から奪う海賊だ」
サヤが目を細めた。
「金銀を奪う?」
「金銀は食い物を買う時にいる」
「結局、飯か」
「飯だ」
今度は何人かが笑った。
その笑いは弱かったが、船底の泣き声よりはずっとましだった。
リーネとトマが、水と保存パンを分け始めた。
黒い保存パンはそのままでは歯が立たない。ガルドが鍋を出させ、海水ではなく貴重な真水を少し使って、砕いたパンを煮た。
リーネが塩漬け魚を細かく裂く。
サヤが豆を入れる。
トマが干し肉を盗み食いしようとして、ナギに見つかる。
「おい」
「味見だ」
「味見なら俺がする」
「結局食うのかよ」
鍋は黒く濁った。
うまそうには見えない。
だが、湯気が立つ。
魚と塩と豆の匂いがする。
リタが器を抱えた。
「さっきの粥より、においがする」
ナギは少しだけ胸が詰まった。
「いっぱい食え」
リーネがすぐ言った。
「いきなりいっぱい食べると腹を壊す」
「じゃあ、ちょっといっぱい食え」
「意味が分からない」
リタが笑いながら、黒いパン粥を食べた。
熱かったのか、舌を出す。
それでも、嬉しそうだった。
ナギも食べた。
硬いパンは煮崩れて、どろどろになっている。塩辛い。魚臭い。豆はあまり柔らかくない。干し肉は少ない。
うまかった。
悔しいくらい、うまかった。
自分たちで鍋を囲んでいる。
誰かの番号順ではない。
規定量ではない。
殴られない。
そのことだけで、胃より先に胸が熱くなった。
少し離れたところで、水夫たちにも器が配られた。
サヤは不満そうだった。
「敵にも食わせるのか」
ナギは粥をすすりながら答えた。
「働かせるなら食わせる」
「働かせたあと縛る?」
「逆らったらな」
マルクが器を受け取り、無言で頭を下げた。
船長は縛られたまま、何か唸っている。
ナギはそちらを見た。
「あいつにも食わせろ。死なれると面倒だ」
サヤが顔をしかめる。
「本当に甘い」
「殺したいならお前がやれ」
サヤは黙った。
できないわけではない。
だが、今ここで縛られた船長を殺せば、それは戦いではなく処刑になる。
ナギはそう思った。
鎖を切るためなら暴れる。
海へ叩き落とすこともある。
だが、縛った相手を飯も食わせず見殺すのは違う。
それでは、船底で人間を番号にした連中と何が違うのか分からない。
昇龍が、鍋の匂いにつられたように頭を上げた。
リタが自分の器を差し出す。
「食べる?」
昇龍は器ではなく、リタの隣に置かれた塩漬け魚を見た。
ナギがすばやく取った。
「それは皆の分だ」
昇龍が低く鳴る。
今度は、船底の水が小さく震えるような音だった。
「鳴いてもだめだ」
昇龍はナギを見た。
赤い目が、じっと見てくる。
ナギは魚の尾の切れ端だけを投げた。
昇龍がぱくりと食べる。
その仕草は、やっぱり犬かクマに近かった。
サヤが呆れたように言った。
「本当に飼う気か」
「向こうが勝手についてきた」
「もうクマくらいあるぞ」
「これ以上でかくなるなよ」
昇龍が尾を打つ。
ナギは本気で少し不安になった。
夜が明ける頃、嵐は弱まった。
だが、問題は増えた。
船長と護衛兵は拘束した。
水夫たちは見張りつきで働かせることにした。
海賊は逃げた。
奴隷管理者は海へ落ちたまま戻らない。
それで船の行き先が決まるわけではなかった。
ガルドが舵輪の前で言った。
「この船は重い。奴隷輸送用だ。それなりにでかいが、速くない。帆も傷んでる。水も足りない。食料は三日分とは言わんが、一週間でなくなる。怪我人もいる。しかも帝国の航路上だ。今頃、近くの灯台へ信号が飛んでる」
「つまり?」
「追っ手が来る」
ナギは海を見た。
雲の切れ間から光が差している。
遠くには、白い灯台の点が見えた。
帝国の光。
昨夜も見えた。
どこへ行っても見える気がした。
「逃げるぞ」
ナギが言うと、ガルドが鼻で笑った。
「どっちへ?」
「帝国じゃない方」
「海は狭い。帝国じゃない方なんざ、そう簡単にない」
「じゃあ、追ってこない方」
「風は西だ。潮も西へ流れてる。普通なら、西へ逃げる」
「普通なら?」
ガルドは海面を見た。
そこには、波の筋があった。
色の違う水が、斜めに走っている。
「潮目だ」
「しおめ」
「海の道だ。これに乗れば楽に行ける。逆らえば、船は遅くなる。へたをすれば舵が効かない」
マルクも横から言った。
「帝国の巡視艇も、こちらが西へ逃げると読むはずだ。風と潮がそうだからな」
「じゃあ、東へ行く」
マルクが目を見開いた。
「聞いていたのか。東は逆潮だ」
「だからいい」
ナギは昇龍を見た。
昇龍は船縁の近くで、海面をじっと見ていた。
黒い鼻先を水に近づけている。
魚の匂いでも嗅いでいるようだった。
「昇龍」
ナギが呼ぶと、黒い龍魚が振り向く。
「東へ行けるか」
昇龍が、ゆっくりと船縁へ進んだ。
甲板がきしむ。
ナギは一瞬、船首に取りつくのだと思った。
だが、昇龍は違った。
黒い身体をくねらせ、濡れた船縁を越える。
「おい」
ナギが声を上げるより早く、昇龍は海へ降りた。
落ちたのではない。
水面が、昇龍のためだけに深く開いた。
黒い龍魚は、船の横を泳ぎ始めた。
その身体が水に入ると、また大きく見えた。
いや、見えただけではない。
実際に大きくなっている。
海水を吸ったのか、波を食ったのか、黒い胴が伸びる。背の鰭が高くなり、尾が太くなる。船上ではクマほどに見えた昇龍が、海の中では小舟ほどの長さに膨れていく。
リタが息を呑んだ。
「昇龍、また大きくなってる」
水夫たちも見ていた。
恐怖と好奇心が混じった顔だった。
マルクが、ほとんど息だけで言った。
「あれを、船に乗せていたのか」
「勝手に乗ってた」
「それで済む話か」
昇龍は船首の先へ回り込んだ。
船を振り返る。
赤い目が、ナギを見た。
「何する気だ」
ガルドが呟く。
昇龍は、口で太い曳き綱をくわえた。
もともと海賊船に引っかけられていた鉤縄の一本だ。切れて甲板に残っていたものを、いつの間にか海へ落としている。
ガルドが顔を変えた。
「まさか」
昇龍が尾を打った。
海面が盛り上がる。
船首が、ぐい、と前へ引かれた。
ガルドが舵輪を握りしめる。
「つかまれ!」
船が動いた。
帆ではない。
風でもない。
船の前で泳ぐ黒い龍魚が、船を引いている。
最初は、ただ引きずられているようだった。
舳先が波に突っ込み、船腹が軋み、甲板の者たちが転がる。
「馬鹿、船を壊すな!」
ガルドが怒鳴る。
昇龍は気にしていない。
海の中で尾を振るたび、船が前へ出る。
黒い背鰭が波間を走る。
綱が鳴る。
船全体が、いままでとは別の生き物に引っ張られているようだった。
ナギは船縁へ駆け寄った。
「昇龍! ゆっくりだ、ゆっくり!」
昇龍が一度だけ振り返る。
文句があるのか、という顔だった。
「壊したら沈むだろ!」
昇龍の尾が少しだけ弱まる。
船の揺れが落ち着く。
ガルドが舵を切った。
波の筋が、船の横を斜めに走っている。
普通なら、船は西へ押される。
だが、昇龍はその潮目を正面から噛み破るように泳いでいた。
船首が東を向く。
風は逆。
潮も逆。
それでも船は進む。
ガルドの口が、ゆっくり開いた。
「これは……潮に逆らって動けるのか」
誰も答えられなかった。
答えられる者などいなかった。
船は進んでいた。
帝国の航路では、ありえない方角へ。
風と潮に逆らって。
昇龍が、海の流れそのものに牙を立てるようにして。
その時、見張り台に上がっていたトマが叫んだ。
「船! 後ろ!」
ナギは振り返った。
西の潮に乗って、小型の帝国巡視艇がこちらへ向かってきている。
白い帆。
細い船体。
速い。
昨夜の騒ぎを聞きつけたのだろう。
エリオが顔を青くした。
「灯台巡視艇だ。信号が届いたんだ」
サヤが槍を握る。
「戦うか」
ガルドが即座に言った。
「無理だ。こっちは船が重い。帆も破れてる。相手は小回りが利く」
マルクも歯を食いしばった。
「しかも向こうは潮に乗っている。普通なら振り切れない」
「普通なら、だろ」
ナギは海の中の昇龍を見た。
「もっと行けるか」
昇龍が振り返った。
赤い目が、少し楽しそうに見えた。
次の瞬間、船が跳ねた。
昇龍が波の背を越え、曳き綱が張りつめる。
船首が引き上げられ、波を乗り越えた。
帆が悲鳴を上げる。
ロープが鳴る。
甲板の者たちが転がる。
「うわっ!」
「だから船を壊すなって言ってるだろ!」
ナギが怒鳴る。
昇龍は気にしていない。
黒い尾が海面を叩く。
船は潮目を横切った。
普通なら船腹を押され、舵を取られる場所だった。だが、船は、斜めに裂くように進んだ。
帝国巡視艇の動きが乱れる。
相手は、こちらが潮に流されると思っていた。
だから、先回りの位置がずれた。
ガルドが叫ぶ。
「帆を少し開け! 風は流せ、揺れを殺すだけでいい! サヤ、左の綱! トマ、そこを結べ! マルク、操舵の補助に入ってくれ! エリオ、見張りを頼む!」
マルクが一瞬だけ迷った。
ガルドが怒鳴る。
「みんなを殺したいのか!」
マルクは舵輪へ走った。
エリオも見張り台へ向かう。
水夫たちが、命じられる前に帆綱へ飛びついた。
今この瞬間だけは、彼らも同じだった。
帝国船を守るためではない。
反乱奴隷を助けるためでもない。
ただ、船を沈めないために動いていた。
ナギは船首まで走り、綱をつかんだ。
黒い背鰭が海面を切っている。
昇龍の泳ぎに合わせて、船が引かれる。
ナギは甲板から叫んだ。
「速く行け。でも船は壊すな」
昇龍が短く鳴った。
海の中から、腹に響くような音が返ってくる。
分かった、と言っているようにも聞こえた。
奪った船は、東へ進んだ。
風に逆らい、潮に逆らい、帝国の灯台が示す航路から外れていく。
巡視艇は追おうとしたが、速度が読めない。
船長らしい男が、向こうの甲板で怒鳴っているのが見えた。
だが、追いつけない。
距離が開く。
さらに開く。
やがて、巡視艇は西の潮へ流されるように小さくなった。
トマが笑い出した。
「逃げ切った!」
サヤも息を吐く。
リタが海の中の昇龍を見て、目を輝かせた。
「すごい」
ナギは笑おうとした。
だが、ガルドの顔を見てやめた。
老水夫は、舵輪を握ったまま汗をかいていた。
喜んでいない。
マルクも同じ顔をしていた。
「ガルド」
「これは便利だ」
ガルドは海面を見たまま言った。
「便利すぎる」
ナギは何も言えなかった。
「船はな、風と潮を読んで動くものだ。逆らうなら、代わりにどこかへ負担が来る。帆か、舵か、竜骨かか。あいつが何でそれを埋めてるのか、俺には分からん」
昇龍は船の前方で、誇らしげに海面へ顔を出している。
ナギには、それがまだ可愛く見えた。
同時に、綱が擦れて黒く染まっているのも見えた。
昇龍が通った海面だけ、潮の色が少し濃い。
ナギは手を握った。
「俺の言うことなら、聞く」
「……今はな」
ガルドは短く言った。
それ以上は言わなかった。
夕方、船は帝国灯台の光が届きにくい岩礁の影に入った。
船は傷だらけだった。
人も傷だらけだった。
それでも、誰も鎖につながれていなかった。
ただし、完全な仲間になったわけでもなかった。
甲板の前方には、解放された者たち。
後方には、武器を取り上げられた水夫たち。
船室には、船長と護衛兵。
見張りは互いにつけている。
夜になれば、また不安が戻るだろう。
誰かが逃げようとするかもしれない。
誰かが水樽に毒を入れるかもしれない。
誰かが昇龍を恐れて海へ飛び込むかもしれない。
自由は、思ったより面倒だった。
その夜、鍋には黒い保存パンと豆と塩漬け魚が出た。
葡萄酒を薄めた水が、小さな器で回された。
ナギは一口飲んで顔をしかめた。
「なんだこの水」
ガルドが言った。
「水をもたせるために酒が入ってる」
「飯をもたせるために変なものは入ってないだろうな」
「お前はすぐ飯の話をする」
「飯の話は大事だろ」
「大事だ」
ガルドは認めた。
その声は、少しだけ柔らかかった。
リーネが病人に先に器を配る。
サヤが無言で手伝う。
トマが干し肉を盗もうとして、リタに見つかる。
水夫たちは、まだ距離を取って食べていた。
エリオは少し離れて座っている。
ナギは自分の器を持って、エリオの前に置いた。
「食え」
「いいのか」
「働くなら食え」
「……ありがとう」
「だから敬語はいらねえって」
ナギは戻ろうとした。
エリオが小さく言った。
「君は、これからどこへ行くんだ」
ナギは甲板の黒い旗を見た。
焼けた鎖。
細い龍。
子どもの絵みたいな旗。
けれど、今はそれ以外に掲げたいものがなかった。
「帝国じゃない方」
エリオは苦笑した。
「またそれか」
「違う。今度は、潮が決めるんじゃない」
ナギは船縁の向こうを見た。
昇龍が海に浮いている。
黒い背が、月明かりを吸っていた。
「俺たちが決める」
その言葉を聞いていたのか、昇龍が低く鳴った。
夜の海に、その音が沈む。
今度の声は、遠い灯台の鐘に似ていた。
けれど帝国の鐘ではない。
帰る港を知らない船が、自分で鳴らした鐘だった。
ガルドが、舵輪の横で言った。
「なら、名前を決めろ」
「旗の?」
「船のだ。いつまでも帝国の登録名で呼ぶ気か」
ナギは初めて、そのことに気づいた。
この船には、帝国の名前があった。
船尾に彫られている。
登録番号もある。
輸送商会の印もある。
それを見た瞬間、急に腹が立った。
「消せるか」
「削ればな」
「今すぐ削れ」
「名前を決めてからだ」
ナギは海の上の昇龍を見た。
まだ完全な龍ではない。
鯉のような顔をしている。
黒く、濡れて、怒りっぽく、腹が減ると魚を欲しがる。
リタが言った。
「黒い鯉」
トマが続ける。
「黒鯉?」
サヤが腕を組んだ。
「黒鯉号」
ガルドがうなずいた。
「悪くない」
ナギは少し考えた。
もっと強そうな名前でもよかった。
黒龍号とか、嵐を裂く何とかとか。
だが、昇龍はまだ鯉だった。
龍になりきっていない。
ナギ自身も、まだ海賊になりきっていない。
だから、それでいいと思った。
「黒鯉号だ」
昇龍が尾で海を打った。
船が少し揺れる。
全員が慌てて器を押さえた。
「おい!」
ナギが怒鳴ると、昇龍は満足そうに喉を鳴らした。
その夜、船尾の帝国登録名は削られた。
代わりに、拙い文字で新しい名が刻まれた。
黒鯉号。
帝国の帳簿には、まだ存在しない船だった。
だが、その夜から、確かに海の上にいた。
潮目に逆らって進む船。
焼けた鎖の旗を掲げる船。
腹を空かせた者たちが、黒いパン粥を囲む船。
帝国の水夫たちを見張りながら、それでも彼らの手を借りて進む船。
そして、まだ鯉なのか龍なのか分からない黒い獣に引かれる船。
ナギは甲板に寝転がり、夜空を見た。
雲の切れ間に星がある。
遠くには帝国灯台の光。
その光の外側へ、黒鯉号は進もうとしていた。
どこへ行くかは、まだ分からない。
けれど、初めて自分で決めた名前の船に乗っていた。
それだけで、ナギの腹の奥は少しだけ満ちていた。
もちろん、すぐに腹は鳴った。
リタが笑った。
「ナギ、またお腹すいたの?」
「お前、明日の分も食っただろ」
サヤが呆れた。
「明日の分は明日食べろよな」
ナギは目を閉じた。
「明日も食えるならな」
それは冗談のつもりだった。
だが、誰もすぐには笑わなかった。
船は進む。
潮に逆らって。
帝国の予測に逆らって。
だが、海は広く、腹は減る。
船にはまだ、完全には信用できない者たちも乗っている。
港に着けば、降ろす者もいる。
その前に、追っ手が来るかもしれない。
黒鯉号の最初の夜は、自由と空腹と疑いの間で静かに更けていった。
夜明け前、ガルドが舵輪の横から声をかけた。
「で、どこへ行く?」
ナギは目を開けた。
自分が聞かれていると、少し遅れて分かった。
ガルドは笑っていた。
サヤも、トマも、リーネも、リタも、エリオも、ナギを見ていた。
少し離れた水夫たちも、見ないふりをしながら耳を向けている。
船縁の向こうで、昇龍が赤い目を細める。
ガルドが、もう一度言った。
「どこに行く? 船長」




