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英星王座戦 リアライメント・アーク  作者: 明丸 丹一
海冠帝国オルドマーレ
32/44

第2話 潮に逆らう船

 船を奪った。


 だからといって、自由になったわけではなかった。


 嵐が去ったあと、甲板には雨水と血と砕けた木片が残っていた。


 帝国旗は落ちた。


 海賊旗も落ちた。


 焼けた鎖と細い龍を描いた黒い布だけが、折れたマストの上で濡れていた。


 それを見上げて、泣く者がいた。


 笑う者がいた。


 黙ったまま膝をつく者もいた。


 ナギは、そのどれでもなかった。


 腹が鳴っていた。


 自分でも場違いだと思った。


 けれど、腹は減る。


 戦っても、叫んでも、鎖が切れても、人間の腹は減る。


「……なんか食うもんないのか」


 ナギがそう言うと、サヤが振り返った。


 濡れた髪を乱暴にまとめた少女だった。ナギより少し年上に見える。さっきまで鎖を引きずって海賊の足に絡みついていたせいで、膝と腕に傷がある。


「この状況で、飯?」


 ガルドが口を出す。


「船を奪ったばかりなんだぞ」


「だから腹が減った」


 サヤは呆れたように口を開き、それから少しだけ笑った。


「大物なのか、馬鹿なのかな」


「どっちでもいい。なんか食えるものないか」


 ガルドが舵輪の前から声を飛ばした。


「なら、食料庫を見ろ。船長室の下だ。ただし、先に水樽だ。飯より水だ」


 ナギは顔をしかめた。


「飯の話をしてる」


「船では水の話が飯の話だ。水が腐れば、パンがあっても死ぬ」


 ガルドは舵輪を握ったまま、空を見た。


 嵐は遠ざかりつつあった。


 だが、海はまだ高い。雲は低く、波は黒く、帝国灯台の白い光が遠くに滲んでいる。


 奪った船は、無事ではなかった。


 帆は裂け、舷側には砲弾の跡がある。海賊船に引っかけられた鉤縄の傷が残り、階段の一部は昇龍が壊した。船底にはまだ水が溜まっている。死人もいる。怪我人もいる。泣いている子どももいる。


 そして、船にはまだ、帝国側の人間が大勢残っていた。


 白い制服の兵。


 船長。


 航海士。


 砲手。


 甲板水夫。


 帆を扱う者。


 調理係。


 見張り。


 海賊との戦闘で倒れた者もいたが、生き残りの方が多い。


 当然だった。


 この船は軍艦ではない。


 登録労働民を運ぶ輸送船だ。


 武装した帝国兵は一部で、船を動かしていたのは、ほとんどが雇われの水夫だった。


 だが、その水夫たちも帝国船の人間だった。


 さっきまで、ナギたちは船底に鎖でつながれていた。


 向こうは甲板の上にいた。


 それだけで、簡単には同じ船の仲間になれない。


 甲板の端に、生き残った帝国兵と水夫たちが集められていた。


 武器は取り上げた。


 手を縛った者もいる。


 縛っていない者もいる。


 帆綱を握れる者まで縛れば、船が動かない。


 だが、完全に自由にすれば、こちらが寝ている間に海へ落とされるかもしれない。


 ナギは、その人数を見て顔をしかめた。


「多いな」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「船ってのは、人間がいるんだ。帆だけで走ってるわけじゃない」


「全員、敵か」


「敵だったやつもいる。命令で動いてたやつもいる。飯のために船に乗ってただけのやつもいる」


「見分けられるか」


「全部は無理だ」


 サヤが槍を握ったまま言った。


「じゃあ、まとめて縛る」


 甲板水夫の何人かが顔をこわばらせた。


 ナギは彼らを見た。


 手のひらが荒れている。


 指が太い。


 足の運びが船に慣れている。


 だが、剣を持つ手ではない。


 その中に、さっきリタの前に立った若い帝国兵がいた。


 肩章は外している。剣も床に置いている。だが、白い制服のせいで、誰から見ても帝国兵だった。


 サヤが彼を睨む。


「そいつも縛るか?」


 若い兵が肩を震わせる。


 ナギは一度だけ見た。たしかこの若い兵は、あのとき鍵を投げたやつだ。最初の分岐点。


「名前は」


「……エリオ」


「エリオ。船は動かせるか」


「帆の扱いは少しだけ。見張りと信号なら」


「じゃあ生きてろ」


 サヤが眉を吊り上げた。


「それでいいのか」


「こいつはリタの前に立った」


「遅すぎた」


「でも立った」


「帝国兵だぞ」


「知ってる。だから見張る。働けるなら働かせる。逆らうなら縛る」


 エリオは顔を上げた。


「……俺は」


「敬語はいらねえ」


「分かった。俺は、海賊に奴隷を渡すのは違うと思った。でも、止められなかった」


「なら、次は止めろ」


 エリオは言葉に詰まった。


 ナギは、水夫たちの方へ歩いた。


 中年の男がひとり、他の水夫より少し前に出ている。航海士らしい。顔は青いが、目は死んでいない。


「お前、船を動かせるか」


「一応は」


「一応って何だ」


「私は二等航海士だ。船長がいれば補佐する。船長がいなければ、応急の針路くらいは見る」


「船長は」


 甲板の柱に縛られていた男が、こちらを睨んだ。


 整った外套は裂れ、顔には血がついている。


 だが、背筋だけはまだ高い。


 ナギはその顔を見て、船底で聞いた声を思い出した。


 本船と残余資産は保全できます。


 その言葉を言ったのは奴隷管理者だった。


 だが、積荷の一部を引き渡すと決めたのは、この船長だ。


 船長が言った。


「貴様らは、帝国船を不法占拠している」


 ナギは少し考えた。


 それから近くに転がっていた濡れた布をつかみ、船長の口に押し込んだ。


「今のは聞く価値ない」


 サヤが笑った。


 二等航海士の顔がさらに青くなる。


 ナギは彼を見た。


「お前は?」


「私は、船を沈めたくない」


「俺もだ」


「乗員も、積まれていた人々も、全員死なせたくない」


「じゃあ同じだ」


「だが、帝国船を奪うことには協力できない」


「なら、港まで働け。港で降ろす」


 航海士が目を細めた。


「本気か」


「殺したいなら、さっき海へ落としてる」


「港で当局へ通報するぞ」


「するだろうな」


「分かっていて降ろすのか」


「お前らを船に乗せたまま寝るよりましだ」


 ガルドが舵輪の横で小さく笑った。


「悪くない。半端な情けより、ずっと船乗りの話だ」


 ナギは続けた。


「武器は渡さない。舵と帆と水と食料に必要な仕事はしろ。逃げるな。船を壊すな。海賊を呼ぶな。帝国の港じゃない場所に着いたら降ろす。そこで好きに行け」


 水夫たちがざわついた。


 サヤが言った。


「甘くないか」


「じゃあ全員縛るか」


「できるなら」


「できねえ。帆を張れない。水も汲めない。舵も見られない。船を沈めたいなら別だけどな」


 サヤは黙った。


 不満はある。


 だが、言い返せない。


 ガルドが二等航海士へ声をかけた。


「おい、名は」


「マルク」


「マルク。俺はガルドだ。昔、北回り航路で帆を見ていた。今はこの通り鎖つきの管理労働民だ」


「……聞いたことがある。片耳のガルドか」


「悪名の方なら忘れろ」


「それは……難しい」


「なら覚えとけ。今この船で一番沈みたくないのは俺だ。お前も沈みたくないなら、帆を見る。船長ごっこはしなくていい。船を生かしてくれ」


 マルクは、縛られた船長を見た。


 船長は布を噛んだまま怒っている。


 だが、怒っているだけだった。


 嵐の残り。


 破れた帆。


 傷んだ舵。


 怪我人。


 腹を空かせた逃亡奴隷たち。


 そして、甲板に丸まる黒い龍魚。


 この状況で船長の命令だけを聞いていれば、全員死ぬ。


 マルクは深く息を吐いた。


「帆を見る。だが、船長を殺すな」


「港で降ろす」


「護衛兵は?」


「武器を持たせない。暴れたら縛る。港で降ろす」


「奴隷管理官は」


「そんなやつもいたな。海に落ちた」


 マルクは黙った。


 何か言いたそうだったが、言わなかった。


 ナギも言わなかった。


 甲板の中央で、昇龍が丸まっていた。


 黒い龍魚は、さっきより小さくなっていた。


 それでも、大型犬よりは大きい。熊ほどではないが、普通の獣ではない。濡れた黒い鱗が、呼吸に合わせてわずかに波打っている。


 リタが、少し離れたところからじっと見ていた。


「触っていいのかな」


「やめとけ」


 ナギは即答した。


「噛む?」


「分からん」


 昇龍ショウリュウが片目を開けた。


 赤い目が、ナギを見た。


 それから、少しだけ首を低くした。


 まるで、噛まない、と言っているようだった。


 リタが一歩近づく。


 ナギはリタの襟をつかんで止めた。


「やめとけって」


「でも、助けてくれた」


「助けてくれたやつが安全とは限らねえ」


 昇龍の喉が鳴った。


 船底で聞いた舟唄に近い、低い音だった。


 怒ってはいない。


 拗ねたような音だった。


 リタが笑った。


「小熊みたい」


 ナギは昇龍を見た。


 クマ。


 たしかに、犬というには大きすぎる。丸まっているからおとなしく見えるだけで、さっきは人間を二人まとめて海へ叩き落とした。


「こんなクマ、近所にいたら村が逃げる」


 昇龍が尾で甲板を打った。


 濡れた板が、どん、と鳴る。


「ほら見ろ。すぐ怒る」


 リタが声を出して笑った。


 その笑い声を聞いて、甲板の空気が少しだけ緩んだ。


 泣いていた者が、泣きながら笑った。


 座り込んでいた者が、ようやく息を吐いた。


 自由になった。


 けれど、何をすればいいのか分からない。


 だから、まず皆で食料庫を開けた。


 食料庫には、黒い保存パンが積まれていた。


 硬い。


 重い。


 石みたいなパンだった。


 ほかには塩漬けの魚、豆、干し肉、酢の樽、葡萄酒と、水樽がいくつか。奥には小さな木箱があった。


 トマがそれを開けた。


「レモンだ」


 黄色い実が、網に包まれて入っていた。


 ナギは一つ手に取った。


「食えるのか」


「酸っぱい果実だよ」


「酸っぱいだけ?」


 マルクが後ろから言った。


「船では大事だ。長く海にいると、歯茎が腐る。足が弱る。傷も治りにくくなる。柑橘は薬みたいなものだ」


 トマが肩をすくめる。


「だってさ」


 リーネが横からうなずいた。


 船医見習いの少女は、負傷者の血で手を赤くしていた。


「大事に食べて。病人から先」


 ナギはレモンを見た。


 小さい。


 硬い。


 こんなものが命を分けるのか。


「じゃあ金より大事だな」


 トマが笑う。


「金も大事だろ」


「金は食えねえ」


「レモンもそのままだときついぞ」


「食えないわけじゃない」


 ナギはかじろうとした。


 リーネが手を叩いた。


「待って。全員分を考えて」


「一口だけ」


「一口が何人分の薬になると思ってるの」


 ナギは不満そうにレモンを戻した。


 サヤがそれを見て笑う。


「大海賊様、初めての命令は飯とレモンか」


「俺は海賊じゃねえ」


「旗は上げた」


「そうだ。もう俺たちは誰のものでもない」


「船も奪った」


「そう。奪った」


「なら海賊だ」


 ナギは少し黙った。


 海賊。


 さっきまで、あの魚骨の旗を掲げた連中がそうだった。


 奴隷を売る連中。


 人間を獲物と呼ぶ連中。


 ナギは、その言葉が好きではなかった。


 だが、帝国の言葉はもっと嫌いだった。


 登録労働民。


 保護監督対象。


 戦後再配置民。


 人間を番号にする言葉。


 どちらの言葉も嫌いなら、自分で意味を奪うしかない。


「海賊なら」


 ナギは言った。


「俺たちは、海賊から奪う海賊だ」


 サヤが目を細めた。


「金銀を奪う?」


「金銀は食い物を買う時にいる」


「結局、飯か」


「飯だ」


 今度は何人かが笑った。


 その笑いは弱かったが、船底の泣き声よりはずっとましだった。


 リーネとトマが、水と保存パンを分け始めた。


 黒い保存パンはそのままでは歯が立たない。ガルドが鍋を出させ、海水ではなく貴重な真水を少し使って、砕いたパンを煮た。


 リーネが塩漬け魚を細かく裂く。


 サヤが豆を入れる。


 トマが干し肉を盗み食いしようとして、ナギに見つかる。


「おい」


「味見だ」


「味見なら俺がする」


「結局食うのかよ」


 鍋は黒く濁った。


 うまそうには見えない。


 だが、湯気が立つ。


 魚と塩と豆の匂いがする。


 リタが器を抱えた。


「さっきの粥より、においがする」


 ナギは少しだけ胸が詰まった。


「いっぱい食え」


 リーネがすぐ言った。


「いきなりいっぱい食べると腹を壊す」


「じゃあ、ちょっといっぱい食え」


「意味が分からない」


 リタが笑いながら、黒いパン粥を食べた。


 熱かったのか、舌を出す。


 それでも、嬉しそうだった。


 ナギも食べた。


 硬いパンは煮崩れて、どろどろになっている。塩辛い。魚臭い。豆はあまり柔らかくない。干し肉は少ない。


 うまかった。


 悔しいくらい、うまかった。


 自分たちで鍋を囲んでいる。


 誰かの番号順ではない。


 規定量ではない。


 殴られない。


 そのことだけで、胃より先に胸が熱くなった。


 少し離れたところで、水夫たちにも器が配られた。


 サヤは不満そうだった。


「敵にも食わせるのか」


 ナギは粥をすすりながら答えた。


「働かせるなら食わせる」


「働かせたあと縛る?」


「逆らったらな」


 マルクが器を受け取り、無言で頭を下げた。


 船長は縛られたまま、何か唸っている。


 ナギはそちらを見た。


「あいつにも食わせろ。死なれると面倒だ」


 サヤが顔をしかめる。


「本当に甘い」


「殺したいならお前がやれ」


 サヤは黙った。


 できないわけではない。


 だが、今ここで縛られた船長を殺せば、それは戦いではなく処刑になる。


 ナギはそう思った。


 鎖を切るためなら暴れる。


 海へ叩き落とすこともある。


 だが、縛った相手を飯も食わせず見殺すのは違う。


 それでは、船底で人間を番号にした連中と何が違うのか分からない。


 昇龍が、鍋の匂いにつられたように頭を上げた。


 リタが自分の器を差し出す。


「食べる?」


 昇龍は器ではなく、リタの隣に置かれた塩漬け魚を見た。


 ナギがすばやく取った。


「それは皆の分だ」


 昇龍が低く鳴る。


 今度は、船底の水が小さく震えるような音だった。


「鳴いてもだめだ」


 昇龍はナギを見た。


 赤い目が、じっと見てくる。


 ナギは魚の尾の切れ端だけを投げた。


 昇龍がぱくりと食べる。


 その仕草は、やっぱり犬かクマに近かった。


 サヤが呆れたように言った。


「本当に飼う気か」


「向こうが勝手についてきた」


「もうクマくらいあるぞ」


「これ以上でかくなるなよ」


 昇龍が尾を打つ。


 ナギは本気で少し不安になった。


 夜が明ける頃、嵐は弱まった。


 だが、問題は増えた。


 船長と護衛兵は拘束した。


 水夫たちは見張りつきで働かせることにした。


 海賊は逃げた。


 奴隷管理者は海へ落ちたまま戻らない。


 それで船の行き先が決まるわけではなかった。


 ガルドが舵輪の前で言った。


「この船は重い。奴隷輸送用だ。それなりにでかいが、速くない。帆も傷んでる。水も足りない。食料は三日分とは言わんが、一週間でなくなる。怪我人もいる。しかも帝国の航路上だ。今頃、近くの灯台へ信号が飛んでる」


「つまり?」


「追っ手が来る」


 ナギは海を見た。


 雲の切れ間から光が差している。


 遠くには、白い灯台の点が見えた。


 帝国の光。


 昨夜も見えた。


 どこへ行っても見える気がした。


「逃げるぞ」


 ナギが言うと、ガルドが鼻で笑った。


「どっちへ?」


「帝国じゃない方」


「海は狭い。帝国じゃない方なんざ、そう簡単にない」


「じゃあ、追ってこない方」


「風は西だ。潮も西へ流れてる。普通なら、西へ逃げる」


「普通なら?」


 ガルドは海面を見た。


 そこには、波の筋があった。


 色の違う水が、斜めに走っている。


「潮目だ」


「しおめ」


「海の道だ。これに乗れば楽に行ける。逆らえば、船は遅くなる。へたをすれば舵が効かない」


 マルクも横から言った。


「帝国の巡視艇も、こちらが西へ逃げると読むはずだ。風と潮がそうだからな」


「じゃあ、東へ行く」


 マルクが目を見開いた。


「聞いていたのか。東は逆潮だ」


「だからいい」


 ナギは昇龍ショウリュウを見た。


 昇龍は船縁の近くで、海面をじっと見ていた。


 黒い鼻先を水に近づけている。


 魚の匂いでも嗅いでいるようだった。


「昇龍」


 ナギが呼ぶと、黒い龍魚が振り向く。


「東へ行けるか」


 昇龍が、ゆっくりと船縁へ進んだ。


 甲板がきしむ。


 ナギは一瞬、船首に取りつくのだと思った。


 だが、昇龍は違った。


 黒い身体をくねらせ、濡れた船縁を越える。


「おい」


 ナギが声を上げるより早く、昇龍は海へ降りた。


 落ちたのではない。


 水面が、昇龍のためだけに深く開いた。


 黒い龍魚は、船の横を泳ぎ始めた。


 その身体が水に入ると、また大きく見えた。


 いや、見えただけではない。


 実際に大きくなっている。


 海水を吸ったのか、波を食ったのか、黒い胴が伸びる。背の鰭が高くなり、尾が太くなる。船上ではクマほどに見えた昇龍が、海の中では小舟ほどの長さに膨れていく。


 リタが息を呑んだ。


「昇龍、また大きくなってる」


 水夫たちも見ていた。


 恐怖と好奇心が混じった顔だった。


 マルクが、ほとんど息だけで言った。


「あれを、船に乗せていたのか」


「勝手に乗ってた」


「それで済む話か」


 昇龍は船首の先へ回り込んだ。


 船を振り返る。


 赤い目が、ナギを見た。


「何する気だ」


 ガルドが呟く。


 昇龍は、口で太い曳き綱をくわえた。


 もともと海賊船に引っかけられていた鉤縄の一本だ。切れて甲板に残っていたものを、いつの間にか海へ落としている。


 ガルドが顔を変えた。


「まさか」


 昇龍が尾を打った。


 海面が盛り上がる。


 船首が、ぐい、と前へ引かれた。


 ガルドが舵輪を握りしめる。


「つかまれ!」


 船が動いた。


 帆ではない。


 風でもない。


 船の前で泳ぐ黒い龍魚が、船を引いている。


 最初は、ただ引きずられているようだった。


 舳先が波に突っ込み、船腹が軋み、甲板の者たちが転がる。


「馬鹿、船を壊すな!」


 ガルドが怒鳴る。


 昇龍は気にしていない。


 海の中で尾を振るたび、船が前へ出る。


 黒い背鰭が波間を走る。


 綱が鳴る。


 船全体が、いままでとは別の生き物に引っ張られているようだった。


 ナギは船縁へ駆け寄った。


「昇龍! ゆっくりだ、ゆっくり!」


 昇龍が一度だけ振り返る。


 文句があるのか、という顔だった。


「壊したら沈むだろ!」


 昇龍の尾が少しだけ弱まる。


 船の揺れが落ち着く。


 ガルドが舵を切った。


 波の筋が、船の横を斜めに走っている。


 普通なら、船は西へ押される。


 だが、昇龍はその潮目を正面から噛み破るように泳いでいた。


 船首が東を向く。


 風は逆。


 潮も逆。


 それでも船は進む。


 ガルドの口が、ゆっくり開いた。


「これは……潮に逆らって動けるのか」


 誰も答えられなかった。


 答えられる者などいなかった。


 船は進んでいた。


 帝国の航路では、ありえない方角へ。


 風と潮に逆らって。


 昇龍が、海の流れそのものに牙を立てるようにして。


 その時、見張り台に上がっていたトマが叫んだ。


「船! 後ろ!」


 ナギは振り返った。


 西の潮に乗って、小型の帝国巡視艇がこちらへ向かってきている。


 白い帆。


 細い船体。


 速い。


 昨夜の騒ぎを聞きつけたのだろう。


 エリオが顔を青くした。


「灯台巡視艇だ。信号が届いたんだ」


 サヤが槍を握る。


「戦うか」


 ガルドが即座に言った。


「無理だ。こっちは船が重い。帆も破れてる。相手は小回りが利く」


 マルクも歯を食いしばった。


「しかも向こうは潮に乗っている。普通なら振り切れない」


「普通なら、だろ」


 ナギは海の中の昇龍を見た。


「もっと行けるか」


 昇龍が振り返った。


 赤い目が、少し楽しそうに見えた。


 次の瞬間、船が跳ねた。


 昇龍が波の背を越え、曳き綱が張りつめる。


 船首が引き上げられ、波を乗り越えた。


 帆が悲鳴を上げる。


 ロープが鳴る。


 甲板の者たちが転がる。


「うわっ!」


「だから船を壊すなって言ってるだろ!」


 ナギが怒鳴る。


 昇龍は気にしていない。


 黒い尾が海面を叩く。


 船は潮目を横切った。


 普通なら船腹を押され、舵を取られる場所だった。だが、船は、斜めに裂くように進んだ。


 帝国巡視艇の動きが乱れる。


 相手は、こちらが潮に流されると思っていた。


 だから、先回りの位置がずれた。


 ガルドが叫ぶ。


「帆を少し開け! 風は流せ、揺れを殺すだけでいい! サヤ、左の綱! トマ、そこを結べ! マルク、操舵の補助に入ってくれ! エリオ、見張りを頼む!」


 マルクが一瞬だけ迷った。


 ガルドが怒鳴る。


「みんなを殺したいのか!」


 マルクは舵輪へ走った。


 エリオも見張り台へ向かう。


 水夫たちが、命じられる前に帆綱へ飛びついた。


 今この瞬間だけは、彼らも同じだった。


 帝国船を守るためではない。


 反乱奴隷を助けるためでもない。


 ただ、船を沈めないために動いていた。


 ナギは船首まで走り、綱をつかんだ。


 黒い背鰭が海面を切っている。


 昇龍の泳ぎに合わせて、船が引かれる。


 ナギは甲板から叫んだ。


「速く行け。でも船は壊すな」


 昇龍が短く鳴った。


 海の中から、腹に響くような音が返ってくる。


 分かった、と言っているようにも聞こえた。


 奪った船は、東へ進んだ。


 風に逆らい、潮に逆らい、帝国の灯台が示す航路から外れていく。


 巡視艇は追おうとしたが、速度が読めない。


 船長らしい男が、向こうの甲板で怒鳴っているのが見えた。


 だが、追いつけない。


 距離が開く。


 さらに開く。


 やがて、巡視艇は西の潮へ流されるように小さくなった。


 トマが笑い出した。


「逃げ切った!」


 サヤも息を吐く。


 リタが海の中の昇龍を見て、目を輝かせた。


「すごい」


 ナギは笑おうとした。


 だが、ガルドの顔を見てやめた。


 老水夫は、舵輪を握ったまま汗をかいていた。


 喜んでいない。


 マルクも同じ顔をしていた。


「ガルド」


「これは便利だ」


 ガルドは海面を見たまま言った。


「便利すぎる」


 ナギは何も言えなかった。


「船はな、風と潮を読んで動くものだ。逆らうなら、代わりにどこかへ負担が来る。帆か、舵か、竜骨かか。あいつが何でそれを埋めてるのか、俺には分からん」


 昇龍は船の前方で、誇らしげに海面へ顔を出している。


 ナギには、それがまだ可愛く見えた。


 同時に、綱が擦れて黒く染まっているのも見えた。


 昇龍が通った海面だけ、潮の色が少し濃い。


 ナギは手を握った。


「俺の言うことなら、聞く」


「……今はな」


 ガルドは短く言った。


 それ以上は言わなかった。


 夕方、船は帝国灯台の光が届きにくい岩礁の影に入った。


 船は傷だらけだった。


 人も傷だらけだった。


 それでも、誰も鎖につながれていなかった。


 ただし、完全な仲間になったわけでもなかった。


 甲板の前方には、解放された者たち。


 後方には、武器を取り上げられた水夫たち。


 船室には、船長と護衛兵。


 見張りは互いにつけている。


 夜になれば、また不安が戻るだろう。


 誰かが逃げようとするかもしれない。


 誰かが水樽に毒を入れるかもしれない。


 誰かが昇龍を恐れて海へ飛び込むかもしれない。


 自由は、思ったより面倒だった。


 その夜、鍋には黒い保存パンと豆と塩漬け魚が出た。


 葡萄酒を薄めた水が、小さな器で回された。


 ナギは一口飲んで顔をしかめた。


「なんだこの水」


 ガルドが言った。


「水をもたせるために酒が入ってる」


「飯をもたせるために変なものは入ってないだろうな」


「お前はすぐ飯の話をする」


「飯の話は大事だろ」


「大事だ」


 ガルドは認めた。


 その声は、少しだけ柔らかかった。


 リーネが病人に先に器を配る。


 サヤが無言で手伝う。


 トマが干し肉を盗もうとして、リタに見つかる。


 水夫たちは、まだ距離を取って食べていた。


 エリオは少し離れて座っている。


 ナギは自分の器を持って、エリオの前に置いた。


「食え」


「いいのか」


「働くなら食え」


「……ありがとう」


「だから敬語はいらねえって」


 ナギは戻ろうとした。


 エリオが小さく言った。


「君は、これからどこへ行くんだ」


 ナギは甲板の黒い旗を見た。


 焼けた鎖。


 細い龍。


 子どもの絵みたいな旗。


 けれど、今はそれ以外に掲げたいものがなかった。


「帝国じゃない方」


 エリオは苦笑した。


「またそれか」


「違う。今度は、潮が決めるんじゃない」


 ナギは船縁の向こうを見た。


 昇龍が海に浮いている。


 黒い背が、月明かりを吸っていた。


「俺たちが決める」


 その言葉を聞いていたのか、昇龍が低く鳴った。


 夜の海に、その音が沈む。


 今度の声は、遠い灯台の鐘に似ていた。


 けれど帝国の鐘ではない。


 帰る港を知らない船が、自分で鳴らした鐘だった。


 ガルドが、舵輪の横で言った。


「なら、名前を決めろ」


「旗の?」


「船のだ。いつまでも帝国の登録名で呼ぶ気か」


 ナギは初めて、そのことに気づいた。


 この船には、帝国の名前があった。


 船尾に彫られている。


 登録番号もある。


 輸送商会の印もある。


 それを見た瞬間、急に腹が立った。


「消せるか」


「削ればな」


「今すぐ削れ」


「名前を決めてからだ」


 ナギは海の上の昇龍を見た。


 まだ完全な龍ではない。


 鯉のような顔をしている。


 黒く、濡れて、怒りっぽく、腹が減ると魚を欲しがる。


 リタが言った。


「黒い鯉」


 トマが続ける。


「黒鯉?」


 サヤが腕を組んだ。


黒鯉号こくりごう


 ガルドがうなずいた。


「悪くない」


 ナギは少し考えた。


 もっと強そうな名前でもよかった。


 黒龍号とか、嵐を裂く何とかとか。


 だが、昇龍はまだ鯉だった。


 龍になりきっていない。


 ナギ自身も、まだ海賊になりきっていない。


 だから、それでいいと思った。


「黒鯉号だ」


 昇龍が尾で海を打った。


 船が少し揺れる。


 全員が慌てて器を押さえた。


「おい!」


 ナギが怒鳴ると、昇龍は満足そうに喉を鳴らした。


 その夜、船尾の帝国登録名は削られた。


 代わりに、拙い文字で新しい名が刻まれた。


 黒鯉号。


 帝国の帳簿には、まだ存在しない船だった。


 だが、その夜から、確かに海の上にいた。


 潮目に逆らって進む船。


 焼けた鎖の旗を掲げる船。


 腹を空かせた者たちが、黒いパン粥を囲む船。


 帝国の水夫たちを見張りながら、それでも彼らの手を借りて進む船。


 そして、まだ鯉なのか龍なのか分からない黒い獣に引かれる船。


 ナギは甲板に寝転がり、夜空を見た。


 雲の切れ間に星がある。


 遠くには帝国灯台の光。


 その光の外側へ、黒鯉号は進もうとしていた。


 どこへ行くかは、まだ分からない。


 けれど、初めて自分で決めた名前の船に乗っていた。


 それだけで、ナギの腹の奥は少しだけ満ちていた。


 もちろん、すぐに腹は鳴った。


 リタが笑った。


「ナギ、またお腹すいたの?」


「お前、明日の分も食っただろ」


 サヤが呆れた。


「明日の分は明日食べろよな」


 ナギは目を閉じた。


「明日も食えるならな」


 それは冗談のつもりだった。


 だが、誰もすぐには笑わなかった。


 船は進む。


 潮に逆らって。


 帝国の予測に逆らって。


 だが、海は広く、腹は減る。


 船にはまだ、完全には信用できない者たちも乗っている。


 港に着けば、降ろす者もいる。


 その前に、追っ手が来るかもしれない。


 黒鯉号の最初の夜は、自由と空腹と疑いの間で静かに更けていった。


 夜明け前、ガルドが舵輪の横から声をかけた。


「で、どこへ行く?」


 ナギは目を開けた。


 自分が聞かれていると、少し遅れて分かった。


 ガルドは笑っていた。


 サヤも、トマも、リーネも、リタも、エリオも、ナギを見ていた。


 少し離れた水夫たちも、見ないふりをしながら耳を向けている。


 船縁の向こうで、昇龍が赤い目を細める。


 ガルドが、もう一度言った。


「どこに行く? 船長」

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