第12話 やるべきこと
リャン・セイは、起き上がれなかった。
郡城の一室。
寝台の上で、彼は天井の梁を見ていた。
古い梁だった。
木目の奥に長い年月があり、何度も補修された跡がある。雨漏りの染みもある。虫に食われた跡もある。それでも、今この部屋を支えている。
自分も、ああいうものになれればよかった。
リャンは、そんなことを思った。
だが、現実の身体は梁ほど頼もしくない。
左肩が熱い。
包帯の下で、王針蹴撃の傷が疼いている。
傷そのものは塞がった。
五柱が助けてくれたからだ。
五色の光が集まり、リャンの中へ入った。
毒は浄化された。
命はつながった。
だが、完全に戻ったわけではない。
身体が毒を覚えた。
ウンダはそう言った。
「次に同じ針を受ければ、毒そのものより、身体の拒絶が主君を殺します。」
二度目はない。
その言葉は、傷口より深く残っていた。
窓の外では、倉から麦袋が運ばれている。
昨日、ようやく開いた郡城の倉だ。
門の外には鍋が並び、濃い粥が炊かれていた。
昨日まで縄の外で待たされていた民が、今日は椀を持って並んでいる。
王朝兵が麦を運ぶ。
元郷兵が薪を割る。
村人が水を汲む。
五柱が、あちらこちらで働いている。
倉は開いた。
粥は出た。
民は、少なくとも今日の一杯を得た。
それでも、リャンには勝った気がしなかった。
倉が開いたのは、リャンが正しかったからだけではない。
ガイ・レンが来たからだ。
あのままトウ・カクが倉を閉じ続けていれば、蜂印の軍勢が門前で倉を破った。
そうなれば、民は王朝ではなく蜂印へ膝をついた。
トウ・カクはそれを恐れた。
リャンの心に打たれたのではない。
王朝の権威が、反乱者の手で破られることを恐れた。
だから倉を開けた。
リャンと連名で罪を負う形にした。
その判断は、たぶん正しい。
けれど、遅い。
あまりにも遅い。
ガイ・レンは、その前にいくつも村を救っている。
御蜂は街道を飛び、病人に薬蜜を届け、幼子に甘露を届け、盗賊を橋守に変え、種籾の数まで記録している。
リャンはようやく、一つの郡城の倉を開けた。
その代償に、身体へ二度目はない毒を刻まれた。
それは、あまりにも遅い。
「起きないでください」
横から声がした。
ユエンだった。
両腕に紙束を抱えている。
寝台の横には、書きかけの文書が山のように積まれていた。
王都への報告。
郡城の開倉記録。
軍粮の不足見込み。
城外民への配給表。
元郷兵の仮登録。
水車村と上流堰の報告。
蜂印を受けた村の一覧。
どれも、リャンが眠っている間に増えていた。
「起きてはいない」
リャンは言った。
「座ろうとしただけだ」
「同じです」
「外を見たい」
「見えます。窓があります」
「歩きたい」
「論外です」
ユエンは即答した。
リャンは小さく息を吐いた。
それだけで、胸の奥が少し痛む。
「俺が寝ている間に、何か動いたか」
「山ほど」
「悪い方か」
「両方です」
ユエンは紙を一枚めくった。
「まずトウ・カク太守ですが、開倉について、リャン殿下へ全権を委ねたわけではないと強く主張しています」
「だろうな」
「かなり強くです」
「どのくらい」
「『傍流の若殿が血気に逸ったため、太守として王朝の権威を守るべく、最小限の開倉を認めた』という文面にしたがっています」
「俺が悪者か」
「その方が太守は助かります」
「そうだな」
リャンは笑おうとして、肩の痛みでやめた。
「ただし、倉を閉じ直してはいません。粥の配給も続けています」
「王朝の権威を守るためか」
「はい。ここで止めれば、ガイ・レンに再び門前まで来られた時、太守の面目は完全に潰れます」
「それでいい」
「いいのですか」
「民に粥が届くなら、理由は後でいい」
ユエンは少しだけ黙った。
「殿下」
「何だ」
「あなたは、少し危ういことを言っています」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっているつもりだ」
ユエンは紙を抱え直した。
「王朝の手続きより食べ物を優先する。その言い方は、蜂印の反逆者に近い」
「そうだな」
リャンは天井を見た。
近い。
それは自分でも思う。
法より粥。
王命より、倒れた子ども。
手続きより、開く倉。
そこだけ見れば、ガイ・レンと同じだ。
だが、同じにはなりたくない。
ガイ・レンは、集めて配るために従わせる。
リャンは、従わせるのではなく、動ける者を動かしたい。
それが本当に違いになるのかは、まだ分からない。
「他は」
「バン・ロウが動いています」
「バン・ロウが?」
「はい。元郷兵の仮名簿を作り、街道警備へ再編すると言っています」
「誰が命じた」
「殿下です」
「俺は、命じた覚えがない」
「命じずとも、あの者を賊とせず納めた時から、殿下の兵です」
リャンは返事に詰まった。
賊とせず納めた。
その言い方は、妙に重かった。
あの時、リャンはただ目の前のバン・ロウを止めたかった。
元郷兵を殺したくなかった。
村の種籾を奪わせたくなかった。
だから、俺が拾うと言った。
その場しのぎだった。
だが、言葉は残る。
言った本人が忘れても、言われた者は忘れない。
「使えるか」
リャンは聞いた。
「使うのですか」
「使わないと、また飢えて村を襲う」
ユエンはため息をついた。
「殿下は、本当に人を増やしますね」
「厄介ごとも増える」
「そこは自覚があるのですね」
「最近は、ある」
窓の外で、声がした。
バン・ロウだった。
城の中庭で、元郷兵たちを並ばせている。
武器はまだ渡していない。
代わりに、木の棒を持たせていた。
「お前らは兵だ! 賊になり損ねた兵だ! なら、まず並べ!」
元郷兵の一人が文句を言う。
「飯は出るのか」
「出る。ただし、並んだ者からだ」
「王朝の飯か」
「リャン様の飯だ」
「王朝の飯と何が違う」
「食える」
雑な答えだった。
だが、元郷兵たちは笑った。
笑える程度には、空気が戻っている。
リャンはその声を聞いた。
バン・ロウは粗い。
礼儀もない。
だが、飢えた兵の扱いを知っている。
リャンにはできないことだ。
だから任せる。
「バン・ロウには、街道警備を任せる」
「正式にですか」
「仮でいい」
「仮がどんどん増えます」
「本式が遅いからだ」
ユエンは何か言いたげだったが、結局紙に書いた。
「元郷兵隊、仮編成。責任者、バン・ロウ。任命者、リャン・セイ殿下」
「その殿下は必要か」
「必要です。責任の所在です」
「嫌な言葉だ」
「王族の言葉です」
リャンは窓の外を見た。
◇
リン・ファという若い女が水車村から来た。
リャンを手伝うという。
村長の娘ではない。
役人でもない。
ただ、村の帳面を読める数少ない者で、水車守の老人を手伝っていた。
昨日の夜、郡城へ来た。
理由は単純だった。
どの村が何に困っているか、リャン様たちが知らなすぎるからです。
そう言った。
リャンは、その言葉に返せなかった。
今、リン・ファは城外の民から話を聞いている。
「麦が足りない、だけでは分かりません」
彼女は言った。
「何日分ですか。水はありますか。粉にできますか。病人は何人ですか。種籾に手をつけましたか。蜂印は受けましたか。受けたいですか。受けたくないですか」
聞き方は少しきつい。
だが、民は答えている。
王族に向かっては言えないことも、同じ村の女には言える。
リン・ファはそれを紙に書く。
字は綺麗ではない。
でも、早い。
「リン・ファには聞き取りを任せる」
リャンは言った。
ユエンはもう驚かなかった。
「彼女は民側の者です。王朝の正式な書記ではありません」
「だから聞ける」
「帳簿の形式が乱れます」
「後で整えろ」
「私がですか」
「得意だろう」
「得意ですが、嬉しくはありません」
「頼む」
ユエンは深く息を吐いた。
「承知しました」
その声は、疲れていた。
だが、断らなかった。
リャンは、少しずつ分かってきた。
自分にできることは少ない。
戦いで五柱にかなわないのは当然だが。
兵のこともバン・ロウに及ばない。
村の声はリン・ファの方が聞ける。
帳簿はユエンの方ができる。
王朝の制度はトウ・カクの方が知っている。
なら、自分がやるべきことは何か。
全部をやることではない。
誰に何を任せるかを決めることだ。
その責を負うことだ。
自分が倒れても、動くようにすることだ。
「五柱は」
リャンが聞くと、ユエンは別の紙を出した。
「それぞれ、勝手に動いています」
「勝手に?」
「良い意味で、です」
ユエンが窓の外を指した。
リグナは城の裏手にいた。
青龍長槍を土に立て、崩れかけた橋材を見ている。
水車村から運んできた木材と、郡城の古い梁を合わせ、仮の橋を作ろうとしていた。
彼の周りには、村の大工と元郷兵がいる。
リグナは静かに指示を出す。
声は大きくない。
だが、誰も聞き逃さない。
「この梁はまだ生きています。こちらは見た目だけです。木は内側から死にます」
大工が首をかしげる。
「木が死ぬ、ですか」
「はい。折れる前に、音が変わります。人と同じです」
「人も?」
「無理をしている人は、よく似た音を出します」
そう言って、リグナはちらりとリャンの部屋の方を見た。
リャンは、見られた気がして目を逸らした。
イグニスは鍛冶場にいた。
朱雀双刃を壁に立てかけ、炉の火を見ている。
火は大きくない。
だが、強い。
鍛冶職人が汗だくでふいごを踏む。
「この火、強すぎませんか」
「強い火と雑な火は別物だ。ほら、そこ、焦がすな。火は勢いじゃない、置き場だ!」
言いながら、イグニスは笑っている。
怒鳴っているのに、人が動く。
しかも、少し笑っている。
火は怖い。
だが、イグニスの火は怖がるだけのものではない。
人を生かす火だった。
テルスは倉の前にいた。
黄龍盾槌を地面に置き、古い倉の基礎を調べている。
あまりしゃべらない。
ただ、ときどき短く言う。
「これは沈む」
その一言で、人足が麦袋を移動させる。
「ここは崩れる」
その一言で、倉守が柱から離れる。
「ここに積め」
その一言で、土嚢が運ばれる。
倉守が不満そうに言った。
「この倉は三十年使っている」
「だから沈む」
テルスは短く答えた。
倉守は黙った。
短い。
重い。
だから、皆が聞く。
フェルムは城門の近くで、武器と農具を分けていた。
白虎刀は抜いていない。
鞘ごと抱え、欠けた刃物を見て、使えるもの、直せるもの、溶かすものに分けている。
「槍は後です。鍬を先に」
元郷兵の一人が文句を言った。
「武器がなきゃ街道を守れない」
「畑がなければ、守る街道がありません」
「でもよ」
「その槍は穂先が曲がっています。突けばあなたの手首が壊れます」
フェルムはそう言って、槍を農具の山の横へ投げた。
元郷兵は怒ろうとしたが、彼女に見られて黙った。
「断つべきものを誤れば、刃はただの暴力です。今は、武器に見える無駄なものを断ちます」
ウンダは井戸と水路を回っていた。
玄武鎖鞭を水へ垂らし、濁りを読み、どの井戸を使うべきか印をつけている。
「この井戸の水は粥に使わないでください」
「今朝まで使っていたぞ」
「だから腹を壊しています」
「こっちは?」
「洗い物なら」
「飲み水は」
「あちらです。ただし少ない。病人、幼子、火傷の者を先に」
彼女の指示は静かだが、逆らう者はいなかった。
「水は話しません」
ウンダは言った。
「だから人は、濁りを見落とします」
リャンは、五柱の動きを見ていた。
彼らは、五人とも違う。
ようやく、そう見えるようになってきた。
ただの五色の戦力ではない。
木は見る。
火は動かす。
土は支える。
金は選ぶ。
水は読む。
それぞれが違うから、村も城も動く。
だから、五柱を一か所に固めてはいけない。
ばらばらに置く。
そして必要な時だけ、合わせる。
それが、リャンの仕事だった。




