第5話 天の使いと御蜂(後編)
蜂はもう来た。そして蜜を届けた。
この差が、あまりに大きい。
ユエンは声を低くした。
「蜂印を受けたいという村人が出ています」
リャンは広場を見た。
数人の村人が、倉の前に集まっている。
そのうちの一人は、昨日リャンに礼を言った老人だった。
彼は申し訳なさそうに、しかしはっきりと言った。
「リャン様」
「何ですか」
「ありがたく思っております。昨日、リャン様と五色の兵の方々が来てくださらなければ、この村は殺し合いになっていました」
リャンはうなずいた。
「でも、蜂印も受けたいのです」
ユエンが口を開きかけた。
リャンは手で制した。
「理由を聞かせてください」
老人は、少しだけ震えながら言った。
「怖いです。御蜂に見られるのは怖い。倉の中まで知られるのも怖い。けれど、病の子がいます。年寄りがいます。うちの水は濁っています。リャン様は助けてくださる。そう思います」
老人は頭を下げた。
「けれど、いつ助けてくださるか分からない」
その言葉は、静かだった。
責めてはいない。
だからこそ、重かった。
リャンは何も言えなかった。
五柱がいる。
自分もいる。
それでも、この村の人にとっては足りない。
今、必要なものがある。
今、届くものがある。
御蜂は、それを置いていった。
老人の後ろで、若い父親が言った。
「蜂印を受ければ、次の蜜が来ると聞きました」
別の女が言う。
「街道の向こうの村では、御蜂が盗賊を知らせたそうです」
「うちには病人が多い」
「種籾は残したい。でも、今倒れたら種をまく者もいない」
言葉が重なっていく。
リャンは聞いていた。
止めたい。
止めるべきかもしれない。
蜂印を受ければ、この村は反逆者の網へ入る。
御蜂は村を測る。
倉を測る。
人を測る。
やがて、種籾の袋まで見つけるだろう。
けれど、この村は今、助けを必要としている。
リャンは、まだ十分に助けられていない。
「受けるな」と言う資格が、自分にあるのか。
ウンダが静かに近づいた。
「主君」
「何だ」
「止めますか」
リャンは答えられなかった。
五柱なら止められる。
力はある。
だが、それをして何になる。
リャンは村人に向き直った。
「蜂印を受けるなら、止めません」
ユエンが目を見開く。
「殿下」
「止める力はある。でも、止める理由を俺はまだ持っていない」
村人たちが、複雑な顔をした。
安心。
不安。
申し訳なさ。
リャンは続けた。
「ただし、種籾は村のものです。蜂印を受けても、それだけは勝手に渡さないでください」
老人が顔を上げる。
「守れますか」
「守ります」
リャンは言った。
声は、少しだけ震えた。
「今度は、遅れないようにします」
老人は何も言わず、深く頭を下げた。
やがて、村人の数人が広場の端へ歩いていく。
御蜂がそこへ降りた。
黒金の小さな蜂が、村の門柱へ蜜で印を描く。
蜂の形をした紋。
黒金の蜂印。
それが、乾いた木に染み込んでいく。
リャンは、その光景を見ていた。
負けたのだと思った。
戦いはなかった。
剣も抜かなかった。
誰も傷ついていない。
それでも、確かに負けた。
村人は、傍流王族と五色の義勇兵だけでは足りないと判断した。
御蜂を選んだ。
それは裏切りではない。
生きるための選択だった。
だから、なおさら痛かった。
その時、空の高いところで羽音が変わった。
黒金の蜂たちが、いっせいに同じ方向を向く。
村の外。
街道の向こう。
遠くに、土煙が見えた。
ユエンが目を細める。
「使者です」
「郡城からか」
「いえ」
土煙の中から、馬が一騎現れた。
乗っているのは、王朝の使者ではなかった。
黒金の蜂印をつけた兵だった。
彼は村の入口で馬を止め、こちらを見た。
リャンを見る。
五柱を見る。
そして、左目の青い星を見る。
黒兵は少し驚いた顔をしたが、すぐに姿勢を正した。
「この村は、蜂印を受けた」
村人たちがざわめく。
リャンは一歩前へ出た。
「すべてではない」
「受けた者がいる。それで十分です」
黒兵は淡々と言った。
「蜂印を受けた村には、次の配給が来る。病人には薬蜜。幼子には甘露。働ける者には粥と鍬。代わりに、村の数を記録する」
「数?」
「人の数。病の数。馬の数。麦の数。種籾の数」
フェルムの目が冷たくなる。
リャンも、拳を握った。
「種籾は渡させない」
「今すぐではありません」
黒兵は言った。
「ガイ・レン様は、無駄に奪わない」
そこで、リャンは初めてその名を聞いた。
ガイ・レン。
王朝の倉を破る反逆者。
蜂印を掲げた男。
赤い冠星紋を持つであろう覇王。
その名が、乾いた村の空気の中に落ちた。
「ガイ・レン」
リャンは繰り返した。
兵はうなずく。
「はい。飢えた者に麦を分ける方です」
「必要なら奪うのか」
「飢えた者が他にいれば」
沈黙。
短い会話で、よく分かった。
ガイ・レンは救う。
だが、村ごとの都合は待たない。
全体を見て、集め、配る。
リャンは兵を見た。
「ガイ・レンに伝えろ」
「何と」
「種籾は、明日の麦は俺が守る」
兵はリャンを見た。
その視線には、わずかな憐れみがあった。
まるで、遅れてきた少年を見る目だった。
「リャン様」
「俺を知っているのか」
「御蜂が見ています」
リャンは息を呑んだ。
兵は続けた。
「守るには、速さが要ります」
馬が向きを変える。
黒金の蜂たちが、兵の上で羽音を立てた。
「ガイ・レン様は、もう三つ先の村へ蜜を送っています」
兵は去っていった。
村に、羽音だけが残った。
リャンは、しばらく動けなかった。
守るには、速さが要る。
その言葉が、胸の奥で何度も響いていた。
五柱は強い。
だが、リャンが遅い。
リャンが決められなければ、五柱も迷う。
リャンが迷っている間に、ガイ・レンは倉を破り、御蜂を飛ばし、甘露を届け、蜂印を打つ。
リャンは、井戸も粥も倉も農具も種籾も、全部守りたい。
ガイ・レンは、まず蜜を届ける。
どちらが民に届くか。
今日のこの村では、答えは出ていた。
「ウンダ」
リャンは言った。
「はい」
「王座戦と言ったな。俺は、あの人と戦うのか」
ウンダは少しだけ黙った。
他の四柱も、手を止めた。
羽音が遠ざかる。
村人たちの声も、なぜか遠く聞こえた。
「この大陸の社稷王座が揺らいでいます」
ウンダは静かに言った。
「社稷王座?」
「この大陸の中心です。穀倉、水利、街道、作付け、種籾、祭祀暦、王朝の正統。それらをつなぐ秩序の中枢」
「王都の玉座とは違うのか」
「形としては重なっています。ですが、本質はもっと広い。王が座る椅子ではなく、この大陸が大陸として巡るための中心です」
リャンは、すぐには理解できなかった。
だが、言葉の重さだけは分かった。
倉。
水。
街道。
種籾。
雨。
それらが壊れているから、今この村は飢えている。
「秩序を守り、世界を存続させる者を、君主と呼びます」
ウンダはリャンの左目を見る。
「あなたがそうです」
「俺は、王朝を守れるかも分からない」
「王朝を守ることと、王座を守ることは同じではありません」
その言葉に、リャンは眉を寄せた。
フェルムが補足した。
「王朝が誤っていれば、王朝を正すことも守りになります」
フェルムは静かに言った。
イグニスが朱雀双刃を軽く鳴らす。
「で、ガイ・レンってやつが覇王だろ?」
ウンダがうなずく。
「おそらくは。既存秩序を奪い、世界を書き換える者」
「おそらく?」
「私たちは、冠星紋を識別して降りました。青の主君はあなた。赤の覇王は、まだ直接見ていません」
リグナが空を見た。
「ですが、黒金の蜂はすでに動いています。ケーニギンと思われる英星が接続したなら、その者が覇王である可能性が高い」
リャンは村の門柱を見た。
蜂印が光っている。
それは救いの印だった。
同時に、敗北の印だった。
「ウンダ」
「はい」
「この戦いは、五柱とケーニギンが戦って勝った方が決まるのか」
「違います」
ウンダは即答した。
「私たちは戦局を変えます。ですが、世界を背負うのは現地の人間です」
その言葉は、リャンの胸に落ちた。
少しだけ痛かった。
五柱が何とかしてくれるわけではない。
天の使いが降りたから、村が救われるわけではない。
五柱は力だ。
だが、何を先にするか、誰を待たせるか、どの倉を開けるか、どの種を残すかを決めるのは、リャン自身なのだ。
「主君」
ウンダが言った。
「次に何をしますか」
リャンは村を見た。
井戸。
鍋。
倉。
農具。
種籾。
蜂印を受けた門柱。
元郷兵たち。
村人たち。
病の子。
来年の畑。
全部が見えた。
全部を同時にはできない。
だから、決めるしかない。
「井戸を直す」
リャンは言った。
イグニスが振り返る。
「粥じゃなくて?」
「粥も炊く。でも、井戸が濁ったままでは病人が増える。御蜂の甘露に頼り切ることになる」
ウンダがうなずいた。
「妥当です」
「リグナは井戸枠を支えてくれ。ウンダは水を見てくれ。テルスは倉の裏壁を応急で固める。フェルムは壊れた農具の中で、井戸と倉に使える金具を先に選ぶ。イグニスは粥を止めるな。火を小さく、長く」
五柱が、順番にうなずいた。
リャンは続ける。
「バン・ロウ」
広場の端で、元郷兵の隊長が顔を上げた。
「何だ」
「お前たちは、村の外を見てくれ。御蜂を追えとは言わない。ただ、他に兵や盗賊が近づいていないかを見てほしい」
「俺たちを信じるのか」
「まだ信じきれない」
リャンは正直に言った。
「でも、任せる」
バン・ロウは、少しだけ笑った。
「変な王族だ」
「昨日も言われたな」
彼は立ち上がった。
元郷兵たちも、ぎこちなく立つ。
村人たちは警戒した。
それでも、リャンがうなずくと、数人が村の外へ向かった。
ユエンが近づいてくる。
「殿下」
「何だ」
「いまの指示、かなり危ういです」
「分かっている」
「ですが、昨日よりは主君らしい」
「褒めているのか」
「記録には残せませんね」
「また記録か」
ユエンは小さく笑った。
リャンも、少しだけ笑った。
笑ったところで、何も解決していない。
村人の一部は蜂印を受けた。
ガイ・レンは三つ先の村へ蜜を送っている。
郡城から返事はない。
社稷王座などという、自分には大きすぎる言葉まで出てきた。
何もかもが重い。
けれど、井戸のそばではリグナが槍を立て、ウンダが水を流し始めていた。
イグニスは火を小さく保ち、テルスは倉の裏へ向かい、フェルムは農具と金具を分けている。
五色が、ようやく同じ村の中で別々の役に向かって動き始めた。
まだ並んではいない。
けれど、ばらばらでもない。
リャンは、蜂印の刻まれた門柱を見た。
黒金の小さな紋が、朝の光を受けて鈍く光っている。
守るには、速さが要る。
あの兵の言葉が、まだ胸に残っている。
「なら」
リャンは小さくつぶやいた。
「遅いままではいられない」
遠くで、御蜂の羽音が消えていく。
その向こうで、黒金の蜂印を掲げる覇王が、すでに次の村へ蜜を送っている。
王朝はまだ滅びていない。
だが、もう守れてはいない。
だから、リャンは初めて理解した。
自分が戦う相手は、王朝を壊すだけの悪人ではない。
自分より早く民を救ってしまう男だ。
その事実が、何よりも恐ろしかった。




