第2話 五色の義勇兵
王の旗は、遠かった。
リャン・セイは、乾いた街道の上でそれを思っていた。
王都には、まだ旗がある。
高い城壁。
朱塗りの門。
青い麦穂と王冠を描いた大きな旗。
朝になれば太鼓が鳴り、役人たちは衣を正し、兵は槍を立て、宮廷の者たちは今年の雨量と税と治安を数字で語る。
そこでは、王朝はまだ続いている。
けれど、もうこの道には届いていない。
街道の両脇には、枯れた畑が広がっていた。
麦の海と呼ばれた大陸。
その言葉を、リャンは書物で知っている。
春には若い穂が波を作り、秋には刈り取った麦束が村の屋根より高く積まれる。旅人は街道を歩きながら、どこまで行っても麦の匂いがする、と笑う。
そんな話を、教師は誇らしげに語った。
だが、今のラウンドグレインに麦海はない。
あるのは、ひび割れた土と、抜かれたまま捨てられた麦の根と、細い煙だった。
村が焼けている。
リャンは馬を止めた。
前方の村から、黒い煙が上がっていた。
屋根が一つ、燃えている。
家畜の鳴き声。
女の悲鳴。
木の扉が割れる音。
そして、兵の声。
「殿下」
横の男が、馬を寄せてきた。
ユエン。
王都からリャンに付けられた書記官だった。
年は三十を少し越えたくらい。剣は下手だが、帳簿と地図を見る目は確かだった。
ただし、こういう時は顔色が悪い。
「迂回しましょう」
リャンは村を見た。
「人がいる」
「だからです。殿下の護衛は八名ほど。相手が十を越えていれば、守りきれません」
「王朝の兵か」
「旗はありません」
ユエンは目を細めた。
「鎧は、王朝のものです。ただし、紋章を削っています」
リャンにも見えた。
村の広場に、十数人の男たちがいた。
汚れた鎧。
欠けた槍。
弓の弦はゆるみ、盾には古い王朝紋が残っている。
兵だ。
いや、兵だった者たちだ。
「賊か」
郷兵。
国境や街道を守るために地方へ置かれた王朝兵。
そのはずだった。
だが今、彼らは村の倉を破っていた。
袋を運び出し、鍋をひっくり返し、抵抗した老人を突き飛ばしている。
村人たちは武器を持っていない。
鍬と棒だけだ。
それでも、倉の前から離れない。
なぜなら、そこに残っているのは食料だけではないからだ。
種籾だ。
来年の収穫のためにまく、最後の種。
それを奪われれば、この村は今日助かっても、来年には死ぬ。
「殿下」
ユエンの声が低くなった。
「ここで戦えば、殿下の身に危険が及びます」
「では、あの村は」
「近くの郡城へ報告を」
「報告している間に、倉は空になる」
「ですが」
「王朝は、何のためにある」
ユエンが黙った。
リャンは、自分で言ってから少し嫌になった。
立派すぎる言葉だった。
まるで、自分が本当に王朝を背負っているように聞こえる。
そんな資格はない。
リャンは王の子ではない。
王弟の、さらに傍流の家に生まれた少年だ。
血はつながっている。
だが、王位には遠い。
王都では、礼儀正しく扱われる。
殿下と呼ばれる。
だが、重要な会議には呼ばれたこともない。
大軍を動かす権限もない。
軍糧を納めた倉を開ける権限もない。
民を救う力がない。
ただ、王の血だけが少し混じっている。
それだけだ。
その血で、誰の腹が膨れるのか。
リャン自身、分からなかった。
それでも、村では子どもが泣いている。
兵だった男たちが、種籾を奪おうとしている。
そして自分は、それを見ている。
見てしまった。
遠くでは、王朝の倉を破る反逆者が現れたらしい。
王命もなく倉を開け、民へ麦を配った男がいる。
そんな噂が、数日前から街道を走っていた。
名はまだ知らない。
顔も知らない。
噂の半分は、きっと尾ひれがついたものだろう。
だが、その噂を聞いた時、リャンは怒りより先に、苦しさを覚えた。
倉を破らなければ民を救えないなら。
王朝は、どこで間違えたのか。
その答えを持たないまま、リャンは今、目の前の村を見ている。
「行くぞ」
リャンは馬を進めた。
ユエンが息を呑む。
「殿下!」
「止められるなら止めてくれ」
「相手の出方しだいです」
「なら、馬の手綱を引け」
ユエンは手を伸ばしかけた。
だが、引けなかった。
その顔には怒りと迷いと、少しだけ諦めがあった。
「……護衛、前へ!」
ユエンが叫んだ。
「殿下を守れ! 槍を先に出すな!」
八名の護衛が前に出る。
頼もしいと言うには、あまりにも少ない。
それでも、村へ入るには十分だった。
広場の男たちが、こちらを見る。
その中で、一人だけ大柄な男がいた。
髭は伸び、鎧の肩当ては片方しかない。
だが、立ち方は兵だった。
逃げる者でも、略奪を楽しむ者でもない。
疲れきった兵の立ち方だ。
「何だ」
男が言った。
「王都の坊ちゃんか」
リャンは馬から降りた。
降りる時、少し足が震えた。
隠したつもりだった。
たぶん、隠せていない。
「リャン・セイ。王家の者だ」
広場に、わずかなざわめきが起きた。
村人たちがこちらを見る。
兵だった男たちも見る。
だが、そこに敬意は少なかった。
むしろ、白けた空気があった。
王家。
その言葉は、この村では遠すぎるのだ。
大柄な男が鼻で笑った。
「王家の者なら、食料を持ってきたのか」
リャンは答えられなかった。
「兵の給金を持ってきたのか」
「それは」
「俺たちは三か月、給金を受けていない。二か月、軍粮も届いていない。上官は逃げた。郡城は門を閉めた。村は倉を開かない。街道には盗賊が出る」
男は槍を握り直した。
「それで、王家の者が何をしに来た」
リャンは、男の目を見た。
飢えている。
怒っている。
だが、壊れてはいない。
まだ、人に戻れる目だった。
「名は」
「聞いてどうする」
「呼ぶためだ」
男は少しだけ黙った。
「バン・ロウ」
「バン・ロウ。倉から手を引け」
広場の兵たちが笑った。
「命令か」
「頼んでいる」
「なら、断る」
「村人も飢えている」
「俺たちも飢えているさ!」
「種籾を奪えば、来年この村はどうなる」
「来年だと? 俺たちは今日、明日には死ぬかもしれない」
短い言葉だった。
リャンはまた黙った。
正しい。
あまりに正しい。
この男たちは、悪党ではない。
飢えた兵だ。
村人たちが悪いのでもない。
飢えた民だ。
そして王朝は、どちらも守れていない。
リャンは腰の短剣に触れた。
抜けなかった。
抜いたところで、何になる。
八名の護衛で十数人の元郷兵と戦う。
勝てるかもしれない。
だが、血が流れる。
飢えた兵を斬り、村人に恐怖を残し、リャンは王家の名で略奪者を討ったことになる。
それは、たぶん正しい。
けれど、それでは何も残らない。
バン・ロウが言った。
「王のありがたい命令で腹は膨れるのか」
その言葉は、鋭かった。
剣より鋭い。
リャンの胸に、まっすぐ入った。
王の血。
自分にある、わずかな正統。
それが何になる。
飢えた子どもは、王家の系図を食べられない。
元郷兵は、王朝の由緒で槍を握れない。
村人は、青い麦穂の旗だけで来年を迎えられない。
リャンは、自分の手を見た。
小さい手だった。
剣の稽古はしている。
馬にも乗れる。
礼法も学んだ。
だが、この手で何を守れるのか。
バン・ロウが、村の倉へ向き直った。
「どけ。王家の坊ちゃん」
兵たちが動く。
村人が悲鳴を上げる。
一人の老人が、倉の前に立った。
手には鍬。
足は震えている。
「それは、来年の種だ」
バン・ロウの部下が、老人を押しのけようとした。
リャンは走った。
考えるより先だった。
護衛が叫ぶ。
ユエンも叫ぶ。
だが、リャンは老人の前に立っていた。
槍の柄が、目の前で止まる。
兵の男が驚いている。
老人も驚いている。
リャン自身も、驚いていた。
怖い。
当たり前だ。
目の前には、飢えた兵がいる。
こちらは王都育ちの傍流王族。
戦場を知らない。
血の匂いも、まだ知らない。
それでも、下がれなかった。
「どけ」
バン・ロウが言った。
「どかない」
「死ぬぞ」
「死にたくはない」
「なら、どけ」
「でも、どかない」
バン・ロウの目が細くなる。
「なぜだ」
リャンは息を吸った。
答えなど、持っていない。
王朝を守れる自信はない。
この村を救える方法も分からない。
飢えた兵に何を与えればいいのかも分からない。
けれど。
それでも。
「守れない王朝でも」
声が震えた。
だが、続けた。
「守るべき民はいる」
――その時、世界が軋んだ。
風ではない。
地鳴りでもない。
倉の梁が鳴ったのでも、燃える屋根が崩れたのでもない。
もっと深い場所。
土の下でも、空の上でもない。
この世界そのものの骨組みが、わずかに曲がったような音だった。
リャンの左目が熱くなる。
視界の端に、青い光が灯った。
十字に割れた、小さな星。
バン・ロウが一歩下がる。
「目が……」
ユエンが息を呑んだ。
「殿下」
リャン自身にも、何が起きているのか分からなかった。
ただ、頭の奥で声がした。
――君主、王冠顕現。
知らない言葉だった。
意味も分からない。
だが、その声は確かにリャンへ向けられていた。
空が、五色に割れた。




