第9話 標的
ドラゴンは一瞬動きを止め、眼下の惨状を確認する。
だが真の目的はそこにはない。
炎を免れた離宮の奥へと、冷たい視線が注がれた。
巨大な翼を広げると、ドラゴンは地上へと降り立った。
その巨体が地面に激突すると、衝撃で地表が揺れ、周囲の衛兵たちはよろめく。
彼らは恐怖を振り払うように矢を構えたが、放たれた矢は硬い鱗に弾かれ、ただ地面に転がるばかり。
ドラゴンは鋭く尾を振り払う。
その一撃で数人の衛兵が宙を舞い、壁や瓦礫に叩きつけられる。
圧倒的な力の前に、彼らの抵抗はまるで意味を成さなかった。
残ったエリアを見据えたドラゴンは、低い咆哮を漏らしながら離宮の玄関口に向かう。
大きな頭部を低く構え、全身の筋肉を緊張させたその姿から、次の攻撃を予感させた。
次の瞬間、ドラゴンは全力で突進を開始した。
玄関の扉は粉砕され、衝撃で周囲の壁が崩れる。
その巨体が建物の内部に滑り込むと、玄関入り口の広場――前廊がその巨体で占拠され、瓦礫が散乱して混沌とした光景へと変わる。
そして、ドラゴンは再びその巨大な口を開いた。
胸の奥から沸き上がる熱が喉を駆け上がり、建物内に向けて放たれる。
二発目のブレスは最初のものよりも威力が落ちていたが、それでも十分に周囲を焼き尽くす力があった。
廊下の壁が燃え、床が裂け、逃げ惑う衛兵たちは次々に炎に飲まれていく。
その黄金の瞳には、冷徹に獲物を追い詰める狩人の光が宿っていた。
ドラゴンは玄関口に突っ込んでいた巨体をゆっくりと後退させた。
瓦礫や焼けた木材がその動きに合わせて崩れ落ちる。
建物の外へと抜け出したその巨体は、背筋を伸ばすようにぐっと身を起こす。
次の瞬間、鱗が滑らかな肌へと変わり、巨大な翼が消えていく。
筋肉質な身体は人間の女性のものへと縮小し、そこに立つのはマルファーその人だった。
彼女の身体には衣服もなく、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でる。
しかし、その鋭い眼差しは決して揺ぐことはない。
次の瞬間、透明な障壁が静かに球体状に広がり、彼女を包み込む。
障壁は彼女の足元から数センチ浮き上がり、ゆっくりと移動を始め、大穴が開いた前廊へと入っていく。
その速度は人間が歩くほどの緩やかなものだが、彼女を外界の灼熱から完全に隔絶しているようだった。
飛びかかってくる火の粉は障壁に触れた瞬間、弾かれるように外側に流れ落ちる。
障壁の表面には、かすかな光の波紋が広がり、それが防御の強固さを物語っていた。
瓦礫の中には原形を留めないほど損傷した遺体が散乱していた。
その光景に、彼女の冷たい瞳は一切動じることなく、透明な球体はゆっくりと進んでいく。
彼女が進むにつれ、廊下の様子が徐々に変わり始めた。
焦げた壁や床が次第に原形を留めたものへと変わり、火災の被害が及んでいない場所へと移り変わる。
空気も次第に澄み渡り、熱気が和らいでいく。
やがて、マルファーは静止した。
深く息を吸い込むと、透明な障壁を解いた。
その瞬間、周囲の熱が一気に押し寄せたが、障壁がいかに強固だったかを物語っていた。
彼女は新たな決意を胸に廊下を進む。
進めば進むほどに、廊下の装飾が豪華になり、離宮の中でも重要な場所に近づいていることを物語っていた。
やがて、マルファーは一際重厚な扉の前にたどり着く。
その前には五人の護衛が立ちはだかっている。
彼らの顔には緊張が走り、剣を構えた手がわずかに震えていた。
ドラゴンによる襲撃の恐怖を目の当たりにした後では、それも無理はない。
護衛たちが声を上げるよりも早く、マルファーは冷たい目で彼らを見据えた。
その瞬間、空気が張り詰める。
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ヘリオドスの私室の中は静寂に包まれていた。
広々とした空間に、かすかな薄明かりが差し込むが、それすらも室内のどこか冷えた雰囲気に溶け込んでしまう。
絢爛たる調度品が置かれているはずの部屋も、今はどこか空虚で、死の影が漂っているようだった。
外から聞こえる断続的な悲鳴がその空気を揺さぶる。
護衛たちの叫び声が段々と激しさを増し、何かが壁に叩きつけられる音や、肉を裂く音が響いていた。
だが、それも一瞬のことだった。
悲鳴は短く終わり、音は次第に消えていった。
——そして、静寂。
その静寂は部屋の中に漂う冷えた空気をさらに重くした。
時間が止まったかのような感覚が部屋を支配する。
扉がゆっくりと開く音が静寂を破った。
重厚な木の扉がわずかにきしむ。その隙間から光が漏れ、薄暗い部屋の中に静かに差し込む。
その光の中から現れたのは、裸のままの人影だった。
「……ヘリオドス」
女性の低い声が、部屋の冷たい空気を切り裂いた。
声の主はマルファーだった。
彼女は慎重な足取りで部屋に足を踏み入れる。目の前の空間を見渡しながら、ゆっくりと進む。
「居るんでしょ?」
彼女は儚げに問いかけた。
その声は静かだったが、隠しきれない執念が込められていた。
マルファーの目がゆっくりと白く濁り始める。
その変化に合わせるように、彼女の視界が薄暗く変化していった。
元々の空間の形が霞むようにぼやけ、闇の中に異なる層が浮かび上がってくる。
彼女はその薄暗い視界で部屋を見回した。
調度品や家具は形を失い、代わりにその場に存在する生命の痕跡だけが映し出される。
その中で、一箇所だけ白く光るものが目に入った。
それは、縮こまった人型のシルエットだった。
マルファーはその光に向かって、ゆっくりと歩を進めた。
彼女の足音が、静まり返った部屋の中で異様に響いた。
そのたびに、光る人型は微かに震え、壁際にさらに体を押しつけるように縮こまる。
「……見つけた」
彼女はゆっくりとその方向に歩み寄り、そこに隠れている者を見下ろした。
しかし——それはヘリオドスではなかった。
マルファーの目の前にいたのは、若い女性だった。
彼女は高価な絹の部屋着を纏っており、その繊細な刺繍と柔らかな光沢は、庶民には到底手の届かないものであることを示していた。
だが、その服は乱れ、袖口は涙で濡れている。
「……誰?」
低い声で問いかけると、女は怯えた表情を浮かべ、答える代わりに視線を逸らした。
首筋に浮かぶ微かな赤みや、乱れた髪――そのすべてが、彼女がヘリオドスの情婦であることを暗示していた。
「ヘリオドスはどこ?」
マルファーの冷ややかな声に、女は震える手を上げ、部屋の奥を指差した。
その指先が向いていたのは、壁際にある立派な本棚だった。
「本棚が何なの?」
「隠し扉が……あそこに……」
マルファーは一度本棚に目を向けたが、すぐに視線を女に戻した。
「なぜ一緒に逃げなかったの?」
「足手まといだと……置いていかれて……」
マルファーはその言葉を聞くと、一瞬だけ目を伏せ、短く息を吐いた。
「ヘリオドス……甘い男ね」
彼女の声には、軽蔑とわずかな嘲笑が混じっていた。
情婦をその場で殺しておけば、自分の追跡を防げたはずだ。
それをしなかったヘリオドスに、マルファーはわずかばかりの人間らしさを見た。
しかし、その情が彼を救うことはないだろう。
「……死にたくなかったら服を脱いで」
情婦は言葉の意味をすぐに理解し、服を脱いでそれを彼女に手渡した。
マルファーは手早く服を着る。
そして、マルファーは女に背を向けた。
その冷徹な足取りで本棚の方へと向かい、女の存在を都合よく忘れたように無視をする。
マルファーは本棚の前に立ち、冷たい視線をその全体に走らせた。
装飾が施された重厚な木製の本棚には、無数の書物が整然と並べられている。
一見して何の変哲もない家具だが、女の言葉を思い返し、目を細めた。
「何処なの……」
彼女は呟きながら、本棚を隅々まで見渡し、何か仕掛けのようなものを探した。
しかし、それらしい手がかりは見当たらない。
苛立ちを押し殺すように、彼女はため息をついた。
「仕方ない」
マルファーは片手を本棚の端にかけ、力を込める。
その肉体には彼女が手に入れた身体強化の能力が宿っていた。
見た目には何の変哲もない細い腕だったが、いまや常人とは比べものにならない怪力を発揮する。
木材が軋む音が部屋中に響き渡り、激しい音を立てて本棚が前方に倒れ込んだ。
その背後から現れたのは石造りの階段だった。
しかし、その先は完全な暗闇に包まれている。
マルファーは階段の上で立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をすると、再び瞳が白く濁り始める。
その変化に伴い、暗闇が徐々に形を持ち始めた。
壁や階段の輪郭がぼんやりと浮かび上がり、まるで霧の中で道が照らされるように視界が広がった。
彼女は一歩ずつ階段を降り始めた。
足音を殺しながら慎重に進むその姿には、暗闇に対する恐れは微塵もなかった。
階段を降り切ると、視界には粗く掘られた岩壁が浮かび、湿った空気が漂っている。
誰もいないはずの地下道だが、微かな気配を感じる。
マルファーは立ち止まり、耳を澄ませた。
薄暗い視界と鋭い聴覚が連動し、遠くでわずかに響く足音を捉える。
それは複数人のもので、小走りの速度で進んでいることがわかる。
「いた……」
その声には冷静な怒りが込められていた。
彼女は音の方向を確かめると、無駄のない足取りで歩き始めた。
しばらくして、マルファーは地下道の出口にたどり着く。
その先には雑草が生い茂る広い草原が広がり、朝日が静かに照らしている。
その光景の中、遠くで動く三つの人影が見えた。
「ヘリオドス……」
彼女は声を漏らし、鋭い目つきでその人影を捉えた。
中央にいるのは、逃げるように走るヘリオドス。
その両脇を固めるのは護衛の衛兵二人だった。
護衛たちは時折振り返りながら、後ろを警戒している。
マルファーの視線は静かに彼らを追い、ふっと息を吐いた。
そして、影が動く。
彼女の足元に伸びる影。その影から黒い粒子が湧き出し、やがて形を作り始めた。
粒子は一瞬で凝縮され、黒い馬のような姿を形作った。
その馬はどこか不気味でありながらも、力強さを感じさせる存在だった。
マルファーは迷うことなく、その黒い馬の背にまたがった。
影から生まれたその存在は、一声も発することなく勢いよく走り出す。
草原を駆け抜けるその速さは尋常ではなく、マルファーをヘリオドスたちの背後へと急速に近づけていく。
「陛下、お逃げください!」
護衛の一人が叫び、ヘリオドスの背中を押した。
彼らは振り返り、目を見開いた。
彼らの視線の先には、朝日に照らされながら迫り来る黒い馬と、それにまたがるマルファーの姿があった。
「逃がさない……」
マルファーは冷たい声で呟くと、その手に宿す新たな力を静かに呼び覚ました。




