第5話 潜入計画
月明かりが薄暗い路地を照らし、マルファーはゆっくりと自宅へと向かった。
かつてペルモスと共に穏やかな日々を過ごしていた家。
そこに近づくたび、胸の奥が鈍い痛みを訴える。
しかし、目の前に現れた家は、彼女の記憶にある愛すべき『我が家』とは似ても似つかない姿だった。
外壁には泥が無造作に塗りつけられ、扉には何者かによる大きな傷跡が刻まれていた。
木製の窓は歪み、風が吹き込む隙間が目立つ。
マルファーはその場で立ち止まり、静かに息をついた。
記憶の中で輝いていた日々が、目の前の現実と鋭く対比される。
その光景に彼女は、かつての『我が家』が完全に奪われたことを悟った。
彼女は扉を押し開けた。
暗闇が中に潜む惨状を隠していたが、月明かりがその一端をさらけ出す。
家具は壊れ、床には瓦礫や散乱した陶器の欠片が散らばっている。
椅子を起こして腰を下ろしたマルファーは、荒れ果てた家を淡々と見回した。
もう戻らない。ペルモスとの日々も、彼の温もりも、この家の平穏も。
「……」
彼女は、部屋の片隅にあった灯火用の皿に油を注ぎ、火を灯した。
そのかすかな光の中で、静かに目を閉じる。
マルファーの胃の奥には、熱を帯びた異質な塊が重く残っていた。
それはまだ自分の一部とは呼べないが、不思議とそこから力が湧き上がる感覚がある。
エンテディアでは、心臓やダークストーンを飲み込むと、しばらくはその力が胃の中に留まり、やがて消化とともに魂と能力が心臓へ移っていくとされていた。
今はまだ未消化で仮初めの力ではあるが、すでにその力は使える。
マルファーは息を整え、静かに意識を集中させた。
その瞬間、体の内側から得体の知れない力がじわりと滲み出してくるのを感じた。
エンテディアの民にとって、能力を知覚するのは本能に近い行為だ。
まるで赤ん坊が初めて足で立ち上がろうとするように、教えられるのではなく、ただ『感じる』もの。
やがて、体がじんわりと熱を帯びる感覚が広がる。
力が満ちていくその感覚に、彼女は本能的に体を動かした。
手を見つめると、その形が徐々に変わり始めている。
指が太くなり、骨格が大きく変化していく。
腕はたくましい筋肉で覆われ、肌の質感が粗くなっていく。
体全体が膨張するかのように、次第に逞しい体格へと変化し、衣服がわずかに引き裂かれる音が響いた。
彼女の視界に映る腕は、もはや自分のものとは思えない。
部屋の隅に置かれた水桶に目が留まる。
マルファーはゆっくりと立ち上がり、その桶の水面を覗き込んだ。
揺らぐ水面が静まり、映し出された顔。
そこに映るのは、自分の顔ではない。
見覚えのある顔。先ほど自らの手で命を奪った男、エウリピデの顔だった。
「これが……この男の能力」
低くつぶやいた声は、まさにその男のものだった。
彼女は再び意識を集中させると、体に再び変化が起こる。
腕が縮み、顔の骨格が変わり、目に映る自分の姿が徐々にまた別の人間へと変わっていく。
水面には、別の顔が映し出されていた。
それは彼女が数年前に触れた、ある村の農夫の顔。
さらに集中を続けると、次に映る顔は、昔、街でぶつかった商人の顔。
さらに、子供時代に親しくしていた隣家の少年の顔へと次々に変わっていった。
彼女は驚愕とともに理解した。
この能力は一度でも接触したことのある相手の姿を記憶し、そのすべてに変身することができるのだと。
「……なんて力……」
その言葉には戸惑いと畏怖、そしてどこかに復讐のための武器を手にした確信が混じっていた。
意識を解くと、体はゆっくりと元の自分の姿へと戻っていった。
腕が細くなり、筋肉の隆起が消え、骨格も再び彼女自身のものに変わる。
水面に映るのは、再び見慣れた自分の顔だった。
「……これなら……」
言葉の続きを口にすることはなかったが、その目は決意の光を帯びていた。
この能力が、復讐のための鍵になることを、彼女は直感的に理解していた。
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エウリピデの能力は一度でも接触したことのある相手の姿を記憶し、そのすべてに変身することができる力。
その力を手に入れてからというもの、マルファーは昼夜を問わず、その能力を駆使して王宮の内部情報を探り始めたのだ。
ある時は王宮御用達の商人に、またある時は王宮に出入りする下級役人に成りすまし、内部の構造や衛兵の配置などを密かに探った。
彼女の記憶には、そうして接触した無数の人々の顔と声が蓄積されていく。
そのどれもが、復讐計画を練り上げるための貴重な駒となっていった。
その日もマルファーは、王都ルミナスの中心街から少し離れた、衛兵たちが仕事終わりによく立ち寄るという酒場にいた。
今回は、数日前に接触して姿を記憶した、若い衛兵の一人に成りすましている。
目的は王宮地下のダークストーン保管場所の情報と、そこへ至る最も安全な経路についての情報だ。
同僚らしき衛兵たちと酒を酌み交わし、巧みに会話を誘導する。
「最近、王宮の警備が厳しくねえか? 特に地下。あんな人気のない場所にいつも人員割いて守ってやがる。そんな価値あるもんがそこにあんのか?」
「そりゃあそうだ。あの地下には王家の秘宝『ダークストーン』が保管されてるって噂だからな。出入りできるのは一部の侍従だけらしいぜ」
「ああ、侍従長のカリディスさんのことか……俺、あの人苦手だな。顔怖いし」
欲しい情報を勝手に喋ってくれる衛兵たちを眺めながら、マルファーは心の中でほくそ笑んだ——まさにその時。
酒場の入り口から一人の男が入ってきた。
長身で屈強な肉体、鋭い眼光。腰の長剣。
その男から発せられる威圧感は尋常ではなかった。
同席の衛兵たちが顔色を変える。
「おい、あれ……アクレディウス兵士長だ」
「ああ、噂には聞いていたが、本当に一人で飲みに来るんだな……」
アクレディウス。
彼は王国最強と謳われる国の英雄だ。隣国との大戦でその名を轟かせ、今では『王の剣』とまで言われている。
マルファーは、成りすましている衛兵の口調を意識しながら、隣の衛兵に小声で尋ねた。
「アクレディウス兵士長……彼はどんな人なんだ?」
「さあ。よく知らんが、気難しい人らしいぞ。いつも一人で飲んでるみたいだし、気の合う仲間とかいないんじゃないか」
「おい、失礼なこと言うなよ。聞こえてたらどうすんだよ……」
もう一人の衛兵が慌てて口を挟む。
アクレディウスは周囲の囁きには一切関心を示さず、慣れた様子でカウンター席に腰を下ろし、黙って酒を注文した。
その背中からは、近寄りがたいほどの孤高の雰囲気が漂っていた。
マルファーはアクレディウスの姿を注意深く観察しながら、今日の情報収集はここまでだと判断した。
重要な手がかりも得られた。長居は無用。
彼女は同席の衛兵たちに適当な理由をつけて帰宅することを伝え、席を立った。
そして、できるだけ目立たないように、アクレディウスが座るカウンターの後方を通り、酒場の出口へと向かう。
「……おい」
低く、鋭い声がかけられた。
その声の主はアクレディウスだった。
マルファーの全身に緊張が走る。
心臓が喉から飛び出しそうになるのを必死に抑え込む。
彼は酒杯を片手に、こちらに視線は向けずに背中越しで話しかけてきた。
マルファーの額に冷や汗が滲む。変身は完璧なはずだ。何かミスを犯したのだろうか。
「……は、はい。何か御用でしょうか、兵士長殿」
「貴様、どういうつもりだ?」
アクレディウスの視線は依然としてカウンターの向こうに向けられたままだ。
だが、その言葉はマルファーの心臓を鷲掴みにする。
「……何のことでしょうか?」
緊張で声がわずかに上ずるのを止められない。
もしここで正体を見破られれば、全てが終わる。
アクレディウスはゆっくりと酒杯を置き、ようやくマルファーの方へわずかに顔を向けた。
その瞳は、全てを見透かすような深みを湛えている。
「人の噂話をするなら、聞こえないところでしろ。それとも、わざと俺に聞こえるよう話していたのか?」
マルファーは息を呑んだ。どうやら、先ほどの衛兵たちとの会話が聞こえていたらしい。
「も、申し訳ありません! そのようなつもりでは……世間話が過ぎました……!」
マルファーは頭を下げ、謝罪の言葉を重ねた。冷や汗が背中を伝う。
アクレディウスは、そんなマルファーの姿を数秒間、値踏みするように見つめていたが、やがて興味を失ったかのように再び正面を向いた。
「……行け」
短く、それだけ告げると、彼は再び自分の酒に口をつけた。
「し、失礼いたしました!」
彼女は再び頭を下げると、今度こそ足早に酒場を後にした。
アクレディウスが残した威圧感と、マルファーの心に刻まれた『王の剣』という言葉の重みは、彼女に深い緊張感をもたらした。
実際に間近で対峙した彼から発せられる気配は、極限まで研ぎ澄まされた刃物のような危険な匂い。
マルファーは『この男とだけは、絶対に戦ってはいけない相手』だと、そう強く確信した。
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ペルモスの処刑から四ヶ月が過ぎようとしていた。
澄み渡る青空の下、思い出の森は変わらず日差しを浴びて輝いている。
マルファーはペルモスの墓のすぐ側に小さな天幕を張り、そこでひっそりと暮らしていた。
かつて夫とともに暮らした家はもう捨ててきた。
荒れ果て、見知らぬ誰かの悪意に汚されたあの場所に、もはや何の未練もない。
ただ、胸の奥に宿る復讐の炎と、ペルモスに夢の中で再び会うことだけが、かろうじて彼女の心を支えていた。
酒場での一件以来、アクレディウスという男の存在が、マルファーの心に重くのしかかっていた。
あの男は極めて危険で、計画の大きな障壁になる可能性があると感じていた。
天幕の中で、マルファーは簡易な机の上に広げた紙に、必死で何かを書き込んでいた。
その紙には王宮で働く者たちの名前や役職、特徴がびっしりと書き込まれている。
それは、この四ヶ月間で彼女が得た情報の結晶だった。
アクレディウスという新たな脅威を認識した今、計画はより一層慎重に進めなければならない。
「この人物の姿で、北門を突破する……その後、この男の姿に変われば、地下に辿り着けるはず……」
「それと……アクレディウスの勤務時間も調べなければ。あの男が居ては、きっと計画は失敗する……」
彼女は筆を置き、考え込む。
天幕の外では風が木々を撫で、鳥たちが遠くでさえずっている。
その穏やかな音が、彼女の胸の奥深くでペルモスを思い起こさせる。
「……ペルモス、待っていて。あの男から必ず、あなたを取り返してみせるわ」
彼女の囁きは、森の静寂の中に溶けていった。




