第042話 禁忌と覚悟
湖畔には、戦いの余韻と静寂が漂っていた。
アベリーの手の中には二つの漆黒石がある。一つは兄ヴァンスが持っていた「光弾」。
もう一つは弟ガイルが持っていた「不可視の鎌」。
どちらも、常人ならざる力を秘めた悪魔の遺産だ。
「それで……これをどうしますか?」
アベリーは掌の上で鈍く光る石を見つめながら、二人に問いかけた。
この石があれば戦力は格段に上がり、生存率は飛躍的に上昇する。だが、誰がそれを使うのかという問題が残っていた。
「僕はパスですね」
タラマキオンが即座に手を横に振った。その表情には、明確な拒絶の色が浮かんでいる。
「さっきも言いましたけど、複数所持は精神崩壊のリスクがあります。他人の魂を体に入れるなんて……僕には抵抗があります」
「ですが、あなたのゴーレムだけでは対処できない敵が現れたらどうするんですか? 貴方は強力な戦力ですが、万能ではないはずです」
アベリーの指摘に、タラマキオンは少し困ったように眉を下げた。
「まあ、そうですね……。もちろん、全滅するくらいなら覚悟を決めますよ。僕だって死にたくはないですから。でも、それは本当に最後の手段にしたいんです」
タラマキオンの言葉には、漆黒石を知る者ならではの重みがあった。自我の崩壊――それは生物としての根源的な恐怖だ。
「へぇ〜。ビビってんのか、神様」
ロイがニヤニヤしながら割って入った。
「俺は別に強くなれるなら頭がおかしくなっても気にしないけど」
「あなたは既に十分おかしいですからね……」
アベリーが呆れたように呟くが、ロイは聞こえていないふりをする。
「では、どちらかの能力を取り込むということでいいですか?」
ロイは興味なさげに吐き捨てた。
「いらね」
「……は?」
アベリーとタラマキオンの声が重なった。
さっきまで乗り気だった男が、掌を返したようにそっぽを向いている。
「いらないって、どういうことですか? 強くなりたいんじゃなかったんですか?」
アベリーが詰め寄ると、ロイは心底嫌そうな顔をして答えた。
「だってよぉ、どっちも飛び道具だろ? 遠くからペチペチ撃つとか、戦士としてダサくねぇか?」
「……はい?」
「俺はさぁ、こう、剣で斬り合ったり、拳で殴り合ったりする熱い戦いがしたいわけよ。安全圏から魔法みたいなの撃って『勝ったー!』とか、全然燃えねぇんだよな。性格的に合わないんだよ」
あまりに子供じみた理由に、アベリーは開いた口が塞がらなかった。
「命がかかってるんですよ!? ダサいとか言ってる場合ですか!」
「うるさいなぁ。戦闘スタイルってのは大事なんだよ。俺はもっとこう……力が倍増するとか、鋼の肉体を手に入れるとか、そういう男らしい能力がいいんだよ。身体強化みたいなやつないの?」
「そんな都合よく転がってるわけないでしょう……」
アベリーは呆れるが、ロイは『じゃあパスで』と頑として譲らない。
タラマキオンは苦笑しながら言った。
「まあ、相性というのは大事ですからね。彼が嫌がるなら、やめておいた方が無難かもしれません」
その場に沈黙が流れた。
タラマキオンはリスクを恐れて拒否し、ロイは美学に反すると拒否した。
残る選択肢は、一つしかなかった。
アベリーは、自分の手の中にある二つの石をじっと見つめた。
この手は剣を握ってこなかった綺麗な手。病弱ということで、大切に守られて生きてきた貴族の手だ。
(私が……飲むしかない)
アベリーは角ばった方の石――ヴァンスの『光弾』の石を手に取った。
ゆっくりと、それを口元へ運ぼうとする。
石からは、ヴァンスのどす黒い執念のような気配が漂ってくる気がした。
「飲みます」
アベリーは意を決して、親指ほどの大きさの黒い石を口に押し込むと、水と共に一気に流し込んだ。
喉を通る異物感。食道を焼くような熱さ。
「うっ……ぐぅ……!」
胃に落ちた瞬間、アベリーはその場に膝をついた。
激しい嘔吐感と、頭の中を直接かき回されるような不快感。
「アベリー様!」
タラマキオンが駆け寄ろうとするが、アベリーは手でそれを制した。
冷や汗が滝のように流れ、呼吸が荒くなる。だが、彼は歯を食いしばり、その苦痛に耐える。
やがて、波が引くように頭痛が治まった。
胃のあたりに、重く冷たい塊が定着したような感覚が残る。
「はぁ……はぁ……」
アベリーは肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫かよ、おい」
心配そうに覗き込むロイに対し、アベリーはふらつきながらも立ち上がり、右手を湖の方へ向けた。
意識を集中する。体の中にある異物から、熱を引き出すイメージ。
ヴァンスが放っていたような、あの閃光を――。
「……!」
アベリーは強く念じ、指先を突き出した。
血管が浮き出るほど力を込め、脳裏に焼き付いている破壊の光をイメージする。今、この指先から必殺の一撃が放たれるはずだ。
ヒュオォォ……
しかし、指先から光が出ることはなく、ただ湖面を渡る風が、アベリーの前髪を寂しく揺らしただけだった。
突き出した指先が、小刻みに震える。
「……あれ?」
アベリーは何度も右手を突き出すが、やはり反応はない。
「ギャハハハ! 見ろよ今の!」
静寂を破ったのは、土の檻の中にいる部下たちの嘲笑だった。
アベリーの失敗を見て、恐怖が薄れたらしい。彼らは檻の隙間から顔を出し、指を差して笑い転げている。
「やっぱり使えねぇじゃねぇか! ビビらせやがって!」
そして、それに呼応するようにロイも腹を抱えて爆笑し始めた。
「決め顔で指差して、風がヒュ〜……なんもでないのかよ! 今の決め顔すげぇ面白いんだけど! もっかいやってくれ!」
味方であるはずのロイまで一緒になって笑っている。アベリーの顔色はさらに赤くなる。命がけで飲み込んだのに、徒労だったのか。羞恥と悔しさで耳が熱い。
「焦らないでください」
タラマキオンだけが、気の毒そうにフォローに入った。
「いきなり使いこなすのは難しいですよ。石は馴染むまで時間がかかりますし、何より『出し方』にコツがいるんです。道中で手ほどきをしますから、少しずつ使いこなせるようにしましょう」
「……そうですか。分かりました」
アベリーは自分の手を見つめ、小さく拳を握った。すぐには使えなくても、力は確かに体の中にある。あとは自分次第ということか。
アベリーは残ったもう一つの石――『不可視の鎌』の石を懐にしまった。
タラマキオンが土の檻を指差して尋ねる。
「アベリー様。彼らはどうするつもりですか?」
アベリーは檻の中を見据え、少し考え込んでから答えた。
「この隙間なら、持っている武器で削れば何日かすれば自力で出られるでしょう。放っておきましょう」
「そうですね。無益な殺生は避けるべきです」
タラマキオンが同意する。彼らはそのまま立ち去ろうと背を向けた。
だが、その背中に向かって、部下たちが再び吠えた。情けをかけられたことが、彼らのプライドを刺激したようだ。
「おいこら、クソガキ! 俺らを小物と思って見くびってんじゃねぇぞ!」
「テメェらがどこへ行こうと追いかけていって、寝込みを襲ってやるよ!」
「安眠できると思うなよ! テメェらは死ぬその瞬間まで怯えて暮らすしかねぇんだよ、間抜けめ!」
アベリーは足を止め、何も言い返すことなく、無言のまま立ち尽くす。
部下たちの冷酷な罵声が響く。
「……」
すると、アベリーの視界を塞ぐように、さっきまで爆笑していたロイがぬっと土の檻の前に立ちはだかった。
ロイの声は低く、そして恐ろしいほど平坦だった。
「なあ。こいつらもこう言ってることだし、ここで殺しとこうぜ」
その言葉を聞いた瞬間、檻の中の空気が凍りついた。
部下たちの罵倒がピタリと止む。
「こういう執念深そうな奴らは後々面倒になるからな。今解決しとこう」
ロイが剣を構え、殺る気満々の目で檻の中を覗き込む。
すると――
さっきまで威勢よく吠えていた部下たちが、フェードアウトするように静かに、音を立てずに後ずさりを始めた。
そして目立たぬよう、ゆっくりと太い土柱の影へと身を隠していく。
狂信者といえど、わざわざ死にたがる訳ではないようだ。
土柱の裏で、必死に体を細くして存在感を消そうとしているのが気配で分かる。
そのあまりに滑稽な様に、アベリーは深くため息をついた。
「……いえ、やめておきましょう」
「なんで?」
「……なんでもです。行きましょう」
アベリーは再び歩き出した。
ロイは檻の中をもう一度睨みつけ、不満げに鼻を鳴らす。
「はぁ……まあ、いいけどさ。そんな甘い考えだとそのうち取り返しのつかないことになると思うけどなぁ〜」
ロイが去っていくと、土柱の影からほっとしたような息遣いが漏れた気がした。
「さて、アベリー様。まずは要塞都市バルディアに居る穏健派のリーダーであり、マルファー教団の創始者でもある人物と会ってください。そこで今後のことを話し合いましょう」
「分かりました。私たちも丁度ノーザンデイルへの中継地として、そこを目指していたんです」
「いいね、バルディア。あそこは傭兵の仕事が結構あるから何度も行ったことがある。美味い店もたくさんあるぞ」
ロイは楽しげに先頭を歩く。
アベリーはその背中を見ながら、体の中に宿った新たな「罪」と「力」、そして少しの呆れを抱え、前へと足を踏み出した。




