第39話 湖の煉獄
はるか北東の湖では、残酷な劇の幕が上がろうとしていた。
冷たい風が頬を打ち、ロイは意識を取り戻した。
目を開けると、視界いっぱいに広がるのは満天の星空ではなく、どんよりと曇った灰色の空だった。
揺れる感覚。水の音。
上体を起こそうとして、すぐに違和感に気づく。手足が動かない。
見れば、両手首と両足首に太い縄が食い込み、その先には、底へと引きずり込むための無骨な岩塊がいくつも括り付けられていた。
「……あ? なんだこれ」
ロイが間の抜けた声を出すと、すぐ目の前から冷徹な声が降ってきた。
「お目覚めか。不死身の化け物」
そこは湖の上に浮かぶ一艘の小舟だった。
ロイの目の前にはヴァンスが座っている。
「お、生き返ったか」
「なんだよ……随分と手の込んだことしてんじゃねぇか。なんの嫌がらせだよ」
ロイは状況を理解しつつも、軽口を叩いてみせる。だが、ヴァンスの表情はピクリとも動かない。
「ああ、準備するの大変だったんだぜ。途中で何度も生き返りそうになるか、その度に頭潰して殺し直したんだからよ」
「なんだよ、知らないうちに何度か死んでたのか」
「……よくも俺の弟を殺しやがったな」
「いやいや、それは弟くんの責任じゃないかな。人を殺そうとするなら殺される覚悟を持たなきゃ。そういうもんだろ?」
「まあ、てめぇの言うことも一理ある。だがな、理屈じゃねぇんだよ。兄弟の絆ってものは」
「そう言わずに助けてくれよ〜。お願いだから!」
「……ただ殺すだけでは生ぬるい。てめぇには生き地獄を味わってもらうぞ」
ロイは縛られたまま、周囲を見渡した。岸までは遠い。湖の中心あたりだろうか。水深はかなりありそうだ。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
「その岩と共に湖底へ沈め。肺が水で満たされ、苦しみながら死ね。そして生き返り、また水の中で窒息し、死ね。一週間ほどな。その後、引き上げて漆黒石を回収する」
ヴァンスが立ち上がり、いくつもの岩を湖に投げ入れる。
「地獄の底で、死に続けろ……!」
「ちょッ……ふざけんな! 人の心はどうした!? お母さんが悲しむぞ、こんなことして!」
ロイは足に括りつけられた岩にひっぱられて湖に引き込まれそうになるが、舟の縁に足をかけて突っ張り、落ちないように踏ん張った。
「なに粘ってんだよ! さっさと死ねよ!」
ヴァンスはロイの体に手をかけた。そして、上体を起こしてそのまま湖に投げ入れる。
「ちょ、待っ――」
水しぶきを上げ、ロイの体は重い岩と共に冷たい湖の中へと吸い込まれていった。
口から吐き出された空気が泡となって上昇していく。
重い岩に引かれ、ロイの体はあっという間に暗い湖底へと沈んでいった。
(くそっ……息が……!)
冷たい闇。足を縛る縄に結ばれた岩はびくともしない。苦しい。本能的に息を吸おうとして、冷たい水が喉の奥へとなだれ込む。
「ごぼッ……!」
息ができないこと、それは想像以上の苦しみ。視界が狭まり、意識が暗転する。
そして――死んだ。
体内で何かが弾け、光が溢れる。再生。
意識が戻った瞬間、そこは再び冷たい水の中だった。
「んぐっ……!?」
蘇生した直後だがすでに肺に水が溜まっている。
苦しい。辛い。
再び意識が遠のき、死ぬ。
そしてまた、再生する。
――死と再生の無限ループ。
時間の感覚が消えていく。今が何回目なのか、どれくらいの時間が経ったのか。
ただ永遠に続く窒息の苦しみ。
意識が混濁し、自分と他者の境界が曖昧になっていく。
脳裏に、知らない記憶がフラッシュバックした。
『あーん、して?』
温かい食卓。目の前には、愛しい妻マルファーがスプーンを差し出している。
『おいしい? ペルモス』
ああ、幸せだ。この時間が永遠に続けばいいのに。
――次の瞬間、映像が切り替わる。
罵声。飛んでくる石。腐った果実。
『反逆者に死を!』
処刑台へと続く階段。縛られた両手。
目の前で涙をこらえるマルファー。
『ペルモス……!』
(……なんだ、これ……?)
ロイの意識の中に、ペルモスの絶望と、マルファーへの愛が流れ込んでくる。
苦しい。水が苦しいのか、この記憶が苦しいのか分からない。
『苦しいのはもう嫌だ……もう、楽になりたい……』
ロイの心が折れかける。
だが、その深淵の底で、別の声が響いた。
『それでも……生きろ』
それはペルモスの声か、それともロイ自身の本能か。
混濁した意識の中で、ロイは湖底の泥を握りしめた。
一方、湖畔の茂みの中。
アベリーは息を殺し、震える手で草を握りしめていた。彼が見つめる先、湖面は不気味なほど静まり返っている。
ロイが沈められ、ヴァンスが小舟を湖畔につけると、そのまま湖に面したロッジへと入っていった。それからもう随分と時間が経った。
水面には時折、空気の泡が波紋を立てるが、しばらくすると止まる。それをひたすら繰り返していた。
「ロイ……」
声が震える。
アベリーはあの場から逃げ出していたが、ロイを見捨てることなどできなかった。漆黒石を放置できないという使命感もあったが、それ以上に、自分を逃がすために盾となった彼を、このまま見殺しにはできないという思いが強かったのだ。
アベリーは身を隠しながら尾行を続け、この湖畔まで辿り着いた。そして、目撃してしまった。ロイが頭部を吹き飛ばされた瞬間、そして今、手足を縛られて湖へ沈められるその姿を。
(助けに行かなきゃ……)
アベリーは思う。だが、足がすくんで動かない。
ロッジの一階部分には湖にせり出した広いウッドデッキがあり、そこには数人の屈強な手下たちが武器を手に立っている。彼らは沈められたロイが逃げ出さないか、あるいは誰かが助けに来ないか、鋭い視線で湖面を監視していた。
遮蔽物のない湖面で小舟を出せば即座に見つかるだろう。
(戦うしかないのか……?)
アベリーは腰の短剣に手を伸ばした。冷たい金属の感触が指に伝わる。
だが、脳裏に焼き付いているのは、あの光弾の破壊力だ。一撃で人体を破壊する威力。しかも、ロッジ内にはどれだけ敵がいるかも分からない。
自分の戦闘能力では、正面から挑んでも勝ち目はない。それはあまりにも無謀な賭けだった。
(小舟をこっそり使ってロイを助けることに専念したほうがいい……いや、でもあの見張りたちをどうにかしないと……)
アベリーの思考は堂々巡りを繰り返す。
焦燥感ばかりが募り、解決策が見つからない。短剣を握る手が汗で滑る。
その時だった。
「ごめんくださ〜い!」
緊迫した空気をぶち壊すような、間延びした明るい声が響いた。アベリーは驚いて顔を上げる。
ロッジの正面玄関の方角からだ。
茂みの隙間から覗くと、そこには巨漢の男が立っていた。タラマキオンだ。
彼はニコニコと愛想の良い笑みを浮かべ、まるで近所の顔見知りの家へ挨拶に来たかのような気軽さでロッジの前に立っていた。
「……あぁん? 誰だ、てめぇ。なんのようだ」
ウッドデッキで見張りをしていた手下の一人が、怪訝な顔で近づいていく。
タラマキオンは手下の不躾な態度を気にする様子もなく、軽く頭を下げた。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいことがありまして。この辺りで、ノーザンデイルに向かう馬に乗った若い二人組を見ませんでしたか?」
「……」
手下は無言でタラマキオンを睨めつける。明らかに不審者を見る目だ。
「あの〜、聞いてます?」
タラマキオンが顔を覗き込むと、手下は舌打ちをして、無言のままロッジの中へと入っていった。
「あれ……怒らせちゃったかな。言葉遣いが変だったかな?」
タラマキオンが首を傾げていると、ロッジの中からドタドタと足音が響いてきた。
先ほどの手下が、剣や槍を持った仲間たちをぞろぞろと引き連れて戻ってきたのだ。その後ろからは、不機嫌そうな顔をしたヴァンスも姿を現した。
(武器を持ってる……この辺、治安が悪いのかなぁ)
タラマキオンは呑気にそんなことを考えながら、彼らを見渡した。
「なんか用か?」
ヴァンスが低い声で問いかける。その目には明らかな敵意が宿っている。
だが、タラマキオンは動じることなく、笑顔で答えた。
「あ, いや……ちょっと人を探していまして。ノーザンデイル方向に向かう若い二人組を探してるんです」
「それって、一人は体格のいい短髪の黒髪。もう一人は品の良さそうな金髪の長髪か?」
ヴァンスの言葉に、タラマキオンはポンと手を打った。
「そうです、そうです! その人たちです! やっぱりここを通ったんですね!?」
嬉しそうに身を乗り出すタラマキオン。
ヴァンスは冷酷な笑みを浮かべ、短く命じた。
「……捕まえろ」
その言葉を合図に、手下たちが一斉に殺気を放ち、武器を構えてタラマキオンに襲いかかろうとした。
明らかに危害を加える意思を感じ取り、タラマキオンの表情から笑みが消えた。
彼は瞬時に腰を落とし、両手を地面に叩きつけた。
重低音と共に地面が激しく隆起する。土塊が組み上がり、巨大な人の形を成していく。
「なんだ! なんなんだこれはッ!?」
目の前で突如として現れた岩の巨人に、手下たちは驚愕し、慌てふためいて後退する。
あっという間にロッジの屋根を遥かに超える高さの巨大なゴーレムが完成した。
「クソが……こいつ、能力者か」
ヴァンスは舌打ちをし、即座に右手を上げ、その人差し指をタラマキオンに向けた。
眩い光弾が放たれる。
タラマキオンはその動作にいち早く気づき、生成されていくゴーレムの背後へと身を隠した。
光弾がゴーレムの胴体に直撃し、岩盤が砕け散って破片が飛び散る。だが、ゴーレムは倒れない。
「意外と硬ぇみたいだな……お前ら! そのデブを殺せ! そいつが術者だ!」
ヴァンスの怒号が飛ぶ。手下たちはゴーレムの足を避けながら、背後に隠れたタラマキオンを捕らえようと回り込む。
だが、タラマキオンは既に動いていた。
彼は前かがみになったゴーレムの背中を、まるで階段を駆け上がるように軽快に登っていく。
ゴーレムの背中には、彼が登りやすいように意図的に段差が作られていたのだ。
「よっと!」
タラマキオンは一気に駆け上がり、ゴーレムの頭頂部に辿り着いた。そこは王冠のように岩が隆起しており、安全な見張り台のような形状になっていた。
彼はそこから眼下のヴァンスたちを見下ろし、困ったように頭を掻いた。
「やれやれ……ただ道を尋ねただけなのに、乱暴な人たちだなぁ」




