第35話 暗躍する者たち
翌朝。ミルトンが用意してくれた質素だが温かい朝食が、古びた木のテーブルに並んでいた。
焼かれたパンの香ばしい香りと、野菜を煮込んだ素朴なスープの湯気が立ち上っている。
ロイは行儀などお構いなしといった様子で、勢いよくパンにかぶりつき、スープを音を立ててすする。一方、アベリーは背筋を伸ばし、貴族らしい品のある所作でゆっくりとスプーンを口に運んでいる。
そんな対照的な二人の静かな食事風景の中、唐突にロイが口を開いた。まるで昨日の天気の話でもするかのような、軽い調子で。
「なあ、アベリー。昨日さ、寝てる時に夢見たんだけど、なんか変なおっさんが出てきたんだよね」
「へぇ、そうですか。それは良かったですね」
アベリーは視線も上げず、興味なさげに相槌を打つ。彼の関心は、目の前のスープと、頭の中にある複雑な状況の方に向いているようだった。
「いや、別に良くはないんだけどさ。そのおっさんが言うにはな、自分はエンテディア? とかいう異世界人なんだと」
ロイはもぐもぐと口を動かしながら続ける。
「そんでな。おっさんが言うにはさ、漆黒石には能力だけじゃなくて、元の持ち主の魂も一緒に入ってるんだってよ。つまり、俺の中に知らないおっさんが入ってるんだぜ? な、気持ち悪いだろ?」
その言葉が放たれた瞬間、優雅にスープを口に運んでいたアベリーの手が、ピタリと止まった。
「なんですかそれ……?」
「だよな〜、気持ち悪いよな〜。おっさん消えてくんないかな〜」
ロイは同意を求めるように頷いている。しかし、アベリーは鋭く問い詰めた。
「なんでそれを早く言わないんですか!?」
突然の声量と剣幕に、ロイは目を丸くしてアベリーを見た。
「いや、だから今話してるだろ?」
きょとんとした表情のロイに対し、アベリーはテーブルに身を乗り出すようにして詰め寄った。その形相は、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど険しい。
「朝、目が覚めたらいの一番に報告すべき事柄でしょう! なに呑気に朝食食べているんですか! 馬鹿なんですか!?」
普段の丁寧な口調は消え失せ、苛立ちが露わになっている。まくし立てるアベリーに、ロイは完全に気圧されていた。
「えっと……なんで俺はこんなに怒られてんの?」
アベリーは強い口調で命じる。
「いいからその夢の中の話、全部話してください!」
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陽気な日差しが降り注ぐ深い森の中。
ジャックが地面に横たわり、静かに目を閉じている。その周囲では、風に揺れる木々の葉が微かなざわめきを奏でていた。
やがて、ジャックはゆっくりと目を開いた。視界に映る緑が揺らめき、木漏れ日の模様が淡く踊る。彼はゆっくりと上体を起こし、短く息をついた。
ジャックのすぐ側には大きな天幕が張られている。近くには木の枝を組み合わせて作られた簡素な墓標のようなものが、土に突き立てられていた。
そして、その天幕の前には粗末な木製の机と椅子が置かれており、椅子にはマルファーが腰掛けている。
彼女の長い黒髪が風に揺れ、同じく黒一色の衣装がまるで喪に服しているかのような静かな雰囲気を纏っている。
ジャックはマルファーに近づき、彼女と向かい合う形で反対側の椅子に腰を下ろす。マルファーは右手を軽く仰ぎ、机の上に置かれた飲み物を指し示して勧める。
「それで? どうだったの?」
「残念ながら失敗した」
彼の言葉にはわずかな悔しさが滲む。
「あれだけ多くの情報を得ながら漆黒石を手に入れられなかったなんて、情けない限りだよ」
マルファーの瞳には冷静さが宿り、どこか全てを見透かすような光が浮かんでいる。
「そう……それは残念ね。でも、誰も命は落とさなかったんでしょ?」
「ああ、幸いにも……」
ジャックは短く頷いた。
「ただ、シェイプシフターがアベリーとかいうガキに斬りつけられて怪我をしたよ。でもまあ、問題ない」
「アベリー・マーズデン……領主の息子ね」
マルファーは軽く呟くように言った後、わずかに目を細めた。
「それで? 漆黒石の行方は?」
「おそらくそのガキの連れが持ってる。というよりも、体に宿してる……」
その言葉に、マルファーはわずかに息を飲む。けれど、すぐに平静を装うように続けた。
「……何の能力なの?」
「不死だよ」
ジャックは静かに口を開き、確信を込めて告げる。
「シャドウキャスターが確認した……遂に見つけたんだよ。不老不死の力を」
その言葉を聞いたマルファーの瞳が微かに揺れた。次の瞬間、口元に浮かぶ笑みには、長い年月の思いが詰まっているようだった。
「……やっとね。本当に長い間待ち侘びたわ」
「……ああ、母さんが復活する上で、最も重要な不老不死の能力がやっと見つかったんだ。何がなんでも取り返すよ。どれだけ犠牲を出そうともね」
ジャックの声には、強い決意とどこか狂気めいた執念が滲んでいた。
「ジャック……! やめて」
マルファーの声が鋭く響く。その瞳には、鋭い警告と母親としての愛情が交錯している。
「分かってるでしょ? 犠牲は最小限に。私と同じ道を、あなたに歩んでほしくないの……」
「……ああ、分かってるさ。気概の話をしただけだよ、母さん。今回の作戦でも双方、犠牲者は全く出さなかった」
「……信じていいのね?」
短く鋭い問いかけ。彼女の目は真剣そのものだ。ジャックはそれを受け止めるように頷き、笑顔を浮かべる。
「もちろんだよ。すべては母さんのためだ。だから、その母さんが悲しむようなことは絶対にしないと誓う」
マルファーは彼のその言葉を聞き、ふっと微笑みを浮かべた。
「分かった……あなたを信じるわ。私の愛しい息子……」
優しく温かい眼差しで、彼女は目の前のジャックを見つめる。その目には深い愛情と期待が込められていた。
ジャックもまた、その視線を受け止めるように穏やかに微笑み返す。そして、立ち上がり、椅子を軽く押し戻した。
「それじゃあ、そろそろ行くよ」
「ジャック……無理だけはしないでね」
彼女の声はどこか震えている。
「以前のように、大切な人を失う悲しみには耐えられないわ」
その言葉に、ジャックの顔から軽薄さが消え、真剣な表情へと変わる。彼は静かに彼女の方へ向き直り、低く、しかし力強く答えた。
「心配しなくていい。近いうちに、僕と母さんは現実の世界で会えるようになる。必ずだ」
彼の声には決意と揺るぎない自信が満ちている。
「もう寂しい思いなんて絶対にさせない」
その言葉を聞いたマルファーは、わずかに涙ぐむような表情を見せた。だが、すぐに静かに微笑み、短く一言だけ呟いた。
「……待ってるわ」
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ジャックは目を開けた。頭上の明かりが薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。身体を起こすと、周囲には数人の影が揺れていた。
「おっ、起きたか? 御神託はあったのか?」
低い声で話しかけてきたのは、大柄な赤毛の男、レイヴァンだった。彼は腕を組み、壁に寄りかかったままジャックを見下ろす。
「どうだったの? 女神様には会えたの?」
続けて声を上げたのはセレンドラだ。彼女は優雅な仕草で椅子に腰掛けたまま、ジャックをじっと見つめている。
「ああ……会えたさ。今回の失敗について、とても憂いていらっしゃった」
ジャックは静かに答えた。その表情には焦りの色はないが、わずかな疲労感が滲んでいる。その言葉に部屋の空気が一変した。全員が黙り込み、視線を下げる。
「これはファリオンの責任だ。お前があのガキを取り逃がしたのが全ての原因だろ」
レイヴァンが重い沈黙を破り、負傷した右手を抑えながら座るファリオンを睨みつける。
「おい、レイヴァン……調子に乗るなよ。ドラゴンになって暴れ回るだけの簡単な仕事のお前に何が分かる? 俺は生身で敵だらけの城内に潜入したんだぞ!? それがどれだけ危険なことか、馬鹿なお前には理解できないのか?」
ファリオンは顔を上げ、反論する。
「はっ! お前の方が簡単な仕事だろ。変装して漆黒石を取ってくるだけなんだからよ。坊やには難しすぎたか?」
レイヴァンは鼻で笑い、嘲るように続けた。
二人は睨み合い、部屋の空気がさらに重くなる。それを見て、セレンドラが静かに立ち上がった。
「いい加減にして」
彼女は冷ややかな声で二人を睨むと、自らの胸に手を当てた。
「責任なら私にもあるわ。彼らを取り逃がした。レイヴァン……私のことは責めないの?」
「……いや、俺は別に……」
レイヴァンと呼ばれる赤毛の男は、言葉を濁したまま視線を逸らす。その気まずい空気を振り払うように、ファリオンが口を開いた。
「それで、我らが女神は何と仰られた?」
その問いに、ジャックがニヤけて嘲るように言葉を返す。
「昔、母さんが話してくれたヘリオドスの離宮を襲撃した話……その神話を再現し、お前たちに最高の舞台まで用意してやったってのに……一体なんなんだ、この様は?」
セレンドラは嗜めるようにジャックに反論する。
「せっかく私が口論を止めたのに、また始める気?」
「ああ、すまない。お前たちはもっとできる奴らだと思っていたんでな。少し落胆しただけだ。話を戻そう」
レイヴァン、ファリオン、セレンドラの三人は憮然とした表情で黙り込む。それを見て、ジャックは真剣な表情に戻して続ける。
「必ず不老不死の力を奪い返せとご命令だ。邪魔立てする者は皆殺しにして構わないと仰せられた」
「……我らが女神のご意思とあれば」
レイヴァンが短く頷いた。
「ええ、必ず手に入れましょう」
セレンドラも落ち着いた声で同意する。
「セレンドラ。奴らはどの方角へ向かったか分かるか?」
ジャックは彼女を見据えて言った。
「さあ、この辺りは土地勘がないのでよく分からないけど。北へ向かったんじゃないかしら?」
「北か……おい、お前なら分かるんじゃないのか? 弟は何処へ向かった?」
ジャックは小さく呟くと、視線を部屋の隅に向ける。
そこには、アベリーの兄であるアストンが座っていた。
「北なら……おそらくノーザンデイル。そこには姉のジュディスがいる。きっと姉を頼るつもりだろう」
アストンは黄金に輝く金貨を退屈そうに指でなぞりながら、低い声で答えた。
「ノーザンデイル……必ず奪い返してみせる。……女神、マルファーのために」
ジャックは呟き、口元に冷たい笑みを浮かべた。




