第33話 シャドウキャスター
「なあ。そのペット、名前あんの?」
ロイが人型の影を指しながら軽い調子で問いかける。セレンドラは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに口元に微笑を浮かべた。
「名前? この能力自体はシャドウストライクと呼んでいるけれど、影の方は単にシャドウと呼んでいるわ」
「飼ってる犬に『犬』って名前つけてるみたいで、なんか可哀想だな。何でもいいから名前つけてやれよ。黒い炭の粒子みたいなのでできてるから、カーボンジョンとかどうだ?」
ロイの冗談に、セレンドラは眉をひそめた。
「言っておくけど、これは炭ではないわよ。闇の粒子といったところかしら」
「ならダークジョンと命名してやるよ。行くぞっ! ダークジョン!」
ロイは勝手に名前を決めると、剣を構えたまま勢いよく笑った。
「何であなたが勝手に名前をつけるの? やめてくれない?」
セレンドラは呆れたようにため息をつくが、ロイはお構いなしに剣を振りかざす。その勢いでシャドウに斬りかかった。
影の体に剣がぶつかると、まるで岩を叩いたような鈍い衝撃がロイの手に伝わる。粒子の密度が異常に高いためか、闇で形成されたシャドウは途方もない強度を持っていた。
「……こいつ、硬すぎだろ!」
ロイは手首を回し、衝撃の余韻を払い落とすように剣を握り直した。
「おいおい、俺は名付け親だぞ! もう少し手心加えてくれてもいいんじゃないか?」
一方で、セレンドラは静かにその場から動かず、薄い笑みを浮かべていた。
彼女の視線はロイに向けられているが、その集中は彼ではなく足元の影に注がれていた。彼女の影から黒い粒子が巻き上がり、次々に犬型シャドウが生み出される。そしてすぐにロイを目掛けて駆け出していく。
犬型シャドウは軽快な動きでロイを翻弄し、逃げたかと思えばまた別方向から跳びかかってくる。そのスピードは目にも止まらないほどだ。次々と黒い影が襲いかかる中、彼の剣が空を切り裂き、黒い霧が辺りに舞い上がる。
「くそ……こいつら、キリがねぇ!」
それでもロイは一歩も退かない。鋭い剣筋で次々とシャドウを叩き伏せていく。影は一瞬で霧散するが、そのたびにセレンドラの足元から新たな影が湧き出し、執拗に彼を囲んだ。
「お前らしつこすぎんだよ……!」
ロイが剣を振り回して影を薙ぎ払った瞬間、今度は耐久力に優れた人型のシャドウが動き出す。その動きは犬型に比べて遅いが、その身体は剣の一撃をものともしないほど堅牢だった。
「これは……マズイな」
ロイが剣を振り下ろすたびに、人型の影が腕で受け止め、その一撃を殺す。その隙を狙って犬型シャドウが攻撃してくる。激しい攻防の中、彼は次第に追い詰められていった。
その時、何匹かの犬型シャドウがアベリーのいる方向へ駆け出していく。ロイはそれに気づき、目を見開いた。
「アベリーが狙われてる……いつまでもこいつらの相手してても仕方ねぇ」
ロイは影との戦いに見切りをつけ、一気に方向を転じた。影を振り切るように地面を蹴り、セレンドラに向かって一直線に突進する。
セレンドラはその様子を見て薄く微笑む。
「ようやく来たわね」
ロイと彼女の直線上には黒い粒子が静かに敷き詰められていた。それは膝下まで伸びた雑草に隠れて見えなかった。
ロイがその雑草の中へ足を踏み入れた瞬間、黒い粒子が一斉に動き出した。
「なんだこれ!?」
黒い粒子がロイの足元に集まり、瞬く間に凝固する。彼の足は完全に地面に固定され、身動きが取れなくなってしまった。
「くそっ、動けねぇ!」
ロイが歯を食いしばりながらもがく中、セレンドラは冷静に彼を見据える。
「あなたは本当に凄いわ。普通の人間同士なら、負ける気がしないでしょう?」
彼女は黒い粒子を巻き上げ、それを手元で槍の形に変える。
「でも、能力者との戦いでは……無力。あなたは弱い」
セレンドラは黒い槍を振りかぶり、そのままロイへ向かって投げ放った。
槍はまっすぐに飛び、ロイの腹部に深々と突き刺さる。その衝撃でロイは息を詰まらせ、大きく体勢を崩した。黒い槍は霧散し、それと同時に足を拘束していた粒子も消えていく。
激しい痛みに襲われ、両膝をつく。口から血を吐き出しつつも、その目は決して視線を逸らさずセレンドラを捉えている。
「……まだ立つの? 本当に愚かね」
セレンドラの嘲るような声が耳に届いたが、ロイは一切動じない。その瞳は獣のようにぎらつき、血の臭いが漂う中でも、闘志が燃え盛っていた。
彼はゆっくりと地面に手をつき、力強く立ち上がる。足元の草が血で赤く染まるが、ロイの一歩が地面に深く刻まれるたびに、その場の空気が揺らいだ。
「……死ぬまで戦うのが、戦士だろ……」
弱々しい声で吐き出された言葉には、それでも確固たる決意が滲んでいた。まるで身体そのものが崩れそうなほどボロボロになっても、ロイの心は揺らがない。
彼は歩みを止めることなく、セレンドラとの距離を詰めていく。
致命的な傷を負ったロイだが、彼は倒れることなくその場に立っていた。セレンドラを鋭く睨みつけ、口から血を吐きながらも一歩ずつ前進を始める。
「驚いた……まだ戦う気なの?」
再び犬型シャドウがロイの元へ駆け寄ってくる。それらがロイに飛びかかり、牙で彼の身体を噛み砕く。
ロイは剣を振るい、シャドウを次々と突き刺しては霧散させた。しかし、その隙を突いてセレンドラが再び槍を作り出し、今度はロイの頭部を目掛けて投擲した。
槍はロイの左目に突き刺さり、完全に頭部を貫通する。
槍が霧散すると、ロイの身体はその場に崩れ落ちた。もう息はない。
「さようなら。勇敢な戦士さん……」
セレンドラはロイの動かない体を一瞥する。ロイのその目は、どこへ向いているのかわからない。ただ一点を見つめるように空虚で、まるで命の灯が完全に消えたことを物語っていた。
彼女はつまらなそうに肩をすくめると、ドレスの裾を優雅に持ち上げ、足元に絡みつかないようにしながら踵を返した。
「あとは、さっきの子を見つけて始末するだけ……」
その呟きには微かな苛立ちが混じっていたが、顔には相変わらず余裕が漂っている。彼女は足早に森の方へと向かい、靴音を響かせながら進んでいった。
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森の手前で立ち止まったセレンドラは、深呼吸を一つして集中すると、再び黒い影を生成し始めた。空気中に漂う黒い粒子が彼女の足元に集まり、形を成していく。
しばらくすると、そこには五体の犬型のシャドウが出現していた。それぞれが無音のまま、鋭利な爪を地面に食い込ませるように立ち尽くし、セレンドラの命令を待ち構えている。
「はぁ……これが限界ね。ま、あの子くらいならこの子たちだけで十分よね」
セレンドラはシャドウたちを見下ろし、満足げに微笑んだ。そして、細い指を森の奥へと向けて指し示す。
「さあ、獲物を探してきなさい!」
その言葉を合図に、犬型のシャドウたちは一斉に動き出した。鋭い爪が地面を掻き、黒い影が音もなく森の中へと消えていく。その姿はまるで闇そのものが形を持ったかのようで、不気味な静寂を伴っていた。
森の奥へと消えたシャドウたちの後を追うことなく、彼女はその場で優雅に足を止め、黒い髪を指先で遊ばせながら、次の展開を楽しむように思案していた。
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アベリーは森の中を懸命に走っていた。何度も後ろを振り返る。
そのたびに、木々の間を素早く駆け抜ける黒い影が目に入る。それを確認するたび、心臓が激しく鼓動し、さらに速度を上げた。
だが、影は距離を詰めてきていた。初めは一匹だったが、次第に数が増えていく。
二匹、三匹――振り返るたびにその黒い影は増え、アベリーを取り囲むように迫ってくる。
焦りの中、前方を見ないまま走り続けたアベリーは、不意に足を取られた。
地面を転げ、手のひらに鋭い痛みが走る。顔を上げると目の前には川が広がっていた。川幅は十二メートルほどで、勢いよく水が流れている。
アベリーは振り返り、追手を確認する。そこにはすでに三匹の犬型のシャドウが立ち止まり、じっと彼を見つめていた。その姿には感情がなく、ただ冷たく動きを窺うような沈黙が漂っている。
アベリーは咄嗟に立ち上がると、後退りしながら川へと足を踏み入れた。膝下まで冷たい水に浸かったところで動きを止め、相手を注視する。
「……なぜ動かない?」
シャドウは川の手前でピタリと動きを止めていた。じりじりと迫ってくるかと思われたが、意外なほどその場に留まり続ける。アベリーはその様子を見て、何かを考え込むように眉をひそめた。
シャドウはその動きを見て、一瞬怯むように後退した。そして、川の手前で立ち止まり、遠巻きにアベリーの様子を窺い始めた。
「水が怖いのか……?」
アベリーは呟きながら、川の中を進み始めた。反対岸を目指し、ゆっくりと慎重に歩を進める。水の冷たさが足元から全身へと染み込んでくるが、気にしている余裕はない。
やがて川の中腹に差し掛かると、流れの強さに加えて水位も胸のあたりまで達した。呼吸を整えながら、一歩一歩を確実に進める。何とか足を踏みしめ、ついに反対岸へとたどり着いた。
背後を振り返ると、シャドウたちが川の前で不安そうに動き回っている。その姿を見て、アベリーは胸を撫で下ろした。
「助かった……」
彼はほっとした表情を浮かべると、再び歩き出した。その背中には、僅かに安心感が漂っている。川の方へ目を向けると、シャドウの一匹が勢いをつけて跳び上がるところだった。
「まさか……!」
驚異的な跳躍力で、シャドウは川を越えようとした。その影はまるで矢のように空中を舞う。しかし――
思っていた以上に川幅が広かったのか、完全に川を越えることができず、シャドウの下半身が水面に触れる。
その瞬間、シャドウの下半身を構成していた黒い粒子が水に溶け出し、川の流れに乗って消えていった。下半身を失ったシャドウはその場で不規則に揺れ、バランスを失ったかのようにジタバタと動き回る。
アベリーはその隙を見逃さなかった。急いで駆け寄り、短剣を握る手に力を込める。そして、迷いなくその刃をシャドウの頭部へと突き刺した。
シャドウはかすかな抵抗を見せたが、すぐに黒い霧となって四散する。その場には何も残らず、ただ静寂だけが漂っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で大きく息をしながら、アベリーは短剣を構えたまま、シャドウが消えた空間をじっと見つめていた。
体中に緊張の余韻が残る中、川の向こう側に目をやる。
そこには、残った犬型シャドウたちが立ち尽くしていた。恨めしそうにアベリーの方を窺っている。シャドウたちは川を越えてくる気配を見せなかった。
アベリーは緊張を解くように短剣を下ろし、身を翻してその場を離れた。足元を確かめながら駆け出し、森の奥へと消えていく。
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しばらくして、その場所にセレンドラが現れた。川辺に立つシャドウたちは、彼女の気配を感じ取ると、一斉に頭を下げた。その動きにはどこかバツの悪さが感じられる。
「川……」
セレンドラは目の前の景色を見つめ、何かを察したように小さくため息をついた。そして、シャドウたちの近くまで歩み寄ると、軽く屈み込む。
「こんなに水が沢山あったら怖くなっても仕方ないわね」
彼女は穏やかな声で言いながら、近くにいたシャドウの頭部を撫でるような仕草を見せた。
「持ち場から離れすぎたわね……戻りましょう。他にも城から出てくる人がいるかもしれないし……」
立ち上がったセレンドラは川を一瞥した後、静かに踵を返した。シャドウたちは彼女の後をついていくように動き出し、やがてその場を後にした。
再び元いた場所へ戻ったセレンドラは、何か異変に気が付いた。
そこにはロイの死体があるはずだった。だが、地面に残されていたのは血溜まりだけだった。
「……」
セレンドラは無言で血溜まりを見つめる。眉間に僅かな皺を寄せて考え込む。数秒の沈黙の後、彼女は周囲を見回した。
「……面白いことになりそうね」
彼女の唇に浮かんだ微笑は、何かを確信しているかのようだった。




