第30話 偶然の奇跡
アベリーは居館の廊下を駆け抜ける。
背後から迫る気配が、薄暗い空間に重くのしかかる。ダレスを装った者が追いかけてきている――その事実が頭から離れない。
出血の多い相手よりは速く走れている。それは分かっているのに、心臓の鼓動が止めどなく早まる。まるですぐ後ろにまで迫られているかのような錯覚に陥る。
「……!」
走り抜けた先に現れたのは、ドラゴンのファイアブレスによって焼け焦げた廊下だった。
真っ黒に煤けた壁と床。熱気と炭の臭いが鼻を突く。
一瞬立ち止まり、アベリーは息を整えた。思わず背後を振り返る。だが、そこには追ってくる偽ダレスの姿はない。
それなのに、背筋に冷たいものが走る。まるで、その気配だけが闇の中から手を伸ばしてきているようだった。
再び足を前に動かし、焼け焦げた廊下を進む。
前方にはさらに荒廃した空間が広がっていた。ドラゴンが突き破った外壁の大穴。
廊下の先は瓦礫で塞がれていた。大穴から外を覗き込むと、そこから見える空は、煙に遮られ、ぼんやりとした灰色をしている。
すると、巨大なドラゴンの背中が視界に入った。その漆黒の翼がわずかに動くたび、圧倒的な存在感が空間を支配している。
「……どうする……?」
外へ出ればドラゴンに見つかる危険がある。だが、このままでは――アベリーの目が激しく揺れる。
ドラゴンとダレスを装った者、その両者の間で選択を迫られていた。
辺りを見回すと、瓦礫の中に黒焦げになった人影が立ち尽くしているのが目に入る。
それは剣を杖代わりにし、片膝をついたまま炎に焼かれ――まるで英雄の彫像のようだった。
アベリーはその異様な姿に一瞬息を呑む。しかし、すぐに足を踏み出し、その像の前に立つ。
「……これしかない」
懐から取り出した漆黒石を、その遺体の口の中に押し込む。冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、アベリーは遺体から離れた。
ドラゴンの影が、なおもその場に留まる。一方で、廊下の向こうから重い足音が迫ってくるのを感じた。
アベリーは身を翻し、短剣を握り直す。
廊下の奥から現れたのは、険しい表情の偽ダレスだった。
互いに睨み合う二人の間には、冷たい緊張感が張り詰めていた。
二人はじりじりと間合いを取り合いながら、瓦礫だらけの部屋の中を円を描くように動いていく。
ダレスの冷徹な視線と威圧感に、アベリーの背中がじわじわと壁際へと追い詰められていく。
「漆黒石はどこだ。言え」
「……死んでも教えない」
「そうか? 少しずつ体を切り裂かれたとしても、その答えが変わらないと言い切れるか?」
冷笑を浮かべながら、偽りのダレスがさらに一歩踏み出す。
その動きに反応して、アベリーはわずかに身を引き、緊張の糸が張り詰める。
しかし、ダレスの声が耳に届かなくなるほど、アベリーの意識は別のものに引き寄せられていた。
視線はダレスの背後――瓦礫の中に立つ、あの黒焦げの遺体。そこに異変が起きている。
「……!」
目を見開いたアベリーは思わず息を呑む。
黒焦げで動くはずのない遺体が、ゆっくりと皮膚を取り戻し始めているのだ。
焦げた肉の表面が剥がれ、その下から新しい皮膚が現れる。まるで時間が巻き戻されているかのように、遺体の焼け焦げた跡が次第に消え失せていく。
全身を覆っていた黒い炭のような外殻が完全に剥がれると、そこにはかつての生気を取り戻したロイの姿があった。
アベリーはその信じがたい光景に呆然と立ち尽くす。
その光景は、まるで神の御業のようだった。ロイが完全に蘇生し、まるで新しい命を吹き込まれたかのように動き出す。
当然のように混乱するアベリー。それでも、ダレスの前で動揺を隠しながら口を開いた。
「一体……なんなんだ……これは?」
ロイが目を開く。そして、自分の体を見回した。
「……え? なんで裸なんだ!?」
その声に、ダレスは驚いたように振り返る。目に飛び込んできたのは、全裸のロイ。その堂々とした姿に、一瞬呆然とした表情を浮かべた。
「お前……? そこの死体は……なんだ、何なんだお前は?」
ダレスが完全にロイに気を取られている隙に、アベリーは静かに距離を詰める。そして、ずっと手にしていた短剣に力を込めた。
次の瞬間――アベリーは偽ダレスの背中を思い切り刺した。
「ぐぅぅっ!」
ダレスが苦悶の声を上げる。だが、すぐに振り返り、アベリーを払いのけた。その動きは痛みに満ちているが、なおも力強かった。
「貴様ッ……!」
睨みつけるダレスに、アベリーはすかさず叫ぶ。
「そこの人! 斬って! そいつは襲撃者です!」
その言葉に反応し、ロイは手にしていた剣を見つめた。
「襲撃者? おいおい、まさか……ドラゴンに乗ってたのって、こいつか?」
ロイの言葉に偽ダレスは顔を歪め、状況が自分にとって不利であると悟った。その目が一瞬だけ、大穴へと向けられる。
躊躇することなく、ダレスはその場から全力で駆け出した。瓦礫の中の大穴を飛び越え、外の闇へと姿を消す。
その場に残されたアベリーは息を整え、ロイに向き直った。
「……助かった」
「……あれ? なんか見たことある人だったような……」
ロイが首をかしげながら呟く。
「あれはダレス・マーズデンの偽物です」
「そうなのか? なら追っかけて殺すか」
「いえ、もういいです。それより逃げましょう」
「いやいや、まだドラゴン倒してないんだけど……」
「戦っても勝機はありません。今はここから逃げることが先決です」
アベリーはロイの腕を掴み、強引に引っ張る。
「おいおい、待てよ! 俺の服知らない? 気がついたら裸なんだけど。それに、なんで俺は死んでないんだ? 確かドラゴンの炎で焼かれたはず……」
ロイがぼやきながら腕を振り払おうとするが、アベリーは振り返らずに走り続ける。
「私は貴方の遺体の中に漆黒石を隠しました」
「は?」
「そうしたら、貴方が生き返ったんです。私も状況を把握できていませんが、貴方を連れてここから逃げることが最善だと判断しました」
冷静に説明するアベリーに、ロイはますます混乱した表情を浮かべる。
「漆黒石って何? つうか、あんた誰?」
「アベリー・マーズデン。申し訳ないのですが、長々と質問に答えている暇はありません」
息を切らせながらも、アベリーは真剣な表情で答えた。
「アベリー……え? 領主様の息子さん? あれ? 女の人?」
ロイはアベリーの中性的な見た目に目を留め、不思議そうに見回す。その無遠慮な視線に、アベリーは目を細め、低い声で答えた。
「……男です」
「色々とわけ分かんないんですけど」
「私もです。今は黙って着いて来てください」
そう言い放ち、アベリーは先を急ぐ。ロイも渋々その後を追った。
二人は息を切らしながら食料庫にたどり着く。アベリーは奥にある食糧棚を指さし、短く言った。
「ここです。この棚を横へずらしてください」
アベリーが冷静に指示を出すと、ロイは特に疑問を挟むことなく棚の横に手を掛けた。
力強く押し始めると、棚が重々しい音を立ててスライドしていく。
動いた棚の後ろから現れたのは、暗闇へと続く隠し通路だった。その先には、古びた石造りの階段が下へと伸びている。
ロイは目を見開きながら、隠し通路を覗き込んだ。
「ほぉ……こんなのがあったのか。さすが、貴族が住む城は違うなぁ」
軽口を叩きつつも、ロイの声には微かな興奮が滲む。それを横目で見ながら、アベリーは通路の中を真剣な表情で確認していた。
「さあ、行きましょう」
アベリーは冷静にそう促し、先へ進むための一歩を踏み出す。
背後では、炭のような焦げた匂いと廊下に漂う緊迫感が二人を包み込んでいた。
敵がどこにいるか分からないという不安と、これが唯一の逃げ道だという確信が交錯する。
「まったく、無茶苦茶な一日になったな……」
ロイはぼやきながらも、彼はアベリーの後を追い、通路の暗闇に足を踏み入れる。
闇の中へと吸い込まれるように二人の姿が消えていった。




