第26話 漆黒のドラゴン
マーズデン城を遥かに見下ろす、小高い丘の上。
四つの人影が並び、風にローブをなびかせていた。深く被ったフードがその表情を隠しているが、彼らが放つ異様な気配は、ただならぬ者たちであることを示していた。
彼らの視線は一点、眼下に広がるマーズデン家の居城に注がれている。
「手はずは整っているのか?」
中央に立つ男――青年となったジャックが、低い声で問いかけた。
かつてスラムで泥にまみれていた少年の顔ではない。
冷徹な知性を宿した瞳。そこには、数多の屍を越えてきた冷酷な青年の顔があった。
「ああ、準備はできてる。体調も万全だ。暴れまわれるのが楽しみで仕方ねぇ」
隣に立つ大柄な男、レイヴァンがフードの奥で獰猛な笑みを浮かべ、ボキボキと指を鳴らす。
「俺も、城内の構造はしっかり頭に入れてある。目標物の確保に抜かりはない」
もう一人の男、ファリオンが淡々と答える。彼らはそれぞれが自分の役割を完璧に理解していた。
その中で、唯一の女性であるセレンドラが、艶やかな声で不満げに呟いた。
「私は外で見張ってるだけなんでしょ? 退屈しそうだわ」
「いいじゃないか。こういうのは役割分担が大事なんだ」
ジャックは眼下の城を指差し、愉悦に満ちた声で告げた。
「さあ。1600年前に起きた神話の再現を、始めようじゃないか」
神話の再現――かつて悪魔が復讐のために行った破壊と蹂躙が、今まさに現代に蘇ろうとしていた。
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コンコン――
柔らかなノック音が静かな部屋に響く。
「失礼します。父上」
扉を開けて入ってきたのは、マーズデン家の三男、アベリーだった。室内では、当主ダレスが書類の山に向かい合っていた。
「アベリーか。どうした?」
「対ドラゴン用のバリスタが新たに五基、完成しました」
「そうか。間に合ったな」
「……父上、本当にドラゴンは現れるのでしょうか?」
「わからん。ただ、備えねばならん。もしものことがあってはならぬのだ」
「それはそうですが……」
父と息子の間に流れる静寂を破るように、ダレスが深い声で語り始めた。
「神話では、異界よりやって来た悪魔マルファーを、神アクレディウスがこの地で討ち滅ぼしたとされている。その時、悪魔の姿はドラゴンのようだったそうだ」
「それは存じています。ですが……神話の話ですよね?」
アベリーの率直な疑問に、ダレスはふっと微笑を浮かべた。
「信じていないのか?」
「それは……何とも言えません」
「我がマーズデン家は、神アクレディウスに仕えていたと言われている。そして、悪魔が生み落としたとされる漆黒石を管理、回収するストーンウォッチとしての使命を仰せつかった。聖戦から千六百年もの間、この家系に伝わる使命だ」
その言葉に、アベリーは口を閉ざした。父の真剣な目に圧され、反論する気が起きない。
「だが、その後の何百年もの間、漆黒石はたった一つしか見つからなかった。それ以来、回収は諦め、その見つけた漆黒石の守護に専念してきた」
「守護しているその漆黒石、本物なのでしょうか?」
アベリーの問いに、ダレスは遠い目をしたまま答える。
「さあな。ただ、実際にあの石に触れてみると、何らかの生命……まるで魂にでも触れているような感覚を覚えるのだ。何であれ、ご先祖様が代々守ってきたものだ。我々も信じて守り続ける。それがマーズデン家の使命だ」
最後の言葉を呟くダレスの表情は、どこか影を帯びていた。
「漆黒石だけは、何があっても守らねばならない。もし悪魔が復活して、ドラゴンの姿で再び現れたのであれば、自ら生み落とした漆黒石を求めてやってきたのかもしれん……」
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城の練兵場。
「ほらほら、どうした! そんなんじゃ敵は倒せないぞ!」
ロイが訓練中の若い兵士に木剣を向け、軽口を叩く。若い兵士は必死に剣を振るうが、その動きは拙い。ロイは軽々とかわし、逆に背後を取って兵士の背中に軽く蹴りを入れる。
「だめだな、こりゃ。剣向いてないんじゃないか?」
「もう一度お願いします!」
倒れたままの兵士が叫ぶ。ロイは肩をすくめ、軽く手を広げた。
「どうぞ、何度でも」
兵士が立ち上がり、再びロイに向かってくるその背後で、グレッグが大声で呼びかけた。
「おい、全員集合だ!」
練兵場にいた兵士たちが訓練を中断し、グレッグの元へ集まる。ロイも木剣を手にのんびりと合流した。その中にはタイロンの姿もある。
ロイとタイロンの目が合うと、タイロンは鋭い視線を向ける。一方のロイは両手を小さく上げ、降参のポーズでおどけて見せた。
「それで、グレッグ。どうしたんだ?」
タイロンがロイを無視し、グレッグに尋ねる。
「ああ、この中にバリスタの射手をやりたい奴はいないか?」
「バリスタって、あのデカい奴だろ?」
ロイが練兵場の隅に置かれた、巨大な矢を飛ばす道具、バリスタを指差した。
「その通りだ。剣や弓ではドラゴンに致命傷を与えられない。だからこそバリスタが必要だ。新たに五基完成したが射手が足りない。志願者を募る」
「俺はパスだな。やっぱり剣で戦いたい」
ロイは腰に携えた剣を軽く叩きながら言う。その笑顔は少年のように屈託がない。
「そうか。ならお前は剣の腕を磨いておけ。それで、バリスタの射手をやりたい奴はいないか?」
「俺がやります!」
「私も!」
数人の兵士が手を挙げる。その表情は真剣そのものだった。
「よし、君たちはバリスタの訓練に参加してくれ。他の者は引き続き剣の訓練だ」
「はい!」
兵士たちの返事が響き、練兵場には再び活気が戻った。
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夜、軍議の間。
マーズデン家の面々が集まり、対ドラゴンの戦略について議論を交わしていた。
「バリスタの数には限りがありますし、発射までに時間がかかる。それに真上の敵には対応できません」
アベリーが冷静に説明する。
「ではどうする? 他に有用な兵器でも作れというのか?」
次男アストンが懐疑的に問いかける。
「いえ、戦術面でなんとかしましょう。兵士たちを囮にし、ドラゴンを中庭に降ろしましょう。そこでバリスタを一斉射撃します」
「無茶だ! そんなことをすれば死者が大量に出るぞ!」
アストンは机を叩きながら反論する。
「確かに危険ですが、それしか方法がないんですよ」
アベリーの冷静な語り口に対し、アストンはさらに不満を募らせた。
「そもそもドラゴンなんて本当に現れるのか? こんな対策、無駄としか思えん!」
「無駄かどうかは分からないだろ! 十分な備えなければ、ドラゴンからこの城は守れんぞ!」
長男ヘンリーが力強く言い放つ。
「ドラゴンとか、そんな不確かなもののために、財政負担を強いるのか!?」
アストンの言葉に、ダレスが低く呟いた。
「……もうよい」
重苦しい空気の中、ダレスの声が響く。
「マーズデン家の使命を忘れるな。この地で漆黒石を守る、それが我々の責務だ」
彼は一拍置き、子どもたちを見渡して続ける。
「兵達が危険にさらされることも、財政的な負担も理解している。しかし、それでも使命を果たさねばならぬ」
低く、力強い声で言い切った。
「マーズデンの人間として、ストーンウォッチの使命を果たせ」
その言葉に、ダレスの息子たちは静かに頷いた。
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翌朝、練兵場。
訓練が始まる直前、兵士たちはバリスタの操作方法を学んでいた。練兵場は活気に満ち、重々しいレバーの音や兵士たちの掛け声が響いている。
だが――その瞬間、訓練場全体に異様な影が落ちた。
頭上に何かが覆いかぶさる感覚が、兵士たちを凍りつかせた。
「……ん?」
訓練場が急に薄暗くなり、全員が顔を上げる。
次の瞬間、彼らの目に映ったのは――漆黒のドラゴン。
「うわああああああ!」
兵士たちの叫び声が響き渡る。
その巨大なドラゴンの姿はまるで神話の中から抜け出したかのようだった。漆黒の鱗は光を吸い込み、翼を広げるたびに空気が軋む音が聞こえ、城の上空を悠然と旋回している。
「見張りは何をしている! 早く鐘を鳴らせ!」
グレッグが怒鳴り声を上げ、周囲の兵士が慌てて駆け出す。
城中に鳴り響く鐘の音は、非常事態を告げる警鐘となった。
「どうするんだ、これ!?」
「知らん! だが、とにかく撃つしかない!」
「だめだ! バリスタじゃ真上は狙えねぇ!」
兵士たちは動揺し、あちこちで怒号と混乱が巻き起こる。
その中で、剣を訓練していたロイも顔を上げ、目の前の光景に圧倒された。
「なんだよ、あれ……とんでもねぇデカさだな」
彼の呟きには恐怖というよりも、未知への興奮が混じっていた。
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城のバルコニー。
「なんと……本当に、来てしまったのか……」
当主ダレスは静かに空を見上げ、青ざめた顔を曇らせた。その横顔は、いつも以上に厳しく、悲壮感すら漂わせている。
一方、図書室に籠もっていたアベリーも外の喧騒に気づき、読んでいた本を閉じて立ち上がった。
「ドラゴンが……本当に……」
彼の胸が高鳴り、恐怖と使命感が複雑に入り混じる。
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城の前庭。
「おい、お前! 何をしている! さっさとバリスタに射手を集めろ! 他の兵は、仕留めやすい場所にドラゴンを引き寄せるんだ!」
長男ヘンリーが広場へ駆け込み、的確な指示を出す。兵士たちはその声に従い、慌ただしく動き始めた。
だが、ドラゴンが嘲笑うかのように巨大な翼を広げ、地上を見据えた。
次の瞬間、鋭い咆哮が大気を切り裂き、全身を震わせる衝撃が広場を包み込む。
ドラゴンは悠然と城壁の真上を低空飛行する。
そして、配置されたバリスタの存在を認めた瞬間、喉元が赤く輝き始める。
「伏せろ! 炎が来るぞ!」
兵士たちの警告も虚しく――
灼熱の炎が轟音と共に吐き出された。
赤黒い火柱が城壁を覆い、設置されたバリスタを跡形もなく飲み込んだ。
「うわあああ!」
「誰か助け――」
逃げ遅れた兵士たちの叫びが次々と掻き消される。
炎に包まれた彼らの影は、激しく揺れる赤い光の中に吸い込まれるように消えていった。
足を踏み出す間もなく倒れ込む兵士、恐怖から膝を抱えて座り込む者――そのどれもが、焼け付く熱波に飲み込まれていく。
その光景を広場で見ていたヘンリーの視界は、巨大な火柱によって赤く染め上げられ、城壁の上の無惨な光景がその瞳に映る。
焦げる肉の匂いと、燃えさかる炎の唸りだけが、広場を満たしていた。
「くそっ……何なんだ、あれは……」
ヘンリーが呟くが、それに応える者はいなかった。




