第2話 消える未来
澄み渡る青空が広がる穏やかな昼下がり。
エンテディア随一の都市ルミナスでは、白い石造りの建物が並び、街の中心には噴水が輝きながら水を放っている。
街路を行き交う人々は活気に満ち、遠くには荘厳な王宮がその存在感を放っていた。
この華やかな都市の片隅、静けさが漂う場所に、マルファーとペルモスの家は佇んでいる。
家の中では二人が仲睦まじく食事を楽しんでいた。
窓から差し込む柔らかな陽光が食卓を照らし、マルファーの作った料理が色鮮やかに映えている。
「マルファー。この料理、本当に絶品だよ! 君の腕前にはいつも感心させられるな」
「ありがとう、ペルモス。そう言ってもらえると作り甲斐があるわ」
マルファーは頬を染め、彼の手をそっと握った。
ペルモスも嬉しそうに握り返す。
「いつも美味しい料理をありがとう、マルファー。本当に幸せだよ」
「ふふ、どういたしまして」
「そうだ。あと二年で君も二千五百歳だね。その記念日には、僕が腕によりをかけてご馳走を作ってお祝いするよ」
ペルモスが胸を張るが、マルファーは少し困ったような、それでいて可笑しそうな表情を浮かべた。
「まあ、嬉しいわ。……でもペルモス、あなた料理はあまり得意ではないでしょう?」
「はは……やっぱりバレてるか。昔の、あの炭のような物体は忘れてほしいんだけどな」
ペルモスが苦笑すると、マルファーは優しく微笑んだ。
「いいのよ、その気持ちだけで十分だわ。ありがとう。あなたが側に居てくれること、それが一番の贈り物よ」
二人の間に流れる穏やかな時間を、ペルモスの少し残念そうな笑顔が彩っていた。
その時、不意に扉を激しく叩く音が家中に響き渡った。
ドンドンと不穏なリズムで鳴り響く音に、二人の笑顔は一瞬で消え去った。
「誰かしら……?」
マルファーは不安げに立ち上がり、胸の高鳴りを抑えながら玄関へと向かう。
扉を開けると、そこには冷酷な表情をした兵士たちが立ち並んでいた。
彼らの鎧は光を反射し、その無機質な輝きが不吉な予感を漂わせている。
隊長と思われる男が一歩前に出て、鋭い目つきでマルファーを見下ろした。
「ペルモスはいるか?」
「はい、いますが……何のご用でしょうか?」
「ペルモスには王の殺害企ての嫌疑がかかっている。奴はどこだ?」
「そんな……何かの間違いです! 彼がそんなことをするはずがありません!」
その時、ペルモスが不安そうな表情で玄関に現れた。
「一体どうしたんだ?」
隊長は冷酷な視線をペルモスに向けた。
「ペルモス、お前には反逆の嫌疑がかかっている。家の中を捜索させてもらう。証拠隠滅の恐れがあるので、お前たちは外で待て」
「待ってくれ! 俺は何もしていない!」
抗議をするペルモス。
しかし、兵士たちは彼の言葉を無視し、二人を強引に外へ連れ出した。
庭先に引きずり出された二人の周囲には、いつの間にか近隣の住民たちが集まり始めていた。
彼らの視線は好奇心と疑念に満ちており、囁き声が不気味に耳に入ってくる。
「まさかペルモスが反逆者だったなんて……」
「マルファーも共犯なのかしら?」
兵士たちは家の中を荒々しく捜索し、家具を倒し、私物を床に散らかした。
その音が外まで響き渡り、マルファーの心は不安と恐怖で押し潰されそうになっていた。
しばらくして、一人の兵士が家から飛び出してきた。
「エウリピデ隊長! ありました! これを見つけました!」
隊長はその手帳を受け取り、満足げな笑みを浮かべると、大声で内容を読み上げ始めた。
「王政への強い不満、そして暗殺計画の詳細が書かれているな……『ゼフィロス王の独裁政治が我々平民を圧迫し、この国を歪ませている。』」
「そして……『ゼフィロス王を排除しなければ、この国の未来はない』。さらに具体的な計画も書かれているぞ。『ゼフィロス王、在位五千年記念行事で通例となっている民衆との対話の際にナイフで殺害する』……どうだ、これはお前のものだな?」
「そんなもの知らない! 誰かが仕組んだに違いない!」
ペルモスは必死に叫ぶ。マルファーも涙ながらに訴える。
「彼は無実です! どうか信じてください!」
しかし、隊長の目には冷酷な光が宿っていた。
「反逆者の言葉など信じられない。連れて行け!」
兵士たちはペルモスを強引に引き立て始めた。
ペルモスは抵抗するが、数人の兵士に押さえつけられ、身動きが取れない。
「マルファー! 心配するな、必ず戻ってくる!」
「ペルモス!」
マルファーは彼に駆け寄ろうとするが、兵士たちに阻まれる。
「ペルモスのことは諦めろ。新しい夫探しでもしたらどうだ?」
隊長は冷たく彼女を見下ろし、その手でマルファーを乱暴に突き飛ばした。
地面に倒れ込んだマルファーの手は擦り傷だらけになり、血が滲んでいる。
しかし、その痛みよりも心の痛みが彼女を襲っていた。
「お願いです……彼を連れて行かないで……」
震える声で懇願する彼女に、周囲の人々は誰一人として手を差し伸べなかった。
むしろ、その場から一歩引き、彼女をまるで疫病でも見るかのような目で見つめていた。
「関わらない方がいい。下手に同情すると、自分たちまで疑われるかもしれない」
「彼女も何か罪を犯しているのでは?」
マルファーの心は絶望に沈み、世界が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
目の前で愛する夫が連れ去られていくのに、それを止める術もなく、自分は無力。
「ペルモス……」
その名を呼ぶ声は、風にかき消されて誰にも届かない。
空には黒い雲が立ち込め、まるで彼女の心情を映し出すかのように雷鳴が遠くで響いた。
「どうして……どうしてこんなことに……」
彼女の瞳から溢れる涙は止まらず、頬を伝い地面に落ちていく。
その姿は見る者の心を締め付けるほど悲痛でありながら、誰も手を差し伸べる者はいなかった。
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兵士たちに連れられたペルモスは、王宮近くの牢獄へと運ばれた。
そこは厚い石壁と鉄格子に囲まれ、冷たい空気が漂う無機質な空間だった。
彼は押し込まれるように牢の中へ入れられ、背後で重々しい扉が閉まる音が響いた。
「これは何かの間違いだ……!」
ペルモスは鉄格子に手をかけ、必死に弁明を試みた。
「俺は反逆などしていない! 一度でいい、話を聞いてくれ!」
しかし、兵士たちは冷たい視線を向けるだけで、無言のまま彼に背を向けた。
「待て! これは何かの陰謀だ! 俺は無実だ!」
ペルモスの声は虚しく石壁に反響し、消えていった。
彼は鉄格子を叩きつけるように手を離し、背中を壁に預けながらずるりと座り込んだ。
「くそっ、どうなってるんだ……」
思わず顔を両手で覆い、深く息を吐き出す。
動揺と苛立ちが胸を締め付ける中、頭に浮かぶのは一人の顔だった。
「マルファー……どうか、君だけは無事でいてくれ……」
彼はその名を呟きながら、小さな窓から差し込むわずかな光をじっと見つめた。
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一方、マルファーは家の中で呆然と座り込んでいた。
乱された家具や床に散らばる物品の数々が、ペルモスの無実を証明するどころか、むしろ反逆の罪を裏付けるように見えた。
マルファーは床に座り膝を抱え、頭の中でペルモスの姿を思い浮かべていた。
暗く冷たい牢獄の中、自由を奪われ、理不尽な罪を背負わされている彼――それを想像するだけで胸が締め付けられる。
「ペルモス……どんなに辛い思いをしているの……」
その問いは彼女自身への責めのようでもあった。
しかし、マルファーの心には次第に微かな希望と覚悟が芽生え始めていた。
「ペルモスを救える方法が何かあるはず……私が動かなければ、私が彼の無実を訴えなければ……!」
彼女の瞳には揺るぎない意志の光が宿り始めた。
マルファーは来る日も来る日も監獄を訪れ、夫ペルモスへの面会を求め続けた。
しかし、監獄の門前に立つ兵士達は冷淡な態度で彼女を拒絶し続けた。
「またお前か、しつこいぞ! いい加減にしろ!」
「どうか……どうか、夫に会わせてください。私はただ……!」
「何度来ても無駄だ! 反逆者の面会なんて許されるわけがないだろ!」
兵士は冷ややかに言い放ち、彼女を突き飛ばした。
マルファーはよろめきながらも、地面に膝をつき、兵士に向かって力強い声を上げた。
「ペルモスは無実です! あなたたちは間違ってる!」
その声に別の兵士が鼻で笑いながら言い放つ。
「旦那のことは諦めろ。反逆の証拠が明白に揃ってる。死罪は免れないさ」
「ああ。こんなところで時間を無駄にしていないで、家に帰って晩飯の準備でもしたらどうだ?」
別の兵士が軽蔑を込めた声で付け加えた。
マルファーは彼らを睨みつけたが、それ以上言葉を返さず、監獄前に集まった通行人たちに向き直った。
「皆さん、聞いてください! ペルモスは無実です! 彼は王を殺そうとなんてしていません! 私たちはただ平穏に暮らしていただけなんです!」
しかし、通行人たちの反応は冷ややかだった。
誰一人として足を止める者はおらず、むしろ冷淡な言葉を投げかける者さえいた。
「旦那が反逆者なら、あの女も共犯なんじゃないか?」
「みっともないわね……あんなに必死に喚き散らして」
それらの蔑みの声を聞いた別の男が、嘲笑を浮かべながら声を上げた。
「見苦しいったらないな。反逆者の旦那なんか庇いやがって。そんな男より、もっと良い男に目を向けるべきだろ」
そう言いながら、その男はマルファーに近づいた。
男は髪がボサボサで、不潔なヒゲが顔中に生え放題だった。
服装は汚れており、油じみた臭いがほのかに漂っている。
彼の目はぎらぎらとしており、その視線はまるで獲物を物色するようだった。
「俺が相手してやるよ……満足させてやるぜぇ」
男は薄笑いを浮かべながら、無遠慮にマルファーの肩に手を置いた。
そして息が掛かるほどに顔を近づけ、耳元で囁くように続けた。
その瞬間、マルファーは肩に置かれた手を払い除け、鋭い声で拒絶した。
「あっちに行って!」
拒絶された男は一瞬驚いたが、すぐにその態度に怒りを覚えたのか、荒々しくマルファーの腕を掴んだ。
「この糞女が! お前みたいな曰く付きの女に同情して声を掛けてやってるのに、ふざけやがって!」
マルファーは毅然とした態度を崩さず、その男を睨み返した。
その静かな圧力に男はたじろぎ、やがて周囲の視線が自分に集まっていることに気づく。
気まずさを紛らわせるように、男はマルファーの足元に唾を吐き捨てた。
「ちっ、好きにしろよ。どうせお前が必死に庇う旦那はもうすぐ死ぬんだ」
そう吐き捨てると、男は乱暴にその場を立ち去った。
マルファーは拳を握りしめたまま、一瞬だけ周囲の視線を遮るように目を閉じた。
怒りが体の中で燃え上がるのを感じたが、それを言葉にはしなかった。
「彼は無実なんです!」
再び声を張り上げたが、群衆は彼女に冷たい背中を向けて立ち去るだけだった。
マルファーは立ち尽くしたまま、力なく拳を握り締めていた。
誰も彼女を助けず、誰も耳を貸さない世界に、自分の声がただ虚しく消えていく。
膝の力が抜け、彼女はその場に崩れ落ちそうになるが、辛うじて踏みとどまる。
震える手で胸を押さえながら、愛する夫を救えない自分の弱さが、重く彼女の心を蝕んでいく。




