第18話 最終決戦
村人たちとの交流の中で、マルファーは少しずつ人としての心を取り戻していた。
穏やかな日々が続き、気がつけばあれほど離れなかった亡霊たちの囁き声もいつしか消えていた。
だが、その平穏は儚くもアルガイアに来てから四十五日後の朝、無残に打ち砕かれる。
村の入り口から足音が響いた。
重く、規則的な足音。どこか血の臭いが漂うようなそれに、村人たちが次々と顔を上げる。
その中心には鋭い視線を村全体に巡らせる男――アクレディウスが立っていた。
その背後には五人の部下が控え、冷たい眼差しを向けている。
「いいか、気を抜くなよ。奴はこの村に潜んでいる。そうだろ、リュコノス?」
「ええ、間違いありません。この村のあちこちから反逆者の残り香がします」
人狼化したリュコノスが鼻を利かせ、周囲の空気を丹念に嗅ぎ取っている。
一方、その頃。
マルファーは一緒に住まわせてくれているマレットの家の中で、ジュリアンを肩車しながら駆け回っていた。
ジュリアンはマルファーの差し出された手に掴まり、楽しそうに声を上げる。
窓辺ではマレットが編み物の手を休め、その微笑ましい光景に目を細めていた。
暖炉の前ではアルクトロスが薪をくべ、足元ではヴァルゴが気持ちよさそうに寝そべっている。
満ち足りた、穏やかな時間。もう二度と手に入らないと思っていたものが、ここにはあった。
だが、その温もりを突き破るように外から異変を感じた。
「グルルゥ……!」
寝そべっていたヴァルゴが弾かれたように起き上がり、玄関の方を向いて低く唸り声を上げた。全身の毛が逆立っている。
「どうした、ヴァルゴ」
アルクトロスが厳しい声で問うと同時に、マルファーの表情からも色が消える。
聞き慣れたエンテディアの言葉が外から微かに聞こえた気がしたのだ。
「……マルファー?」
肩の上からジュリアンが不思議そうに覗き込む。
「……大丈夫よ……大丈夫」
マルファーは囁くように答え、そっとジュリアンを床に下ろした。
アルクトロスと視線が合う。彼はすでに手元に弓を引き寄せていた。無言のまま頷き合い、警戒態勢に入る。
マルファーは音もなく玄関へと歩み寄り、静かに扉へ手をかける。
隙間から外を窺うと、刺すような陽光が広場を照らしていた。
その中心に、まるで影を落とすように佇む男——それは、アクレディウスだった。
一瞬、時が止まる。
そして、ふいに視線が合う。その瞬間、マルファーの背筋に冷たいものが走る。彼の目に宿るのは、純然たる殺意。
「……見つけたぞ、マルファー」
低く、冷徹な声が響く。
アクレディウスは矢を手に取り、矢じりにそっと指を触れた。
すると、その先端が淡い光を帯び、次第に渦巻くエネルギーが矢全体を覆った。
マルファーは反射的に身構える。だが、次の瞬間、心の奥にマレットとジュリアンの姿が浮かぶ。
マルファーは二人を守るため、自分が盾となるべく扉を開け、家の前に飛び出した。
しかし、アクレディウスは猶予を与えず、すぐさま矢を放つ。
「終わりだ」
矢は鋭い風切り音を立てながら、一直線にマルファーへ向かう。
マルファーは透明な防御障壁を展開させる。
それは球体状の全方位から身を守るものとは違い、正面のみを強固に、重点的に守る厚みを持たせた防御壁だ。
しかし――その防御壁に矢じりが触れた瞬間、凄まじい爆発が起こった。
その威力は凄まじく、防御障壁はいとも容易く粉微塵に砕け散り、マルファーは爆風によって後方へ吹き飛ばされてしまう。
扉ごと家の中まで吹き飛ばされたマルファーは、全身から血が出るほどの大怪我を負う。額には大きな裂傷があり、そこから血が流れ出ていく。
家の中は爆風によって散乱し、荒れ果てていた。
マルファーは上体を起こし、マレットとジュリアンたちの安否を確認する。二人は無事だったが破片で怪我をしたのか、複数箇所から出血している。
アルクトロスもヴァルゴを庇うようにして伏せていたが、背中に無数の木片が突き刺さっていた。
「マレット! ジュリアン! アルクトロス!」
マルファーは床に倒れて呆然としているジュリアンを素早く抱え上げる。マレットにも急かすように手招きをする。
アクレディウスは矢筒から新しい矢を取り出し、再び力を込め始めた。
「隊長! 無関係な人が中に居るかもしれませんよ!」
タラマキオンが慌てた様子で叫ぶ。
「黙れ」
しかし、その声はアクレディウスの冷たい瞳を動かすことはなかった。アクレディウスは矢をつがえ、静かに弓を構える。
マルファーたちはアルクトロスの先導で家の裏口から外へと逃れる。
それとほぼ同時に矢が放たれた。
――次の刹那、眩い閃光と凄まじい爆音。
爆発が家を中心に広がり、轟音と共に爆風が背中を叩きつける。
梁や柱、壁板や家具が四方八方へ弾け飛び、無数の木片や瓦礫が怒涛のように空中を駆け抜けていった。
マルファーは地面に倒れ込みながら、ただ呆然とその光景を見つめる。
ようやく手にした唯一の『帰るべき場所』――その家が、跡形もなく消え去ってしまった。
その光景を見ていた村人たちは恐怖に震えた。
だが、一人の勇敢な村人がアクレディウスに掴みかかり、声を張り上げた。
「やめろ! なんてことするんだ!」
その聞き慣れない言葉の叫びはアクレディウスの耳に届くことなく、冷たく無視された。
彼は冷ややかな目で村人を突き飛ばす。村人は地面に転がった。
足元に転がっている小石を無造作に拾い上げるアクレディウス。
小石を指先でなぞると、そこに不気味な光が宿る。
アクレディウスは無感情な声で呟く。
「邪魔をするな」
次の瞬間、小石はアクレディウスの指先から弾かれ、地面を転がった。
その小さな石ころは無機質な音を立てながら村人の足元で止まる。その刹那、眩い閃光が辺りを染め上げた。
爆発音と共に、衝撃波が周囲を揺るがす。
爆風に巻き込まれた村人の手足や血飛沫が無残にも広場に飛び散った。生々しい肉片が地面を赤く染める。
近くにいた村人たちはその光景に悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。
タラマキオンは思わず目を伏せる。その巨体がわずかに震え、彼の心中を物語っていた。
一方で、他の部下たちは冷静だった。冷静というよりも、それは『慣れ』と呼ぶべきものであった。
アクレディウスは村人たちの怯えに目もくれない。標的はただ一人だけ。
「さあ、終わりにするぞ」
その声には冷酷な殺意が滲んでいる。
マルファーたちは裏口から逃れたが、爆風に巻き込まれて負傷していた。だが、幸いにもマレットとジュリアンに大きな怪我はなかった。
マルファーは抱き抱えていたジュリアンをマレットの腕の中へと譲り渡す。
マレットは命の恩人であるマルファーの顔を覗き込んだ。
すると額にできた大きな裂傷が治っていくのが目に入る。マレットは啞然とした表情でそれを見つめていた。
マルファーはそれに気づき、額に手を当てて隠そうとする。
「……ごめんなさい。巻き込んでしまって……」
マルファーは目の前に広がるマレットたちが暮らす家の惨状を見つめ、拳を強く握り締めた。
怒りが全身を駆け巡り、血が煮えたぎるようだった。瞳の奥には激しい炎が宿り、震える唇が静かに動いた。
「あなたたちは絶対に死なせないから。私が守ってみせる……」
そう言い放つとマルファーは立ち上がり、すぐに駆け出そうとした。
「待て、マルファー! 俺も戦う!」
アルクトロスが弓を手に立ち上がる。その顔は煤と血で汚れているが、目は死んでいない。
だが、マルファーは首を横に振った。
「ダメよ。あなたには彼らを守ってほしいの……」
マルファーはマレットとジュリアン、そしてヴァルゴを見る。
「あいつらは化け物よ。私にしか相手はできない。……お願い、アルクトロス。私の大切な人たちを、守って」
アルクトロスは一瞬言葉を詰まらせたが、彼女の瞳にある決死の覚悟を見て取り、唇を噛み締めて頷いた。
「……分かった。必ず守り抜く。だから……死ぬんじゃねぇぞ」
マルファーは微笑むと、すぐに駆け出した。
その背中を震えながら見送ることしかできないマレット。その瞳には恐怖だけではなく、マルファーに対する慈しみの感情が宿っていた。
アクレディウスたちがマレットの家の瓦礫横を通り抜けようとする直前――マルファーはその瓦礫の反対側から現れた。
「この村の人たちは関係ない! あなたたちの狙いは、この私でしょう! 彼らを傷つけるのはやめて!」
その叫びは、絶望の中に燃え上がる希望の灯火だった。
しかし、アクレディウスの目は冷たく光るだけで、その言葉を受け止める様子は微塵もなかった。
「なら、おとなしく死ね」
アクレディウスはすでにつがえていた弓をマルファーに向ける。その矢じりは眩く光っている。
次の瞬間、矢は鋭い風切り音を立て、マルファーに向かって放たれた。
マルファーはその場から疾風のように駆け出した。矢は彼女のすぐ脇を掠め、背後にある木造の家を直撃する。
轟音と共に家屋が爆発し、瓦礫が宙を舞う。煙が立ち上り、村の空気はより重苦しいものとなった。
(……これ以上、彼らを巻き込むわけにはいかない)
マルファーは振り返ることなく森の中へと駆け込む。
その背中には、守りたいという強い意志と悲壮な覚悟が刻まれていた。
アクレディウスはそんな彼女の姿を目で追いながら、冷たく言い放った。
「逃がすな。追え」
森の中、マルファーは必死に足を動かしていた。
陽光が頭上の木々の間から差し込み、揺れる影を地面に落としている。
その中を駆け抜ける彼女の耳には、背後から迫る獣じみた唸り声がはっきりと聞こえていた。そして、重い四足歩行の足音。人ではないことが明白だった。
振り返ることなく走り続けるマルファーの背後では、草木が薙ぎ倒される音が近づいてくる。彼女の動きに合わせるように速さを増していく。
「人狼……」
その正体に確信を持つと同時に、全身が戦闘態勢へと切り替わる。
次の瞬間、マルファーは足を止める。その直後に、茂みを割るようにして現れたのは人狼化したリュコノスの姿だった。
鋭い爪と牙が陽光を浴びて鈍く光り、その全身からは明らかに人間離れした威圧感が漂っている。
リュコノスは地面を掻き、低い唸り声を上げながら四足で体勢を整えた。その赤い瞳がマルファーを鋭く捉える。
彼の動きには人間らしさはなく、純粋な捕食者としての本能が現れていた。
「逃げるのはここまでよ」
マルファーは静かに言うと、片手を上げた。
その指先には淡い光が集まり始め、次第にそれが輝きを増していく。彼女はその指先をリュコノスに向け、光弾を放った。
放たれた光弾は一直線に飛び、空気を裂くような音を立てながらリュコノスへと向かう。
しかし――リュコノスは体をひねり、その攻撃を軽々とかわした。大きな体躯にもかかわらず、その動きには無駄がない。
彼は再び地面を蹴り、わずか数歩でマルファーとの距離を縮めた。
リュコノスが飛び掛かってくる直前、マルファーは素早く手をかざし、強度重視の透明な障壁を展開した。
突進の勢いそのままに、リュコノスは障壁に激しく激突。
鈍い音が響き、彼の巨大な身体が跳ね返されて浮き上がる。
その隙を逃さず、マルファーは地面に手を置いた。
次の瞬間、リュコノスの両側面から地面が突き上がり、槍のような鋭利な突起が彼を串刺しにしようと迫る。
リュコノスは咄嗟に障壁を蹴り、後方へ跳ねることでそれを回避した。
しかし、マルファーはそれすら予測していた。彼が飛び退いた先の地面をも隆起させ、土柱を生み出す。
飛び跳ねたことが仇となり、リュコノスは空中で体勢を変えられなかった。
「ぐはッ……!」
突き上げた土柱に弾かれる形で、彼の身体は宙を舞い、木々の頂上を超えるほどの高さまで吹き飛ばされた。
彼が地面に叩きつけられようとするその瞬間、突然その落下が止まった。
よく見ると、彼の身体の周囲には細い銀糸が張り巡らされている。
「間に合った……」
銀糸を張ったのはテネオスだった。
彼の糸は鋭利な刃としても、粘着性を持つ補助具としても自在に操ることができる。リュコノスはその糸によって支えられ、致命的なダメージを免れた。
「テネオス……助かった」
リュコノスは大きく息を吐きながらも、まだ戦闘の意志を失っていない様子。
「リュコノス! 大丈夫?」
タラマキオンが駆け寄り、心配そうに声を掛ける。その背後にはエクシオスやヘフストスも集まってきた。
これで五人対一人。精鋭部隊相手にマルファーは死闘を覚悟した。




