第17話 忘れかけていた心
マレットとジュリアンの家に身を寄せてから、一週間が過ぎた。
マルファーは日中、村の中を注意深く散策し、人々の暮らしぶりを観察していた。
質素だが懸命に生きる村人たち。
畑を耕し、家畜の世話をし、壊れた道具を修理する。そのどれもが、エンテディアで見てきた光景とは異なっていた。
彼らの額には汗が光り、筋肉は逞しいが、そこにはエンテディアの民が持つような、超常的な能力の気配は一切感じられなかった。
自分の力がこの世界ではあまりに異質であることを、マルファーは改めて痛感していた。
下手に力を知られれば、好奇の目に晒されるだけでは済まないだろう。
最悪の場合、この束の間の安らぎの場所からも追い出されてしまうかもしれない。
マルファーは胸中で固く戒め、目立たぬように過ごそうと心に決めていた。
一方で、アルクトロスは違った。
「おう、ばあさん。重そうだな、持ってやるよ」
彼は持ち前の怪力と気さくな性格で、すでに村人たちに溶け込み始めていた。
水汲みを手伝い、壊れた柵を直し、時にはヴァルゴと共に森へ入って獲物を仕留めてくる。
彼が狩ってきた猪や鹿の肉は、貴重なタンパク源として村人たちに大いに喜ばれ、今では『頼れる猟師の旦那』として親しまれつつあった。
そんなアルクトロスの姿を遠くから見つめながら、マルファーは少しだけ安堵し、同時に少しだけ寂しさを感じていた。
ある日の昼下がり、マルファーが村の共有地である開墾予定地を通りかかると、男たちが数人がかりで巨大な切り株の除去作業に取り組んでいた。
それは古木の根が深く張った厄介な代物で、どれだけ力を込めてもびくともしない。
男たちは汗だくになりながら、何やら悪態をついている。
やがて陽が傾き始めると、諦めたように道具を置き、家路についていった。
マルファーはその様子を静かに見ていた。
あの切り株がなくなれば、彼らの仕事は随分楽になるはずだ。
マレットとジュリアンへの恩返し――そして、この村へのささやかな貢献。
何か役に立ちたいという気持ちが、力を隠すべきだという理性とせめぎ合う。
マルファーはその切り株の前に立つ。
周囲に人影がないことを確かめると、彼女は静かに地面に手をついた。
力を最小限に抑えることを意識し、切り株の真下の地面を操作する。
低い地響きが起こり、土が盛り上がる。
巨大な切り株がゆっくりと持ち上がると、完全に掘り起こされた。
「マルファー!」
その時、背後から聞き覚えのある子供の声がした。
マルファーは咄嗟に振り返る。
そこには、夕飯ができたと呼びに来たのであろうジュリアンが目を真ん丸にして立っていて、その顔は輝いていた。
足元にはヴァルゴもいて、尻尾を振っている。
彼は駆け寄ってきて、興奮した様子でマルファーの周りを飛び跳ねる。
マルファーは血の気が引くのを感じた。
見られた。この子に、自分の力を見られてしまった。
思わず顔を手で覆う。やってしまった、という後悔と焦りが胸を締め付けた。
ジュリアンはマルファーの袖をぐいぐいと引っ張り、どこかへ連れて行こうとする。
「ちょっと、どこへ行くつもりなの!?」
ジュリアンはお構いなしに、村はずれの切り立った崖の前までマルファーを連れてきた。
そして、崖の中腹あたりを指す。
マルファーはおおよその意味を読み取った。
彼が指差す崖の中腹には、容易には近づけないような場所に、いくつかの植物がへばりつくように生えている。
「……あそこにある植物を採ってほしいの?」
ジュリアンはマルファーの顔をじっと見上げ、期待に満ちた目で何度も頷く。
『マルファーならできるでしょ?』と言わんばかりの眼差しだ。
マルファーはジュリアンに崖の下で待つように手で合図すると、崖の岩肌へと向き直る。
彼女は深く息を吸い込むと、意識を集中させた。
次の瞬間、マルファーの足元、数センチほど宙に浮いた位置に、淡く光る透明な障壁の板が出現した。
それは人が一人乗れるくらいの大きさで、以前、戦闘中に足場として利用したものと同じだった。
ジュリアンは何が起こるのかと目を輝かせてマルファーを見つめている。
ヴァルゴも不思議そうに首を傾げている。
マルファーはその透明な板の上に静かに乗った。
「……!」
ジュリアンは息を呑み、手を口に当てて、興奮を抑えきれないといった様子だ。
マルファーは足元の障壁を意識で操作する。
すると、透明な板はゆっくりと、確実に上昇を始めた。
崖の中腹、ジュリアンが指差した薬草の生えている場所へと近づいていく。
マルファーは揺らぐことのない透明な足場の上で、危なげなく薬草へと手を伸ばした。
目的の薬草は、岩のわずかな窪みにしっかりと根を張っている。
マルファーはそれを傷つけないよう、手際よく数本選んで根元から丁寧に折り取る。
作業を終えるとマルファーは再び足元の障壁を操作し、ゆっくりと地上へと下降してきた。
その動きは終始滑らかで、まるで羽毛が舞い降りるかのようだった。
地上に降り立ったマルファーに、ジュリアンは言葉にならない感嘆の声を上げながら駆け寄ってくる。
そして、マルファーが差し出した薬草を見て、満面の笑みを浮かべた。
彼は薬草を大事そうに受け取ると、マルファーに愛情たっぷりに抱きつく。
それから彼女の手を掴んで、早く母親に見せようとでも言うように、村の家へと続く道を引っ張っていった。
マルファーもその小さな手に引かれるまま、黙って歩き出す。
ジュリアンの弾むような足取りと嬉しそうな横顔を見ていると、彼女の胸にも、これまで感じたことのない温かいものが、じんわりと広がっていくのを感じた。
家に戻ると、アルクトロスが暖炉の前で薪をくべていた。
「お、帰ったか。マレットさんがもうすぐ飯だってよ」
ジュリアンはアルクトロスの言葉も耳に入らない様子で、興奮したまま採ってきたばかりの瑞々しい薬草をマレットに差し出す。
マレットは驚き、目を見開いた。
その薬草は、マレットの持病の咳を抑えるためには必要不可欠な薬草だ。
しかし、崖の上にしか生えてないため、体力のある村の若者に頼んで採ってきてもらうしかない。
当然、崖登りは危険が伴う。謝礼も安くはなく、家計にとってはいつも大きな負担になっていた。
マレットは、思わず薬草を両手で包み込む。
ジュリアンは身振り手振りを交え、一生懸命に説明する。
マレットの視線が、困ったような表情をするマルファーへと向けられる。
マレットはあんぐりと口を開け、次の瞬間、持っていた薬草をはらりと床に落としてしまう。
その顔には驚愕と、そしてマルファーにも読み取れない複雑な色が浮かんでいた。
事情を察したアルクトロスが、気まずそうに頭を掻く。
「おいおい、坊主……全部喋っちまったのか?」
マルファーはマレットのその反応を見て、心の中で『ああ、やはりジュリアンは話してしまったのだ』と悟り、静かに頭を抱えた。
——翌日。マレットの反応が気になり、マルファーは不安な一夜を過ごした。
しかし翌朝、マレットはいつもと変わらない、穏やかな笑顔でマルファーに接してくれた。
薬草の件には一切触れず、ただ静かに朝食を共にする。
その態度にマルファーは少し救われた気がしたが、同時にこのままここに居続けて良いものかという迷いが深まっていた。
その日の午後、マルファーが村の様子を伺いながら歩いていると、畑で村人たちが十数人集まって何やら騒いでいた。
近づいてみると、そこには開墾作業を阻む巨大な岩が鎮座しており、男たちが丸太や縄を使って懸命に動かそうと試みている。
しかし、岩はびくともせず、村人たちの顔には疲労と諦めの色が濃くなっていた。
その中には、手伝いに駆り出されたアルクトロスの姿もあった。自慢の怪力で綱を引いているが、さすがに岩が大きすぎる。
「ぐぬぬ……こいつぁ手強いな……」
アルクトロスが汗を拭いながら嘆く。
(また困っている……どうしよう)
遠巻きにその光景を見つめて逡巡していると、マレットがやって来て隣に立った。
彼女はマルファーの葛藤を見透かしたかのように何も言わず、ただじっとマルファーの目を見つめ返した。
その瞳はどこまでも優しく、そして深く、まるで『あなたのしたいようにすればいい』と語りかけてくるような、不思議な安心感をマルファーに与える。
マルファーは、その温かい眼差しに、そっと背中を押されたような気がした。
すると今度は、マレットの足元からひょこっとジュリアンが顔を出し、マルファーの手を小さな両手でぎゅっと握ってきた。
見上げてくるその顔には羨望の眼差しと、無垢な信頼が溢れている。
マレットの静かな肯定。ジュリアンの純粋な信頼。言葉はない。
けれど、二人からの力強い後押しを、マルファーは確かに感じ取った。
(……この人たちは、私を信じてくれているのかもしれない)
迷いは消え、マルファーの瞳に強い光が宿った。
彼女は意を決して、村人たちが苦闘する岩へと一歩を踏み出した。
突然現れたマルファーに作業をしていた村人たちは訝しげな視線を向ける。
マルファーはそれらに答えることなく、巨大な岩の前に静かに立った。
「マルファー……? おい、何をする気だ?」
アルクトロスが驚いて声をかける。
マルファーは深く息を吸い込むと、おもむろに地面に片手をつき、力を込めた。
昨日、切り株を動かした時よりもさらに大きな地響きがその場にいた全員の足元を揺るがした。
村人たちが何事かと目を見開く。
マルファーが手をついた先の地面が激しく隆起し、それはやがて土の柱となって畑の岩盤を根元から押し上げていく。
村人たちは目の前で起こる超常的な光景に、ただ固唾を飲んで見守るしかなかった。
岩が完全に持ち上がり、マルファーはそれを抱え込むと用意されていた荷車に載せた。
そして、唖然と立ち尽くす村人たちへと向き直った。
今度こそ、彼らの真の反応が示される。
マルファーは不安そうに視線をわずかに落とし、その時を待った。
一瞬の静寂の後――誰からともなく歓声が上がり、それはすぐに嵐のようなどよめきと熱狂へと変わった。
この地には『外から来た奇跡の人』という伝承がある。
その者は異空を操り、大洪水のあった時に異空への門を開いて、この地の人々を大勢救ったと言われている。
村人たちの心には、そんな古い記憶がぼんやりと刻まれていたのかもしれない。
村人たちは恐怖よりも歓喜と称賛の声を上げ、マルファーを取り囲み、口々に感謝の言葉を述べた。
「すげぇな……あんた、本当に女神様みたいに祀り上げられちまいそうだぞ」
アルクトロスが呆れたように、しかし誇らしげに笑う。
言葉は理解できなかったが、村人たちのその熱狂ぶりにマルファーは驚きながらも、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
この日を境に、マルファーは力を隠すのをやめた。
村人たちは彼女の力を頼り、彼女もまたその期待に応えることに喜びを見出し始めていた。
森での伐採作業では斧を振るう男たちを尻目に、マルファーは影から漆黒の大剣を練り上げ、一振りで大木を切り倒した。
その神業のような光景に村人たちは度肝を抜かれながらも、彼女への尊敬の念を深めた。
切り出した材木を運ぶ際も、アルクトロスや男たちが何人もかかってようやく動かすような重い材木をマルファーは眉一つ動かさず、一人で五本もまとめて引きずって村まで運んだ。
その怪力ぶりはもはや人間業とは思えず、村人たちはただただ感謝の声を上げるしかなかった。
そんなある日、村の近くの森で子供たちが木の実を拾っているところに巨大な熊が現れた。
鋭い爪を振り上げ、まさに一人の子供に襲いかかろうとした、その瞬間——
マルファーの指先から放たれた光弾が、音もなく熊の眉間を撃ち抜いた。
巨獣は声もなく崩れ落ち、子供は無傷で助け出された。
村人たちは彼女の持つ力の恐ろしさの一端も垣間見たかもしれない。
だがそれ以上に、自分たちを守ってくれる存在としてのマルファーへの信頼と感謝は揺るぎないものへと変わっていった。
熊を退けた後は村人たちとの距離も一気に縮まり、日々の暮らしの中でマレットや村人たちから少しずつ言葉や風習を教わった。
空に浮かぶ月や太陽、星々の名前、この地の名は『マーズデン』、この世界は『アルガイア』——
いつしか、その言葉も自然と馴染んでいった。
気づけば自分もこの土地の一員として、村人たちと同じ日々を送るようになっていた。
エンテディアでは憎しみと破壊のためにしか使えなかった力が、今は誰かを守り、救うために役立っている。
そんな実感が、マルファーの胸に静かに染み渡っていく。
長い間、凍りついていた心の奥に微かな温もりが灯るのを感じた。
気づけばあれほど離れなかった亡霊たちの囁きも、遠い過去の幻のように静まっている。




