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ダークストーン ~【心臓喰らいの復讐譚】神殺しの魔女と不死の傭兵~  作者: 花見川さつき
第一章 マルファー編

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第15話 アルガイアの洗礼

 一方、エンテディアでは、アクレディウスを先頭にマルファーを追って洞窟内を進んでいた。

 火炎の使い手であるヘフストスが手のひらの上で揺れる火球を明かり代わりに掲げている。


 やがて、一行はマルファーが通過した霧の門にたどり着いた。

 アクレディウスは立ち止まり、慎重にその異様な光景を観察しながら呟く。


「これは……霧か?」


「マルファーの能力なのでは? 見たところ、異空間への転移門かもしれませんね」


 太っちょのタラマキオンは顎を軽くさすりながら言った。

 それを聞いてアクレディウスの表情が険しくなる。


「異空間への転移門……奴はそんな能力まで手にしていたのか」


「それは分かりませんが……どうやらこの洞窟はここで行き止まりのようですし、マルファーはここから別の空間へ逃れた可能性が高いです」


 次の瞬間、アクレディウスは迷いなく霧の中へ腕を突っ込んだ。


「ちょっと! いきなり何してるんですか!? もっと慎重にやりましょうよ!」


 タラマキオンが慌てふためいて声を上げる。だが、アクレディウスは一瞥もしない。


「悠長にしていては取り逃がすだけだ。進むぞ」


 彼は言い放つと、そのまま霧の中に姿を消した。

 残された部下たちは、その場で顔を見合わせる。


「隊長、いきなり行っちまったぞ……本当に大丈夫なのか?」


 ヘフストスが不安げに呟いた。


「知るかよ。こんな得体の知れないもんに飛び込むのは初めてだからな」


 エクシオスが頭を掻きながら言う。彼の視線は霧に向けられていたが、その足は一歩も動かない。


「……命令だ。やるしかないだろう」


 テネオスが低く呟いたものの、足取りには明らかに迷いがあった。


 その中で、リュコノスただ一人だけが前へと進み出た。


「おい……リュコノス。お前も行くつもりか?」


 ヘフストスが問いかける。


「ああ、あの人が進めと言うなら、それを信じて進むだけだ」


 獣じみた低い声を響かせ、リュコノスは一瞬も躊躇せずに霧の中へと消えていった。

 その背中を見送りながら、残った仲間たちは再び顔を見合わせる。


「……どうする?」


 タラマキオンがぼそりと呟く。ヘフストスは肩をすくめ、ため息をついた。


「はぁ……俺たちも行くしかないだろうよ。ここで立ち止まったら、それこそ隊長に後で殺されちまう」


 そうして、一人、また一人と霧の中へと消えていった。


 異界の門を通り抜けた瞬間、アクレディウスは何の予兆もなく空中に放り出された。

 次に訪れたのは、ただ冷たい風が体をかすめる感覚と、急速に迫る水面だった。


「……何だ、ここはッ!?」


 叫び声と共に、彼は勢いよく池へと落下した。

 水しぶきが激しく上がり、冷たい感触が全身を包む。

 彼はもがきながら水中から顔を出し、荒い息をついて周囲を見回した。


 目に飛び込んできたのは、木々に囲まれた静かな池と、その上に広がる青空だけだった。

 見慣れぬその景色を見て、ここがエンテディアではないことだけはすぐに理解した。


「ここは……どこだ……」


 声が自然と漏れる。その直後、頭上から唸り声が聞こえた。

 リュコノスの巨大な体が水面を突き破り、池に飛び込む音が響く。


「リュコノス!」


 アクレディウスは水を掻き分けながら近づき、沈みかけているリュコノスの腕を掴んで力強く引き上げた。

 リュコノスは水を吐きながら苦しそうに息を整えた。


「……隊長、ここはどこなんです?」


 リュコノスの声には動揺が混じっていた。

 アクレディウスも答える言葉を持たず、眉をひそめたまま池の岸を目指して泳ぎ始める。


 二人がようやく陸地にたどり着いた頃、再び頭上から音がした。

 他の部下たちが次々と何もない空間から現れ、池に落下してきた。


 タラマキオンが豪快に水しぶきを上げ、続いてヘフストスやエクシオスも次々と池へと飛び込んでいく。


「こっちだ! 岸まで来い!」


 アクレディウスが岸辺から声を張り上げる。

 部下たちはその声に反応し、ばしゃばしゃと水をかき分けて岸へと泳いできた。


「全員無事か?」


 アクレディウスは短くそう問いかける。

 その表情には警戒と困惑が入り混じっていた。彼の視線は遠くを捉え、次の行動を模索しているようだった。


「隊長、問題があります!」


 タラマキオンが指さす先には、霧の門は見当たらなかった。


「門が消えてますよ! これじゃあ、どうやって帰ればいいんですか?」


 彼の言葉に、アクレディウスは鋭い目を向ける。


「いや、最初から門など無かった。お前達は何もない空間から忽然と現れ、落ちてきた」


 彼のその発言に、一同が困惑する。


「え……何もないところから……?」


 タラマキオンは力なく呟いた。

 エンテディア側にあったような霧の門が、こちら側にも当然あると考えていた一同は唖然としていた。


「じゃあ……どうやって帰るんですか?」


 ヘフストスがアクレディウスに問いかけた。

 アクレディウスは一瞬だけ言葉に詰まったが、次の瞬間には冷たい声で命じた。


「我々の最優先事項はマルファーを仕留めることだ。それ以外のことは後回しでいい」


 彼の声には揺るぎない決意が込められていたが、その心の奥底には一筋の不安が張り付いていた。


 自分たちは本当にエンテディアへ帰れるのか――そして、帰りを待つ妻子の顔が脳裏に浮かび、その思いを振り払うように彼は一歩を踏み出した。


 ヘフストスは不満げな表情を浮かべたが、アクレディウスの態度に口を閉ざし、渋々ながら従う。

 タラマキオンやリュコノスもそれに続き、一行は池を後にした。


 こうして新たな戦場となる異界の地で、追跡の幕が再び上がろうとしていた。


---


 マルファーたちは何日も森の中を彷徨い続けていた。


 エンテディアのような神秘的な森ではなく、無秩序に伸びた木々が視界を遮り、暗く鬱蒼とした雰囲気が漂う森だった。

 湿った地面を踏みしめながら、先頭を行くのは猟師のアルクトロスだ。

 彼は時折立ち止まり、植物や獣の痕跡を確認するが、そのたびに首を横に振る。


「ダメだ……見たことのねぇ草ばかりだ。食えるかどうかも分からねぇ。ちくしょう……弓さえありゃ狩りができるってのに」


 アルクトロスが疲労を滲ませた声で呟く。彼の胃袋はとっくに限界を迎えていた。

 隣を歩くヴァルゴも、空腹で腹が凹んでいるが、気丈に主人の後をついて歩いている。


 一方で、マルファーの肉体は疲労を知らなかった。

 不老不死の力が、彼女の肉体を常に万全の状態へと修復し続けているからだ。


 だが、それは肉体だけの話だ。

 ヘリオドスを殺害して以来、彼女はまともな食事を一切口にしていなかった。


 戦い、逃げ惑い、憎しみに身を焦がす日々。

 空腹を感じないわけではないが、それを満たす気力が湧かないのだ。心が摩耗しきっていた。


「……どこまで行っても森ね。この世界には人が住んでないのかしら」


 マルファーが自嘲するように呟く。


「はは……こんな広い世界に三人ぼっち、か。笑えねぇな」


 アルクトロスも乾いた笑いを返す。

 その時だった。少し開けた場所に出ると、風に乗って微かな匂いが漂ってきた。


「……匂うな」


 アルクトロスが鼻をひくつかせ、ヴァルゴも反応して鼻を空へ向ける。


「煙の匂いだ。それも、焚き火じゃねぇ。かまどの匂いだ」


 二人は顔を見合わせ、匂いのする方角へと慎重に進んだ。


 木々の隙間から見えたのは、人工的な建造物だった。煙突から煙が立ち昇る、小さな村だ。


 その瞬間、マルファーの胸に安堵と警戒が同時に湧き起こった。

 助けを求められるかもしれない、という一縷の望み。

 しかし同時に、見知らぬ世界の住人との接触に対する不安が頭をもたげる。


「どうする? 言葉が通じるかも分からねぇぞ」


 アルクトロスが木陰に身を隠しながら問う。


 家々は素朴な木造で、村の広場では数人の住人が家畜の世話をしたり、作業に勤しんでいる様子が見えた。

 争いの兆候も、特に危険な雰囲気も感じられない。


「……行ってみましょう。このまま森を彷徨っていてもジリ貧よ」


 マルファーは深く息を吐き出し、意を決した。


「ああ、そうだな。ヴァルゴも腹ペコだ。何か食い物にありつけるかもしれねぇ」


 三人は警戒しつつ、村へ向かい歩き出した。


 道が開けると、村の全容が徐々に見えてきた。

 家々の窓からは穏やかな明かりが漏れ、夕暮れの空に生活の温かみが溶け込んでいる。

 異界の住人にいきなり接触して良いものか。不安を振り払おうとするように、静かに息を吐いた。


 その時だった。


「……!」


 ヴァルゴが小さく反応し、尻尾を振った。

 マルファーたちが視線を向けると、木の陰から小さな少年が顔を覗かせていた。

 大きな瞳を輝かせ、物珍しそうにこちらを見つめている。

 少年の視線は、マルファーたちではなく、足元のヴァルゴに釘付けだった。


「ワンワン!」


 少年は無邪気に声を上げ、駆け寄ってきた。


「おい、坊主。危ないぞ」


 アルクトロスが慌てて制止しようとするが、少年はお構いなしにヴァルゴの前にしゃがみ込んだ。


 ヴァルゴは唸ることもなく、少年の匂いを嗅ぎ、ペロリと頬を舐める。

 少年は嬉しそうに笑い声を上げた。


「……どうやら、敵意はないみたいね」


 マルファーが少しだけ身をかがめ、少年に向かって問いかけた。


「あなた、この村の子? 言葉は通じるかしら?」


 しかし、少年はきょとんとした顔で首を傾げるだけだ。やはり言葉は通じないらしい。


 少年は立ち上がると、ヴァルゴの首元を撫で、それからマルファーの手をそっと握ってきた。

 その小さな手の温もりに、彼女は少し驚いた。


 少年はニコッと笑い、握った手を小さく揺らしてみせる。

 そして、そのまま彼女の手を引き、自分の家の方へと誘った。


「ついて来いってことか?」


 アルクトロスが苦笑する。マルファーも頷き、少年に引かれるまま歩き出した。


 案内されたのは、質素な木造の家だった。

 家の中では、母親らしき女性が忙しそうに夕食の準備をしていた。

 香ばしいスープの香りが部屋に充満している。


 マルファーたちが遠慮がちに家の中へ入ると、女性は驚いたように目を丸くした。

 見知らぬ女と、熊のような大男、そして大きな犬。

 警戒されてもおかしくない組み合わせだが、彼女の視線は息子の繋いだ手と、彼らの疲れ切った表情に向けられた。


 少年が身振り手振りで何かを説明すると、母親は優しく微笑み、息子の頭を撫でた。


 次いで、マルファーとアルクトロスに椅子を勧め、無言のまま食卓へ座るよう促してきた。

 ヴァルゴには床に器を置き、残りのスープを分けてくれた。


 母親は手際よく食器を並べ、温かな料理をよそってくれた。

 席に着くと、母親は自分の胸にそっと手を当て、名乗る。


「マレット」


 次に息子を指さし、名前を口にする。


「ジュリアン」


 マルファーは頷き、同じように胸に手を当てて、小さな声で答えた。


「マルファー……」


 続いてアルクトロスも、不器用そうに胸を叩く。


「俺はアルクトロスだ。こいつはヴァルゴ」


 マレットは、言葉が通じぬもどかしさも感じさせず、柔らかな目つきで料理を食べるよう二人に促した。


「いただこうぜ、マルファー。ありがてぇ」


 アルクトロスは待ちきれない様子でスプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。

 「うめぇ……!」と感嘆の声を漏らし、夢中で食べ始めた。


 マルファーも勧められるままスプーンを手に取り、一口運ぶ。

 ふわりと広がる素朴な香りと、身体に染み入るような優しい味わい。


 これまで味わったことのない異郷の風味は、遠い昔に失くしたはずの温もりを思い出させた。


 ペルモスと共に囲んだ食卓。

 『マルファー、君の料理は最高だね』と笑ってくれた夫の顔。


 あの日々には、もう二度と戻れない。


 次の瞬間、マルファーは顔を伏せた。

 熱いものが込み上げ、ぽろぽろと雫になって頬を伝い落ちる。


「お、おい、マルファー? どうした?」


 隣で食べていたアルクトロスが驚いて手を止める。

 マレットも心配そうにマルファーを見つめ、すぐに静かに立ち上がると、その隣に寄り添った。


 そして、戸惑うような、けれど優しい手つきで、マルファーの背中をゆっくりとさすってくれる。


 マルファーの喉から、くぐもった声が漏れた。

 それはすぐに堪えきれない大きな泣き声に変わり、彼女は声を上げて泣きじゃくった。


 傍らで見ていたジュリアンも、心配そうにマルファーのそばへ歩み寄り、小さな手で母親の仕草を真似て、一生懸命に彼女の背中をさする。

 足元ではヴァルゴが、慰めるようにマルファーの足に鼻を押し付けていた。


 アルクトロスは何も言わず、ただ痛ましそうに眉を下げ、彼女が泣き止むのを静かに見守っていた。

 彼もまた知っているのだ。彼女がこれまでどれだけのものを背負い、どれだけのものを失ってきたのかを。


 長い間、憎しみと孤独だけを胸に抱いてきたマルファー。

 予期せぬ人の優しさ、その温もりに触れ、心の奥底に押し殺していた様々な想いが、まるでせきを切ったように溢れ出した。

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