第14話 未知の世界、アルガイアへ
――風切り音と共に、ドラゴンはいくつかの山を越えて山小屋からある程度離れた山頂に降り立った。
アルクトロスとヴァルゴを地面にそっと下ろすと、その巨体は縮み、やがて裸のマルファーへと戻った。
呆然としていたアルクトロスは慌てて自分の上着を脱ぎ、彼女に投げ渡した。
「……なんてこった。噂は本当だったのか。あんた、とんでもねぇ力を持ってやがる」
「ありがとう……」
マルファーは上着を羽織り、身を縮こまらせた。変身の反動で体が重い。
「いや、礼を言うのはこっちの方だ。助けてくれてありがとな。だが……もうここには居られねぇ」
アルクトロスは飛んで来た方向に視線を向け、苦笑した。
「ごめんなさい……私のせいで」
「謝るな。俺は自分の意志であんたを匿ったんだ」
マルファーは感謝と申し訳なさが混ざった複雑な表情をする。
「ねぇ、あなたも一緒に来ない? 私を庇ったせいで反逆者の仲間扱いされてしまったでしょ。新たな世界でやり直すの。私と一緒に」
「転移の門か……正直、あの門の向こう側が安全かどうか分からんし、出来れば行きたくないんだが。ここに残れば斬首される未来しかねぇ……行くしかねぇか」
「つまり……一緒に転移門の向こう側へ行ってくれるの?」
「ああ、ついて行ってやる」
「ありがとう……あなたがいてくれると心強いわ……」
マルファーは泣き出しそうな顔で必死に笑おうとする。するとヴァルゴが小さく吠える。
「ごめんなさい。あなたも頼りにしてるわ」
マルファーは屈み込むと、ヴァルゴの頭を優しく撫でる。
アルクトロスは山の下にある霧のかかった谷の方を指さした。
「あの谷底に洞窟がある。例の『門』がある場所だ」
「そこへ行けば……」
「ああ。行こう。……さあ、急ぐぞ。あいつらはすぐに追ってくる」
二人は山道を下り始めた。
だが、マルファーは知っていた。ドラゴンの変身は数日間使えない。そしてアクレディウスの実力は底知れない。
もし追いつかれれば、今度こそ逃げ場はない。
隣を歩くアルクトロスの横顔を見ながら、彼女は密かに新たなる決意を固めていた。
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風が強く吹き抜け、森の木々がざわめく。
視界に広がるのは、どこまでも続く樹木とその間を流れる霧。
森の中は薄暗く、この季節としては空気がひんやりしていた。まるで何者かが潜んでいるような気配すら漂っている。
山道を下りきり、谷底の深い森を進む二人と一匹。
ふと、彼女の足元に何かが引っかかった。
視線を落とすと、それは腐敗した鉄鍋だった。長い年月、野ざらしだったせいか、半分以上が地中に埋もれている。
昔、誰かがここで調理でもしていたのだろうか。そんな痕跡に、ほんの一瞬だけ人の営みを感じた。
顔を上げると、目の前には口を大きく開けた洞窟の入口が現れた。
その洞窟は不気味な静けさを湛え、ただ見るだけで背筋に寒気が走るようだった。
「ここなの……?」
マルファーは洞窟の前で立ち尽くした。
ペルモスとの思い出の中にあった言葉が胸の奥で繰り返される。
『時空を操る能力者が異界への門を作ったって言い伝えがある』
『もし見つけたら……僕たちで冒険してみてもいいかもね』
目の前の洞窟は、ペルモスが少年のように無邪気に語っていたその伝説を体現しているかのようだった。
しかし、それが本当に逃れられない運命から彼女を解き放つ場所なのか、疑う余地もあった。
「ペルモス……あなたは姿を見せてくれないけど、そこに居るのよね? あなたが言っていた異界の門はすぐそこよ。一緒に異界への冒険へ旅立ちましょう……」
名前を呼ぶ声はかすかに震えている。
マルファーは胸に手を当て、洞窟の暗闇へと一歩を踏み出す。
アルクトロスもヴァルゴを足元に従えて彼女に続いた。
洞窟の中は思っていた以上に暗かった。
彼女が踏み入れた瞬間、外界の光が背後で途絶え、冷たく湿った空気が肌にまとわりつく。
かすかに滴る水音が、深い静寂の中で不気味に響いた。
マルファーは指先に光弾を出現させる。
本来はそれを射出して攻撃に使う力だが、今は光源として利用することにした。
淡い光が周囲を照らし出し、粗く刻まれた岩肌がぼんやりと浮かび上がる。
「久しぶりに来たが……相変わらず不気味なとこだな」
アルクトロスが低く呟く。
足音が鈍い響きを伴いながら、洞窟の奥へと消えていく。
やがて彼らは広い空間へ出た。
そこには円形の石床が広がっており、その中央に扉ほどの大きさの霧が漂っている。
不自然なその霧は、ただそこにあるだけで、見る者の心に妙な不安を掻き立てた。
マルファーは霧の前に立ち止まり、その異様な存在をじっと見つめた。
「これが……異界への門……?」
「ああ、見ての通りだ。こいつが何処へ繋がってるかは俺も知らん。エンテディアの別の場所か……はたまた、あんたの信じるように異界に通じているか」
目の前の霧は、ただ漂うだけではなく、わずかに波立つように動いている。
それが自然のものではなく、何者かの能力によって作られたものであることは明白だった。
マルファーの表情に慎重さが滲む。
彼女は足元に転がる小石を拾い上げると、それを霧の中へと放った。
石は霧の中に吸い込まれたかのように消え去り、二度と姿を現さなかった。
その時、アルクトロスの足元にいたヴァルゴが、入り口の方を向いて低く唸り声を上げた。
「……どうした、ヴァルゴ」
アルクトロスが緊張した面持ちで愛犬を見る。ヴァルゴの毛が逆立っている。
彼女はすぐに生命反応探知の能力を発動させた。
目が白く濁り、暗闇の中でも視界が変わる。
すると、洞窟の入り口の方にぼんやりと白く輝く人影がいくつも浮かび上がった。
「追手が来たわ……! すぐそこまで迫ってる!」
マルファーの切迫した声に、アルクトロスも即座に剛弓を構え直す。
「チッ、随分と早えな……! 行くぞ、マルファー!」
アルクトロスがヴァルゴを抱え上げ、マルファーの手を掴んだ。
マルファーは一瞬逡巡したが、もう猶予はなかった。
この場に留まればすぐに追いつかれるだろう。
彼女は苦渋の表情で視線を霧に戻した。
「どうせ逃げ場なんてないわ……!」
そう言い聞かせるように呟くと彼女は意を決し、アルクトロスと共に霧の中へ勢いよく飛び込んだ。
霧の中に踏み込んだ瞬間、足元の感覚が消失した。
そこは地面のない虚空だった。
「うわあああっ!?」
アルクトロスの驚愕の声が響く。
「しまった!」
反射的に防御壁を展開し、球体状の透明な障壁で自身と、手を繋いでいたアルクトロスとヴァルゴを包み込む。
体がふわりと浮かび、急激な落下が止まった。
周囲を見回すと、遥か下に小さな池が見えた。
その深さはわからないが、障壁なしで落ちればただでは済まない高さだ。
マルファーは障壁を操作してゆっくりと下降し、池の畔に着地する。
障壁を解除すると、アルクトロスがへたり込んだ。ヴァルゴも足元で震えている。
「お、おい……心臓が止まるかと思ったぞ……」
アルクトロスが青ざめた顔で呟く。
マルファーは振り返り、落ちてきたはずの上空を見上げた。
そこには、エンテディアとは違う薄い水色の空が広がっているだけだった。
「……門が、ない? 消えてしまったの!?」
マルファーの声に、息を整えていたアルクトロスが顔を上げ、空を睨みながら呟くように言った。
「いや……そういえば、あいつが言ってたな。転移の門ってのは、入口側は霧状で誰にでも見えるが、出口側は不可視になるって」
「不可視……?」
「ああ。ただ、完全に消えるわけじゃねぇ。空間が歪んでるだけだ。光の屈折とか反射とか、なんとか言ってたが……条件が合えば、出口の輪郭が陽炎のように見えることもあるらしい」
アルクトロスの言葉を聞き、マルファーは目を凝らして上空を探った。
だが、何もないように見える。それに出口は遥か上空にあり、足場もなければ手がかりもない。
「……見えたとしても、これじゃあ戻る術がないわ」
言葉に一瞬、陰りが混じる。
しかし、すぐに表情を引き締めた。戻る理由などない、彼女の中でその答えはすでに出ていた。
マルファーは静かに池の畔に立ち尽くし、目を細めて周囲を見渡した。
この地に到達した瞬間、彼女は何かが違うことに気づいていた。
頭上を覆う空の色、柔らかく鈍い陽の光、風の匂い。それら全てがエンテディアのものとは似ても似つかないものだった。
「本当に来たのね……異界に」
「ああ。こりゃあ、たまげたぜ。異界なんてもんが本当にあるなんてな」
マルファーは決意を新たにしてその場を後にする。
アルクトロスもまた、覚悟を決めたように立ち上がり、彼女の隣に並んだ。




