余命三ヶ月の悪役令嬢は、"恋などしない"と決めたはずなのに
「余命は、三ヶ月です」
医師の言葉を聞いたとき、私は――エリセ・グランフォードは、どうしてか安堵に似た感情を覚えていた。
もう、充分だった。侯爵令嬢という立場の中で、冷酷な悪女と蔑まれ続けた日々。
誰にも真実を語らず、ただ仮面のように笑うしかなかった私にとって、これは最後の救いのようにも思えた。
「静かに、誰にも知られず、この命を終えましょう」
そう決めたはずだった。治療の勧めも、侍女のミリアの涙も、すべて拒んだ。私はただ、静かな終焉を望んでいた。
けれど、その静寂はある日、突然破られる。
現れたのは、私を捨てたはずの婚約者――王太子セドリック・アルヴェルト。
彼は私に告げた。
「君の残りの人生を、俺にくれないか」
――これは償いか、それとも恋の続きか。
どちらにせよ、私の静かな幕引きは、もう叶わぬものになってしまったのかもしれない。
1
王宮の離宮。かつて王太子妃候補として私が何度も通った場所だった。
庭に咲く白バラ、丁寧に磨かれた石畳、静かに頭を垂れる侍女たち。どれもが懐かしく、同時に胸を刺すような記憶の残滓だった。
私はここで、かつての自分と決別した。
公衆の面前で婚約を破棄され、冷酷な悪女として生きるしかなかったあの日から、すべてが変わってしまった。
それなのに――なぜ、今、私は再びこの場所にいるのだろう。
「ご機嫌よう、殿下。お久しゅうございます」
私は礼儀正しく、感情を押し殺して頭を下げた。淑女の仮面は完璧に。
皮肉なことに、それはセドリック様に教え込まれた作法だった。
「……エリセ。君は変わらないな」
その一言に、わずかに胸がざわつく。変わらないのは、貴方の方ではなくて?
応接室には、かつて私が好んだ香り――白檀と紅茶が混じり合った空気が漂っていた。棚には、昔私が愛読していた本がそのままの場所に並んでいる。
なぜ気づいてしまうのだろう。もう、過去など忘れてしまいたいのに。
「突然のお呼び立てと伺いましたが、なにかご用でしょうか」
「単刀直入に言おう。エリセ、君と共に三ヶ月を過ごしたい。この離宮で」
その言葉に、時が止まったように思えた。
「……なにを仰っているのですか?」
「君の体のこと、全部知っている。余命が三ヶ月だということも」
その言葉に、胸が強く脈打った。
私は静かに唇を引き結び、問いかける。
「なぜ……どうして、貴方がそのことを知っているのですか?」
セドリック様は一瞬、口を閉ざした。視線がわずかに泳ぐ。
「……ある日、俺のもとに一通の手紙が届いた。差出人の名はなかったが、そこには君のこと、君がどれほど人知れず犠牲になってきたかが書かれていた。俺は……その手紙で、ようやく自分の愚かさに気づいたんだ」
その曖昧な答えに、さらに疑念が生まれる。
手紙って、誰が。どうして今になって……。
「殿下ともあろうお方が、誰が出したとも知れない手紙一つを信じて、そのようなことを?」
「……無理を言っているのは承知している。それでも、君ともう一度だけ向き合いたい。元婚約者として、君の最期を……」
あまりにも優しすぎるその声に、心が軋む。
「……分かりました。それが王命と仰るのでしたら、背く理由はございません」
それが、私に残された最低限の誇りだった。
情ではなく、義務として。誰にも心を預けず、終わるための線引き。
「ありがとう、エリセ」
その声が、昔と変わらぬ響きを持っていて、私は視線をそらした。
この三ヶ月は、静かに死を迎えるためのものだった。誰にも知られず、誰にも縋らずに。
けれど、彼の言葉が、それを容易く揺るがす。
「君が笑ってくれるなら、それだけで、俺には充分なんだ」
私は、もうなにも望まないつもりだったのに。
2
離宮の客間は、以前とほとんど変わっていなかった。
深紅のカーテン、銀縁のティーセット、仄かに香るラベンダーの匂い。窓から差し込む陽光が絨毯の上に柔らかな影を落とし、仮初めの温もりをこの部屋に添えていた。
私は静かに椅子に腰を下ろし、手元の紅茶に目を落とす。カップの表面に映る自分の表情は、少し疲れて見えた。
「エリセ、なにか不便はないか?」
「いえ、ご配慮感謝いたします」
セドリック様の声は穏やかだったが、その奥に焦りのようなものが滲んでいた。
私の言葉や態度から、なにかを読み取ろうとするように、湯気越しの視線が鋭く注がれている。
「君が快適に過ごせるよう、できる限りのことはしたい。それが今の俺にできることだから」
「……それが、贖罪のつもりですか?」
「それも、ある。けれど、それだけじゃない」
彼は視線を落とし、言葉を選ぶようにしてから私の目を見た。
「君と、少しでも多くの時間を過ごしたい。今の俺には、それがなによりも大切なんだ」
そのまっすぐな言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
けれど私は、それを表には出さない。
「王太子が、わざわざ病に伏せる女と時間を過ごすなど、世間から見れば理解されません」
「ああ、理解されなくても構わない。君と向き合うことが、俺にとって必要なんだ」
その瞳に浮かぶのは、後悔と、ほんのわずかな願いの光。
私は視線を紅茶へと戻し、小さく息を吐いた。
「……本当に、後悔しているのですね」
「しているよ。心の底から。君に背を向け、君を信じなかったあのときを、ずっと悔いている」
私は言葉を飲み込んだ。過去に戻ることはできないと知りながら、それでも心のどこかで、あのとき彼が違う選択をしてくれていれば、と何度思っただろう。
「セドリック様」
「なんだい?」
「これが最初で最後になるかもしれません。ですから、率直に伺います。貴方は今、私のことをどう思っているのですか?」
少しの沈黙の後、彼は静かに口を開いた。
「大切な人だ。誰よりも、君を……今も、愛している」
その言葉に、胸が熱くなる。
けれど私は、その感情を押し込めるようにして言った。
「私は、もう恋をするつもりはありません。たとえ貴方がなにを言おうとも、私の心は変わりません」
「分かっている。それでもいい。君の傍にいられるなら、それだけで充分だ」
「後悔、しますよ」
「もう、充分にしている。君を手放してしまったあの日から、ずっと」
どこまで愚かなのでしょう、この人は。
それでも、こんなにも真摯な言葉に、心が揺れないはずがなかった。
会話のあと、少しの沈黙が流れた。
その間に、私は彼の口からこぼれた『君の病』という言葉を思い返していた。
――どうして、彼は私の病のことを知っているのか。
私自身が口外した覚えはない。医師にも、ミリアにも、他言無用と念押ししたはずだ。ならば、誰が。
ふと視線を動かすと、部屋の隅に立つ侍女ミリアの姿があった。いつも通り控えているように見えるが、どこか所在なげに指先をいじっている。
……もしかして、ミリアが?
心の中に疑念が芽生える。彼女がそんなことをするとは思いたくない。
でも、私の周囲で私の病状を知っている者は、限られている。
私はそっとミリアに視線を送り、なにも言わずに目を逸らした。確証もないのに責めることはできない。けれど、心のどこかで真実を知りたいと思っていた。
再び窓の外を見る。春の風に揺れる桜の枝が、まだ蕾を抱えたままそよいでいる。
季節はもうすぐ巡る。私の命は止まりかけているというのに、それでも時は前へと進んでいる。
「セドリック様」
「うん?」
「貴方は本当に……これからも私の傍に?」
「もちろんだ。どんなときも、君の隣にいたい」
その言葉に、ほんの少しだけ、心が緩んだ気がした。
3
春の空は、どこまでも青く、どこまでも穏やかだった。
朝の柔らかな陽光が離宮の回廊に差し込み、床に淡い模様を描いている。私はその光の中を、セドリック様に手を取られながら歩いていた。
「今日は、少し出かけよう。気分転換になる場所がある」
「……随分と急なお誘いですね」
「急じゃない。君の気が向くのを、ずっと待っていた」
その言葉に、私はわずかに目を伏せる。
春風が頬を撫でて通り過ぎた。その感触は、いつもよりも少し温かく感じられた。
ミリアの支度を受け、私は馬車へと乗り込む。馬車の内装は深緑色のビロードで整えられ、窓の外には揺れる新芽が見えた。
「行き先は、王都の南だ。昔、一緒に行ったことがある場所だよ」
「……もしかして、あの湖ですか?」
「覚えていてくれて嬉しいよ」
それ以上の会話は続かなかった。馬車の中には静寂が広がる。
けれど、その静けさは居心地の悪いものではなく、どこか懐かしい間合いのようにも思えた。
道中、私は時折セドリック様の横顔を盗み見た。以前よりも表情は柔らかく、けれどその瞳にはなにかを押し隠すような影が残っていた。
やがて、馬車は目的地に到着した。
そこは、小さな湖。鏡のように澄んだ湖面が空を映し出し、岸辺には春の花が咲き乱れていた。白や桃色の花々が風に揺れ、水面には小さなさざなみが立っている。
「……変わらないわね」
「そうだね。あの頃のままだ」
私は湖畔のベンチに腰を下ろした。
頬に触れる風が、遠い記憶をくすぐる。
「ここに来たのは、何年ぶりかしら」
「君がまだ十歳の頃だった。初めて、笑ってくれた日だ」
「そんな昔のこと、よく覚えていらっしゃるのね」
「君の笑顔は、忘れられなかった。ずっと、胸に残っていた」
その言葉に、私はわずかに頬を染めた。
春の陽光のせいだと、心の中で言い訳をする。
「この空を、あなたと見るなんて、思ってもいませんでした」
「君と見る空は、どうしてこんなに穏やかに見えるんだろう」
「余命三ヶ月と言われた身としては、皮肉なほど美しい空ですわ」
「だからこそ、君に見せたかった。君が今、生きていることを、少しでも実感してほしくて」
彼の言葉は真っ直ぐで、どこか幼いほどに純粋だった。私は小さく目を閉じる。
「私はもう、誰にも必要とされていないと思っていました」
「そんなことはない。君は、ずっと……俺の心の中にいた」
「嘘でも、少しだけ嬉しいです」
「嘘じゃない。君は、嘘を見抜ける人だろう?」
そっと視線を向けると、セドリック様は変わらぬ眼差しで私を見つめていた。
その目に宿る感情があまりに真摯で、私は思わず目を逸らす。
「……セドリック様。もし私が病でなかったら、今でも貴方は同じことを言っていましたか?」
「それは……分からない。でも、今の俺は確かに、君を愛している。過去も未来も関係なく、今の君を」
その一言に、心がふるえてしまった。
どれほど拒んでも、どれほど強がっても、彼の言葉は私の内側に届いてくる。
「私は、もう恋などしないと決めたのです」
「分かっている。それでも、君の傍にいたいと思うのは、愚かなことかな」
私の頬を、春風が優しく撫でた。桃の花びらが一枚、膝の上に落ちてくる。
私はそれを手に取り、しばらく眺めたあと、そっと湖面に放った。
「……綺麗なものほど、儚いのですね」
「でも、その儚さがあるからこそ、今この瞬間が大切なんだ」
言葉では否定しても、私は今、確かに彼の存在を心のどこかで必要としている。
それが、どんなに怖くても。
4
春の陽射しが離宮の中庭をやわらかく包み込む午後、私はひとり、石畳の道を歩いていた。
冬を越えて芽吹いたばかりの新緑が、風にそよぎながら軽やかな音を奏でている。庭の奥には、白バラのアーチが連なる。ふと足元を見ると、小さなスミレの花が顔をのぞかせていた。
そのときだった。アーチの陰に差し掛かったとき、二人の声が風に乗って耳に届いた。
「……あの手紙の差出人、君だったのか」
その声は、セドリック様のものだった。
いつもより低く、けれど驚きと戸惑いが混ざったような響きだった。
「はい……殿下に真実をお伝えしたのは、私です」
ミリアの声が、静かに続いた。
私は思わずアーチの陰に身を隠す。見てはいけないと分かっていたけれど、身体が動かなかった。
「お嬢様には、なにも申し上げておりません。本当に……勝手な行いだったと、今も反省しております」
「なぜ、あんなことを?」
「……お嬢様は、すべてを抱え込もうとしていました。ご病気のことも、かつての真実も。黙ったまま、すべてを終わらせようとしていたのです」
ミリアの声が震えていた。
けれど、その震えは恐れではなく、必死に想いを伝えようとする誠意だった。
「私は……どうしても殿下に知っていただきたかったのです。あの方が、どれほど殿下のことを思っていたのかを」
風が吹き抜け、ミリアの金色の髪が陽に揺れる。春の空の下、彼女の小さな姿がどこか儚くて、それでも凛としていた。
「ありがとう、ミリア」
セドリック様の声は、かすかに震えていた。
「君があの手紙をくれなければ、俺は……きっと、あの人の想いを知らぬまま過ごしていた」
私は、その場から動けなくなっていた。胸の奥に、ひどく冷たいものと、言いようのない温かさが交錯する。
その夜、私はミリアを呼び出した。
夕暮れの光が部屋を黄金色に染めていた。カーテン越しに差し込む西陽が、床に細長い影を描く。
そんな中、ミリアは静かに扉を開けて入ってきた。彼女の表情には、覚悟の色が滲んでいた。
「……先ほど、庭での会話を聞いていました」
私がそう告げると、ミリアは深く頭を下げる。
「すべて、私の独断です。お嬢様に黙って手紙を出したこと……本当に申し訳ありません」
「どうして?」
私の問いかけに、ミリアは胸元で手を握りしめ、顔を上げた。大きな瞳が、涙をこらえるように揺れていた。
「私は……お嬢様がすれ違ったまま、殿下と別れることが、どうしても耐えられなかったのです。あの方は、心の奥でずっと、殿下を――」
ミリアは途中で言葉を詰まらせた。沈黙が部屋を包む。
私は静かに椅子に腰を下ろし、ミリアを見つめた。やがて、ぽつりと語りかける。
「貴女は、私が隠したかったことまで、書いたのですね」
「……はい」
「私が、わざと誤解されるように立ち回ったこと。セドリック様を裏切った形にしてでも、彼の未来を守ろうとしたこと」
ミリアは、なにも言わず頷いた。
思い返せば、あの頃――私は、王家が政略結婚を必要としていると知っていた。セドリック様は心を痛めていた。婚約を解けば、王家と反王派の対立は和らぐ。そうであれば、私が悪役になるしかないと思った。
わざと冷たくふるまい、彼を失望させ、婚約を破棄させた。
それが、私にできる唯一の“助け”だった。
「……でも、私は、誰にも知られたくなかったのです」
その言葉に、ミリアが小さく顔を伏せた。
「出過ぎた真似をしました。本当に、申し訳ありません……」
私は、しばし黙ってから、椅子を立ち上がり、そっとミリアの肩に手を置いた。
「でも、ありがとう。貴女の行動がセドリック様を救ったのなら、それは確かに意味があったのだと思います」
「お嬢様……」
「これからも、私の傍にいてください。貴女がいてくれることが、私にとって、なによりも心強いから」
ミリアの瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「……はい、必ず」
5
春の陽射しが、まるで私の心まで温めるように、離宮の庭に降り注いでいた。
咲き始めたツツジの花が柔らかな風に揺れ、小鳥のさえずりが朝の静寂を彩る。私はベンチに腰掛け、温かい紅茶を口に含んだ。隣には、いつものようにセドリック様が座っている。
「今日は、この花を君に」
彼が差し出したのは、真紅のカーネーションだった。柔らかな花びらに指が触れると、そこから伝わる微かな体温に胸が締めつけられる。
「……これは、感謝の花ですわね」
「うん。君がいてくれることに、心から感謝してる」
その言葉に、なにかがふっと崩れ落ちたような気がした。私はもう、誰かの言葉で心を動かされることなどないと思っていた。けれど、それは確かに――嬉しかった。
病のことを知ってから、私はあらゆる感情を押し殺していた。希望も、欲も、未来も。だからこそ、彼のまなざしや言葉が、私の心をゆっくりと溶かしていくのを感じてしまうのが、怖かった。
けれど同時に、それは……愛おしいとも思えた。
セドリック様は、毎朝庭に咲いた花を手に私を訪ね、昼にはともに書庫で本を開き、夜には私の疲れた身体に気遣いながら静かに語りかけてくれる。
「この物語の主人公、君に似ている。強くて、優しくて、でも……自分を許せないでいる」
「……私のことを、そう見ていたのですか」
「違うか?」
私は少しだけ笑った。
「自分では、もうよく分からないのです。いつの間にか、本当の私がどこにいるのかさえ、見失ってしまいました」
「それでも、君が今ここにいることが、俺にとっては救いなんだ」
午後の陽が差し込む応接室。私は、深呼吸を一つしてから、彼の隣に座った。
テーブルの上には、いつもの紅茶と、淡いピンクのジャムクッキー。
けれど今日、口に運ぶ気にはなれなかった。
「セドリック様。……お話ししなければならないことがあります」
彼は手を止め、私の顔を見つめた。その瞳には、言葉を飲み込むような静けさが宿っていた。
「過去のこと。あの日……貴方が私との婚約を破棄された日のことです」
彼の表情が、わずかに強張る。
「エリセ、それは」
「お願いです。最後まで聞いてください」
私はそっとカップを置き、指先を膝の上で組んだ。
「私が、貴方に婚約を破棄させたのです」
「エリセ……」
「反王派貴族との緊張が高まり、王家は政治的な婚姻を必要としていた。私は、それを知っていました。貴方が板挟みになり、苦しんでいたことも」
彼の視線が、ぐっと鋭くなった。
「だから私は、自分から悪役になると決めたのです。貴方がなんの咎もなく、私との関係を断てるように。貴方が未来へ進めるように……そうしなければ、貴方はきっと、自分を責め続けたでしょうから」
セドリック様は、両手を膝に置いたまま、深くうつむいた。
「ミリアから、手紙で知らされた。けれど、本当に君自身が……」
私はゆっくりと首を横に振る。
「貴方に伝えるつもりはありませんでした。誰にも知られずに、私だけが悪役になれば、すべて丸く収まる話でしたから」
「そんなこと、俺が許せるわけがない」
「もう、許すも許さないも……今更、関係のない話ですわ」
「関係ある。俺は……君のことを、ずっと……!」
その言葉が、ついに口をついて出るより先に、私はそっと手を上げて制した。
「言わないでください。私は……聞きたくないのです。今それを聞いてしまったら、私の心は戻れなくなってしまいます」
「戻らなくていい。君の歩む先に、俺も一緒にいたい。それが、どんなに短い時間であっても」
彼の声は震えていた。私のために泣く人など、もういないと思っていたのに。その言葉が、心の深くに届いていた。
けれど、私はまだ、未来を信じることが怖かった。
「貴方の想いに応えたいとは……思っています。でも、それが許されるのか、分からないのです」
「誰の許しが必要なんだ? 君が、生きたいと望むなら――それだけで、すべては始まる」
セドリック様は、私の手を優しく握った。その温もりが、心に沁みた。
私は、ようやく――涙を流した。
張り詰めていたものが、ふっと解けた。静かに、静かに、涙が頬を伝った。
「ありがとう……ございます」
「エリセ。君がくれたこの時間を、俺は決して無駄にしない。君を愛している。心の底から」
彼の声が、胸に深く刻まれた瞬間――、
突然、世界がぐらりと傾いた。
立ち上がろうとした私の足元が崩れ、身体が宙に浮くような感覚に襲われる。
「……っ……!」
息が苦しい。胸の奥でなにかが締めつけられるように痛み、視界が滲んだ。
「エリセ!?」
セドリック様の叫びが遠く聞こえる。駆け寄る足音、椅子が倒れる音、ミリアの泣き声。
目の前が、暗くなっていく。
でも、私の心は、なぜか穏やかだった。
これは終わりなのだろうか? それとも、始まりなのだろうか?
意識の片隅で、誰かの手が私を抱き上げる感覚があった。
「お願いだ……医師を、早く!」
セドリック様の声が震えていた。その腕の中にいることが、ただ一つの確かな事実だった。
――私の命の砂時計が、静かに最後の砂を落とそうとしていた。
6
暗闇の中で、私はただ沈んでいた。
どこまでも深く、どこまでも静かに。浮かび上がることも、声を上げることもできず、まるで世界に拒まれているようだった。
――やっぱり、ここまでだったのね。
心の奥で、そう思った。もう充分だと、誰かに許された気がした。自ら幕を引く決意をしていたのだから、これは罰ではなく、報いなのだと。
けれど――、
「エリセ……戻ってきてくれ……お願いだ、君を失いたくない!」
その声が、世界のどこかで響いた。
かすかに、光が射したように感じた。何度も何度も、呼びかけるその声は、私の名前を、まるで祈りのように繰り返していた。
「君と出会えたこと、君に触れられたこと……すべてが、俺の生きる理由だ。どうか……どうか、神よ、彼女を――」
泣いていた。あの人が。あの誇り高い王太子が、誰よりも弱く、誰よりも必死に、私の命を願っていた。
――まだ、生きてもいいの?
彼と過ごした日々が、心に浮かぶ。春の庭、湖の水面、微笑んでくれたあの顔。
そして、なによりも――彼とようやく心を通わせ、互いを理解し合えたこと。
私は、もう少しだけ……生きたい。
彼と笑い合い、手を取り合い、未来を語るために。
この胸の内に芽生えた想いが、まだ枯れていないのなら。
「……エリセ!」
その瞬間、眩しい光が視界を貫いた。
私は、戻ってきた。彼の祈りと、私自身の望みによって――。
まぶたを開けると、セドリック様が私を覗き込んでいた。彼の目は赤く腫れ、何度も涙を拭った跡が残っていた。
「……セドリック様。まさか、泣いて……」
「泣いていたさ。怖かったんだ。君を……もう二度と失うんじゃないかって」
私はかすかに笑った。
唇がひび割れ、喉が焼けるように渇いていたのに、それでも笑えた。
「……ごめんなさい。ご心配を、おかけして」
「いいんだ。いいんだよ、戻ってきてくれて……本当に、ありがとう」
彼は私の手を握り、額をそっとそれに押し当てた。
それだけで、全身が温かくなった。
医師が駆けつけ、ミリアが泣きながら応急処置を手伝ってくれた。数日間、私は熱と痛みにうなされながらも、奇跡的に容態を持ち直していった。
「一時的な心肺不良と、極度の貧血状態です。ですが……持ちこたえてくださった」
医師の言葉に、ミリアが目元を押さえて泣いた。私は微笑みながら、彼女の手を握った。
「ありがとう……ミリア」
「お嬢様……生きていて、くださって……本当に、ありがとうございます……」
セドリック様はなにも言わず、ただ隣に座って私の髪を撫でていた。その指先は、かすかに震えていた。
私はかつて、死を静かに受け入れようとしていた。
けれど今、私は……この命を愛おしく思っている。
この奇跡が、終わりの始まりではなく――どうか、始まりの続きでありますように。
7
春が終わり、夏の気配が木々の葉を揺らしていた。
医師に「余命三ヶ月」と宣告されてから、すでにその時を過ぎた。
私はまだ、生きていた。
奇跡――そう呼ぶ人もいた。けれど私は、それを願いの結実だと信じていた。
生きたいと思った。もう少し、彼と共に時を刻みたいと、心から願った。
その願いが、私の命をここまで引き留めてくれたのだと思っている。
この数ヶ月、セドリック様は常に私の傍にいた。言葉を交わさずとも、ただそこにいるだけで心が安らいだ。
彼の笑顔に触れるたび、私は確かに生きていることを実感できた。
そして、ある日。あの湖まで、私たちは足を運んだ。
春の名残を残す草花たちが、緑の風に揺れていた。水面は凪ぎ、空をそのまま映し込んでいるようだった。
「エリセ、大丈夫か」
「はい。今日は、とても体調がいいです」
「そうか……無理はするなよ」
言いながら私の手を握りしめる彼の声は、風の音よりも静かで、それでもはっきりと私の胸に届く。
私たちは並んで歩き、あのときと同じベンチに腰を下ろした。
しばらく沈黙が続いた。けれどそれは、気まずさではなく、心地よい余白だった。
「……もう、三ヶ月ですね」
「そうだな」
「まだ、私は生きております」
「ああ……本当に、ありがとう。今日まで、生き続けてくれて」
彼の言葉に、私は微笑んだ。
これまでの私なら、そんな感謝を受け取る資格はないと、首を横に振っていたかもしれない。
風が、髪を揺らした。
彼がふと、ポケットから小さな箱を取り出した。開けると、そこには細い銀の指輪が一つ。
宝石はなかった。ただ、シンプルで優しい光を放っていた。
「これは、王家の儀礼には則っていない。だけど、俺の本心で贈るものだ」
私は彼の顔を見つめる。
「……それは、もしかして」
「婚約の申し出だ。君には、二度目になってしまうが」
彼の言葉は、どこまでも誠実で、どこまでも真っ直ぐだった。
私はしばらく答えを出せずにいた。
未来が約束されていないこの命。どれほど短いかも分からない。
それでも彼は、その不確かさごと受け入れると言ってくれている。
「……本当に、後悔しませんか?」
「俺は君と過ごした日々を、たとえどんな終わりを迎えようとも、後悔しない」
その瞬間、彼が私の手を握った。
ぬくもりが、指先から全身へと伝わっていく。
「君の残りの人生を、俺にくれないか」
これは償いか、それとも恋の続きか。
どちらにせよ、私の静かな幕引きは、もう叶わぬものになってしまったのかもしれない。
けれど――、
「はい、貴方様」
左の薬指に、銀の指輪をそっと通す。
答えは、決まっていたのだ。ずっと、心の奥では。
どれほど短くても。どれほど儚くても。
この想いが確かである限り、私たちの未来は輝いている。
風が優しく、湖面を撫でていく。
私たちの影が、水面に寄り添うように揺れている。
私があとどれだけ生きられるのかは、誰にも分からない。
それでも、生きている限りは、この人の傍にいよう。
この人に、恋をし続けよう――私はそう決めた。