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「人間界のミュゲは香りはともかく毒草だぞ」
「そうなのか? こっちでは薬にもなる。作用が穏やかで子供によく使われる」
早速つけてみようと指を出したが、食事の席でも……と思い直し蓋を閉じた。
「そんな強い香りでもない。付けたきゃ付けろ」
よくそんな挙動を見てるなと思いつつ手首に付けてみる。
ほのかな花の香りに思わず頬が緩んだ。
蓋を閉じようとしたらカイルがすっと同じように指先に取る。
どうするのかと見ていればそれが自分の耳の辺りに伸ばされた。
耳の後ろを撫でるようにするっとなぞられ、思わず硬直してしまう。
ミュゲの香りはそのまま対面の席へ消えてった。
「なに……」
「お待たせいたしましたー」
何が起きたのかカイルに聞こうと思えばちょうど料理が運ばれてきてしまった。
カイルはどういうわけか満足そうな目をして食事を始めてしまった。
耳の後ろはよく香水がつけられる場所の一つだが、そうすれば並んで歩いた時にリコからそこはかとなくミュゲの香りが立ち上ることに彼女は気づいていない。
それは真層界でいつも彼女が纏っていた香りだと言うことも。
リコも仕方なくフォークを手に取る。
何か話題をと思いスノーフレークの由来を聞いた。
「汚れなき心」
「汚れなき心?」
「スノーフレークの花言葉。彼女は元々救助隊の客だった。同じ冒険者の男に騙されあの世界に放り込まれた。今はもう潰したが法のないこの島で当時は酷い有様でな。心だけは誰にも汚されないように……俺もまだ若く救助隊も出来たばかりで信用もない。俺が出来ることなんて何もなかった」
「何もなくないと思う」
リコの言葉にカイルが「ん?」と眉を寄せる。
「マダムが自分の名をカイルがつけたと言ったときとても嬉しそうな……誇らしげと言ってもいいような顔をしていた。名前が彼女を支えたんじゃないかと思う」
「そんな高尚なもんじゃない。女たちの地獄なんざ男の俺には一生わかんねえよ」
「少なくとも私はそう感じた。それだけだ。……変に邪推して悪かった」
リコは素直に謝罪した。
カイルに名前を与えられたことが少し羨ましく思えた。
名はずっと付きまとうもの。マダムの心はその名の通り汚れを知らないのだろう。
本当はマダムにも謝りたかった。
「どうしてそんなマダムが館の主を?」
「どうしたって売られてくる女はいる。可能な限りそんな女を彼女は買い取る。商売の傍ら学と技術を身に付けさせると早い段階で大陸に返すんだ。戻った女たちはそこでまっとうな仕事に着くなり結婚するなりする。時間をかけても残りの金はちゃんと返すそうだ。マダムはマダムなりに孤独に戦い続ける道を選んだんだよ」
「孤独に戦う……」
自分は孤独を嘆いている。
孤独を選びそれを強さにする者もいるのかと思った。
責務の重さとはなんだろう。
世界を背負っているつもりで、自分はただの駄々っ子のような気がしてきた。
「カイル……私は世界に対し、コアに対し責任がある。その事実は変わらない。それが重たくて、でも他に同じ命を負った者がいなくて、私はたった一人それに向かい合わなければならないことが怖くて……生まれる前から怖かった…」
「リコは案外びびりだもんな」
「そうだな。いつも何かを恐れている。孤独を恐れ、コアの危機を恐れ、糸が切れることを……。でも不思議だな。遠い記憶のどこかに誰かがそれを案じてくれていた気がするんだ。はっきりとはしないが……ああ、カイルに抱きしめてもらった時と似ている。あったかくて大きくて安心するような……だから私は生まれて来られた」
「へぇ。俺はあったかくて大きくて安心するのか」
先に食べ終えたカイルが行儀悪く頬杖をついてリコを見ていた。
何か言いたげな、あと一秒先でからかわれる時の顔。
だけどカイルはからかうことはせず、くつくつと笑ったまま必死にフォークを動かすリコを眺めていた。
カイルが勘定をテーブルに置いた時に動いた指先から、自分と同じ香りが漂ってくるのが気恥ずかしくて、嬉しかった。




