終章 忘れていたのは.
東京なのに、空が広い。駅の出口を出た時、最初に思ったのはそれだった。
電車に揺られること一時間弱。JRから東京の地下鉄に乗り換え、歩は浜町駅のホームに降り立った。薄暗いホームを抜け、地上への階段を上っていくと道路の真ん中にある遊歩道に出る。隅田川そばにある浜町公園から明治座まで延びる、明治座通りだ。東京のど真ん中にある町だから、高いビルばかりが並んでいるものと思っていたが、大型のビルの中に雑居ビルや住居も混じっており、圧迫感はあまり感じられない。公園や街路樹などで緑も多く、下町らしい暮らしやすさを感じる。
ただ、ビルの間を通る真冬の風は冷たい。コンクリートの冷たさが乗った風は、スカートの下に履いたレギンスを引っかき、首元や袖からも入り込もうとしてくる。
「……寒!」
歩はびっくりしたように声を上げ、首をすくめながらショルダーバッグに入れていた手袋をはめる。そして、やっぱり近くの駅で降りればよかった、と心の中で後悔した。今日の目的地は人形町駅のすぐそばにあるカフェ。駅の出口を出て十数メートルのところにある。
それでも、歩はひとつ隣の町にある浜町駅を選んだ。母と会う前に、知らない町の空気を体に慣らしておきたかったからだ。
父から平日ではなく休日に会うよう勧められたが、歩はそれを拒否した。休日だと一日中一緒に過ごすことができてしまう。おそらくそれはお互い耐えられない。そのために歩は、学校がない冬休みに入るまで待ったのだ。
明治座が入居する浜町センタービルの横を通り、西の方へ真っすぐ進んでいく。住宅や雑居ビルが増え、より下町の雰囲気が濃くなってきたところに見えてくるのが浜町緑道。浜町エリアと人形町エリアを分けるようにある桜並木の緑道だ。勧進帳の弁慶像を横目にその緑道を進んでいくと、ビルの多い大通りに出る。車や人が多く、賑やかになると同時に吹き荒れるビル風も強くなる。だが、大きな交差点などは太陽が当たるため、そこまで寒さは厳しくない。歩は風だけに負けないよう、コートの首元を締めつつ前に進む。ビルに入ったお店はすっかり年末ムード。お店の前にはしめ縄飾りや門松などの装飾が設置されている。こないだまでクリスマスだったのに、その気配は一切ない。どこもすでに、新たな年に向け準備を始めている。
地下鉄人形町駅の真上にある交差点。そこの一角にあるビルの一階に、チェーン展開のカフェがある。道路に面したところはガラス張りとなっており、カフェの中が伺える。
ガラス窓に面したテーブル席。そこに、緑のニットにロングスカート姿の女性がいた。化粧もしていたため、最初、他人と見間違えているのではと思ったが、その女性がこちらに気が付き、小さく手を振った。
それを見てやっと、その人が母・京子なのだと確信することができた。
歩はホットティーと小さなチーズケーキを頼んだ。食べるつもりはなかったが「ケーキ、食べる?」と聞いてきた母を拒絶することもできず、せっかくなので一番好きなケーキを選んだ。
決済が終わり、番号札を受け取る。受け取り口の前で、二人で待つ。
「久しぶりだね」
「うん、久しぶり。仕事は大丈夫なの?」
「うん、昼休憩ずらしてもらってるから、大丈夫」
視線をそらしながら、そんなぎこちない会話を交わしているうちに、歩は自分の目線が母のものを超えていることに気が付いた。
母が去った時、まだ彼女の方が歩より背が高かった。そのため、記憶の中には母を下から見上げた映像しかない。見下ろす形で見る母の姿はどこか新鮮で、不思議な感覚だった。
母が去ってから三年。もう三年経つのだ。自分より小さい母を見て、歩は初めてその時の流れを実感した。
ホットティーとコーヒー、チーズケーキ二つが乗ったトレーを持って、窓際の一番奥の席へ移動する。母を奥へと座らせた。
「元気だった?」
「うん、元気」
まだぎこちない会話の中で、歩は正対した母の姿を見る。深い緑のリブニットに、グレーのフレアスカート、下にタイツとパンプスを履いた姿は、まさに働く女性のようで、今までの記憶にない母の姿だった。しっかりとした化粧のせいかもしれないが、目元の隈もなく、くたびれたような雰囲気もない。美容院で整えたであろう肩の上ほどに揃えられた髪と、手入れされた爪が、窓から入る光を反射して目にちらつく。
そして、左手の薬指。結婚指輪の跡はもうない。
歩は記憶の中の母はもういないと再確認した。かつては家族に時間を使ってばかりで疲弊していた。しかし、今は自分へ掛ける時間を獲得して、ただ一人の女性として生きている。それは嬉しくもあり、少し寂しかった。
「お父さんから連絡来たときは、びっくりしたわ。けど、その、私も一度会いたかったから」
「うん」
「お父さんも、元気そう?」
「うん」
「仲良くやれてる?」
その質問に歩は黙り込む。仲良くやれているのか? とつい頭の中に疑問符が浮かんでしまった。
そんな回答に悩む歩を見て、母は「ふふ」と笑った。
「ごめん。その反応見たら、なんとなく分かったような気がして」
「……分かる?」
「うん、分かるよ。だから答えなくていい」
母がそう言うと二人は見つめ合い、そして、堰を切ったように一斉に笑った。
三年間の空白を埋めるように二人で話した。母は離婚した後のこと――新しく就いた仕事や、実家のことを話してくれた。この近くのビルに入っている食品会社の経理として働いているらしい。父から話は聞いていたが仕事は順調で、直接的には聞けなかったが、経済的にも余裕がありそうだった。実家との関係については、今は実家の近くに家を借りてたまに面倒を見ている、と教えてくれた。どうやら母方の祖母に認知症のような症状が出始めたらしく、定期的に実家へ通わなければならなくなったらしい。
ただ、実家についてはそれ以上何も語ってくれなかった。母と祖母の関係は、まだ改善されていないようだ。
母の話を聞いて、次に歩が中学から今までのことを話す。高校受験のこと、部活のこと、今年の図書館のワークショックや柴高校、柚木のこと。母が去ってからあったことを、いろいろと話した。
母は注文したコーヒーにそっと口を付け、話す歩の姿をじっと見つめながら、感慨深げに話を聞いていた。部活や柴高祭の話の時には、瞳が潤んでいた。話し終えると、母はテーブル上にあるトレーを見つめて「そっか。友達、出来たんだね」と静かに呟いた。
一通り話し終え、しばらくの沈黙の後、母が「ごめんね」と謝った。
「ごめんね。いきなりいなくなっちゃって。ほんとに、ごめん」
両手で包んだコーヒーを見つめながら、母はそう言った。言い訳のような、許しを請うような謝罪。歩は「やめてよ」と母の謝罪を止めた。それだけは聞きたくなかった。もう何も変わらない、どうしようもないからだ。
歩は姿勢を正す。コートの袖から、背中にこもった蒸れた空気が出て行った。
「お母さんがいなくなったのは、しょうがなかったじゃん。……私のせいでも、あるから。ほんと、ごめん」
でも、と言って歩は言葉に詰まった。母は顔をそのままに、歩の目をちらりと見る。歩は真剣な目で母を見て、言葉を続ける。
「私が本当に嫌だったのは、ちゃんと、話せなかったことだったんだ。お母さんが辛いときに、何も話せなかったし、何も話してくれなかった。……何もできなかった。それが、ずっと苦しかった」
謝って無理やり終わらせるなんてできない。どうしようもない問題は残り続ける。
けど、何もしないってのは、ない。決着はつけなきゃいけない。
歩は記憶を言葉に乗せ続ける。
「小学校の時、友達付き合い、うまくできなくて、ごめん。けど、いじめられるよりも、心配するお母さんを見るのが辛かった」
言えなかったことを全て母へ伝えていく。
「中学の時、実家からいろいろ言われてたの、なんとなく感じてた。だから友達付き合い頑張ったりとか、家事とかいろいろ手伝って、助けになろうと思ったけど、結局ダメだった。ごめん」
そのままにするのも、消してしまうのもダメなんだ。それでは、いいことも悪いことも消えて、残るのは後悔だけだから。
「でも、お母さんと公園行くの、楽しかったよ。お話しいろいろできたし。私の絵を見てくれた時は、すごい嬉しかった。あと、中学の美術部も楽しかったんだよ。きっかけは、あれだけど、憂鬱だった学校が、少し楽しくなった」
全部を大切に残すために。
「高校では、友達もできた。いろんな出会いもあった」
それがあって、今があるから。
だから、ちゃんと終わらせよう。
「ほんと、今までありがとう。今日は、それだけ」
歩は視線を落とし、テーブルの上にある食べかけのチーズケーキを見つめる。しばらくすると、視界の端で母が手元のコーヒーカップをトレーに置いた。
そして、瞳を俯かせながら、うん、と答えた。
席の制限時間が近くなったため、歩と母は席を立ち、店を出た。歩が「じゃあ」と言うと、母は「うん、じゃあね」と返した。しかし、歩も母も動かない。二人とも、別れの瞬間を先送りにしてしまう。
歩は結びの言葉を探して「またね」と言う言葉を選んだ。すると、母も「うん、またね」と返す。そして、二人はようやくその場を別れることができた。「また」なんてあるか分からない。ただ、それが無いと前に踏み出すことができなかった。
一つ何かが終わったとしても、京子が歩の母であることは変わらないのだ。
歩はカフェを後にし、浜町駅方面へ戻っていった。緑道を抜け、明治座通りを東に進み、浜町駅の出口に戻る。しかし、歩は少し歩こうと、駅の中へは入らず、代わりに浜町公園の方へ向かった。
芝生広場の歩道を歩く。平日だけあって人もまばらだ。広場には桜がたくさん植えられているが、冬のせいで葉も花もついていない。枝の網目の奥からは、空の青だけが覗く。
その青を見上げ、歩は不安になった。
地面を見つめながら芝生公園を抜け、隅田川テラスと呼ばれる川沿いの遊歩道に出る。遊歩道の一部は首都高に覆われている。歩は空から隠れるように、その高架下にある階段に座り込んだ。視界には隅田川の水面と対岸のビルやマンション群が広がる。
歩はショルダーバッグの肩ひもを握った手を放し、顔を覆って深く息を吐いた。
「はぁぁぁぁぁぁぁ……」
息とともに漏れた声が手のひらにこもる。吸い込む空気は冷たく、その空気が肺に残ったカフェの空気を消し去っていく。顔を手で覆ったまま、隅田川の水の音と匂いだけを感じる。
しばらくして、手を顔から放し、膝の上に置く。そして、隅田川の上に広がる空を見上げた。高架の陰から覗ように、あの深い青を。
この青を、私はあと何回見るのだろう。
これからも、いろいろな人と出会い、たくさんのことを終わらせていく。
そのたびに、この自由で、深く、溺れてしまいそうな青へ泳ぎださなければならない。
それが、怖い。歩はまた、高架下の階段で一人うずくまった。
ショルダーバッグの中のスマホが震えた。歩はバッグからスマホを取り出し、画面を点灯させる。壁紙には鉛筆で描かれた、とあるゲームの村の絵が設定されている。通知は瑠美だった。カトケンと弦もいるメッセージグループで、何やら受験に向けた話をしていた。
それを見て、歩は我に返る。これからを無意味にしたくなくて、今日、母に会ったのだ。それでまた不安になって立ち止まっては、本末転倒だ。
歩は立ち上がり、遊歩道の階段を上って浜町駅へ戻っていく。地下へ下って改札をくぐり、電車に乗って座席に座ったら、さっそく英語の単語帳を開く。単語のスペルと意味と文法、そしてどのように使われるかを頭の中に入れていく。
忘れていたことをやり終えて、歩はやっと、本物の次へと動き出した。
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。
今後も、皆さまに楽しんでいただける作品をお届けできるよう、努力してまいります。これからも応援いただけると嬉しいです。
もし終章から読んでしまったという方がいらっしゃいましたら、是非作品ページに戻り、改めて歩の物語を最初から追っていただければと存じます。
以上、どうぞよろしくお願いいたします。




