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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第2章 てんやわんやのワークショップ。その中、歩は少年と出会う
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第2章 てんやわんやのワークショップ。その中、歩は少年と出会う 1

 歩が絵を描き始めたのは、小学校二年生の時。父方の祖母に、小説の挿絵の模写を褒められたのがきっかけだった。

 その小説はゲームのノベライズ本だった。主人公の男の子が、狂暴なモンスターを倒す職業「ハンター」に憧れ、とあるベテランハンターに弟子入りをし、仕事を通して成長していく物語。ゲームの方はあまり好きでなかったが、そのノベライズ本の世界に強く惹かれた。雄大な大地、灼熱の砂漠、荘厳な雪山、母なる大海。そこに生きる数々のモンスター。そして、そんな険しい環境の中でも力強く生きる、個性的でどこか暖みのある村人たちやハンターたち。その世界がとても魅力的で、その小説を何回も読み直したのを今でも覚えている。

 その小説の挿絵を自由帳に模写して、祖母の部屋に行きその絵を披露した。すると祖母は「歩ちゃんの絵はとても素敵ね」と褒めてくれた。引っ込み思案で、本やゲームで一人遊びしているような子だった歩を、父と母は心配してばかりだったが、祖母だけは歩の中の世界を肯定してくれた。それがとても嬉しく、それから歩は、その小説以外のゲームや漫画、アニメなどの絵も描くようになった。祖母は歩の絵を、いつも嬉しそうに見てくれた。

 祖母が亡くなり、同じ世界を共有する人がいなくなった歩は、一人、小説や漫画の世界にのめりこんだ。学校でも同級生と話さず、放課後は一人家で小説を読んだり絵を描いたりする。そんな歩を母はずっと心配していたが、次第にそれを優しく見守るようになった。祖母が亡くなり、歩の拠り所がなくなってしまうと思っての優しさだったのかもしれないが、その時は母が自分の世界を認めてくれたような気がして、素直に嬉しかった。


 しかし、そんな幸せも束の間。そのころから同じクラスのとあるグループから嫌がらせを受けるようになった。学校で書いていた絵をからかわれたり、遠くからクスクス笑われたり、あからさまに無視されたり。いわゆるいじめというものの洗礼を受けた。

 実は当時、歩自身はこのことについてそこまで深刻に考えていなかった。もともと話すことのなかった人たちが、ちょっと嫌がらせしてくるぐらいだ。もともと一人で遊ぶのが好きだった歩にとっては、そこまで生活に支障はない。

 そのいじめを強く意識するようになったのは小学三年生の時。母に買ってもらった紺色のカーディガンにチョークで落書きされてしまい、それが母に見つかってしまった。チョークで汚されたカーディガンを見た母は、カーディガンを強く握りしめながら、瞳に涙を溜め、ひどく歩を心配した。

 それ以降、母は歩のことを常に気に掛けるようになった。その直後にあった先生との三者面談では、歩が去った後、母と先生二人だけで相談をしていた。そんな対応をする母の姿を見て、急に自分が受けている仕打ちが、とても惨めなものに感じた。

 歩は母に心配をかけないよう努力した。母を安心させなければと、学校では空気を読み、学校内のコミュニティにもなるべく参加するようにして、なるべく周囲から浮かないように努めた。学校のクラスで流行っているものに追いつくよう、テレビやネット動画を確認して、話題に乗り遅れないよう努力した。また、母に問題ないことをアピールするため、夕飯でそれとなく学校のクラスで話したことを会話に混ぜていった。そうすると、嫌がらせも徐々になくなっていき、いじめられるようなことはほとんど無くなった。

 ただ自然と、絵を描く頻度はどんどん減っていった。


 中学校に入るころには、歩は友達と言えるほどの人は作れないにしても、周りから浮かない程度には人と話せるようになった。歩は中学でもこのまま母に迷惑を掛けない程度に友達と仲良くしていればいい、そうすれば母も心配しないだろうと思っていた。

 しかし、母はそんな歩をまだ心配した。中学になって部活にも入らず、学校が終わると真っすぐ帰ってくる。母から見ると、何も変化が無いことが逆に不安だったのだろう。母はそのころから、学校の様子を頻繁に聞いてくるようになった。クラスでうまくやっているか、中学の友達とは最近遊んでいるのか、ともかく、うまくやっているのか。そういうことを晩御飯の時に聞いてくるようになった。これはまずいと思った歩は、中学一年の二学期になって美術部に入部した。そのころにはもう絵はほとんど描いていなかったが、自分のできることがある部活がそれぐらいしか思いつかなかった。


 家でふと母を見ると、頭を抱えてうつろな目で下の方を見つめるようになった。仕事と家事の両立。あとから聞いた話だが、そのころから母の実家から家に戻って来いと催促をされていたらしい。その心労がだんだんと溜まっていったのだろう。

 歩は母の異常に気付き始めてから、こまめに家事を手伝い、母の休む時間を作ろうとした。引き続き学校での努力も怠らず、心身共に母の負担を減らそうとした。


 父と母の離婚が決まったのはそんな時だった。歩は落胆した。母の重荷にならないよう努力し、手助けもしていたつもりなのに、結局、自分は気を遣うだけで母の心の重りを軽くすることはできなかった。


 一度生じた歪みは、そう簡単に修復できない。その歪みは次第に大きくなり、やがてその場にいる人間をも飲み込み、歪みの一部にしてしまう。

 そして、母もその歪みに巻き込まれて、すり潰されて、耐えられず歩たちのもとを去ってしまった。

 そこから、歩は絵を描かなくなった。

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