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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第16章 瑠美は決着をつけたい
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第16章 瑠美は決着をつけたい 2

「歩さんが、柚木に絵、教えてくれてるんですよね」

 陶子が先に口を開き、歩に尋ねた。

「あ、はい。そうです」

 歩がそう答えると、それなら、と陶子はベッド横の深めの引き出しを開け、そこから丸めたA3の用紙を取り出した。

「これ、柚木が五月ぐらいに書いてくれた絵です」

 陶子がテーブルにその用紙を広げると、そこには大きなドラゴンが描かれていた。まだ歩との練習を始める前の絵であるため、へたくそだ。バランスが悪い。ただ、鱗の描きこみだけは練習前から変わらずだった。

「それでこっちが、八月にお見舞いに来てくれた時の絵です」

 そう言って見せてくれた用紙はA4で、練習の成果が表れたバランスの良い体躯のドラゴンが用紙一杯に描かれていた。歩は驚いた。モンスラにはいない、初めて見たドラゴンだったからだ。鱗の色は黒。モンスラのドラゴンより体躯はすらっとしており、首も長く見た目はトカゲに近い。背びれはクリスタルのような白い鉱物と一体となっていて、ただのドラゴンと違い、神々しさを感じる姿となっている。

「ゲームに出てくるドラゴンを、自分で考えたそうです。火山に住んでるんですって」

 こんなもの、描いているとは知らなかった。

「私、いきなりうまくなったことに驚いちゃって、練習したの? って聞いたら、歩さんに教えてもらったって聞いたんです」

 陶子は顔を上げて、歩の目を真っすぐ見た。

「柚木、喜んでいました。ありがとうございます」

「あ、いえ……」

 陶子と目を合わせながら謙遜する。その間、歩は絵の用紙がA3からA4になっていたことがずっと気になっていた。なぜ小さくしたのだろう。もしかして、夏休みに病院に絵を持っていって邪魔にならないか、と歩が言ったからだろうか。柚木は「その時は捨てればいい」と強気だったが、病院でも保管しやすいよう、小さな用紙に変えたのだろうか。

 ただ、そんな小さな用紙でも、紙面いっぱいに描きたいものが溢れるよう描かれている。

「その……、柚木は最近どうですか? 実は、夏休みに一度来てから顔を合わせて無くて。元気ですか? それとも、ご迷惑おかけしてますでしょうか」

 陶子は歩の目を真っすぐ見て尋ねる。親であれば、子の近況なんて誰でも気になる。ごくありふれた質問だ。

 しかし、歩は思わず目を伏せ、陶子の視線を避けてしまう。

「迷惑なんてことはないです。元気だとは、思います。ただ、最近はちょっと絵に行き詰まっていて。悩んでる……感じだと思います」

 歩は詰まりながらもそう答える。とっさに出た嘘だ。少なくとも、今、柚木が元気であるはずがない。ただ、柚木の意向を無視して、何か余計なことを言う勇気もなかった。

「そうですか……。ともかく、ご迷惑をお掛けしてないようでよかったです」

 そう言いながらも、陶子は柚木を心配するような憂いのある目をしていた。やはり、一人息子が自分の手の届かないところで生活しているのが心配なのだろう。

 ただ、この病室に入って陶子と話し始めてから、ずっと気になっていることがある。柚木と父親の関係があんなにも悪いのに、なぜこんなに穏やかなのか。なぜ、そう平然としていられるのか。

「……川村さんは、いつから入院されているんですか?」

 あっているのか分からない呼び方に戸惑いながらも、歩はそう尋ねる。陶子は「五月ぐらいからですね」と答えた。そして窓の外に目線を移し、遠くを見る。

「病気の手術のため、入院したんです。本当はもっと早く退院できるはずだったんですが、体調を崩してしまったり、体力が戻るのも遅れてしまって。それで、これだけ入院してしまったんですよ。なので、手術までの期間より、そのあと病室の中でただじっと寝ている状態の方が長かったんですよ」

 陶子は自分の左胸のあたりに手を当てながら「長い休みになってしまいました」と呟いた。

「柚木、すごく心配してました」

 歩がそう伝えると、陶子は窓の方を向いたまま目線を下げる。

「……だから退院したら、ちゃんと面倒見てあげないと。まあ、夫が見てくれるので、今も大丈夫だとは思いますが」

「え、あ、はい」

 やはり違和感を覚える。あの父親に見てもらって大丈夫、という発言がどうしても引っ掛かる。歩が柚木の父に感じている印象と、何かがずれている。

 陶子はテーブルの上に積んである小説に目を遣る。知らないタイトルだったが、表紙を見るに、児童向けのファンタジー小説のように見えた。そして「ちょっと、話、聞いてくれますか」と言って、家族の話を続けた。

「私、病気がちで迷惑を掛けるばかりなんです。それでも、うちの夫はずっとそばにいてくれて」

 夫への思いに耽るように、陶子は語る。

「けど、今回の入院は長すぎました。働きながら家のことをするのは、大変です。なので私、早めに退院したい旨を病院の先生に相談してたんです。けど、それでも夫は、うまくやってるから、大丈夫だよと言ってくれて」

 やはり何かずれている。あの父親の態度や、柚木の感じていることと、大きくずれがある。

「……ただ、うちの母が、少し厳しすぎるところがあるんじゃないかって、一回離れて暮らした方がいいんじゃないかって言うんです」

 けど、と陶子は清流のような声を力強く前に押し出す。

「柚木と夫を離れ離れにするのはおかしいと思うんです。柚木とすごく仲良いいのに……。確かに夫は厳しい面もありますが、だからと言って、離れるのだけはダメだと思っています」

「……柚木も、そう言ってるんですか?」

 我慢ならない違和感を抑えながら、歩はそう問うた。それに対しても、陶子は力強くうなずく。

「あの子も、離れたくないと。だから、私は早く戻らないといけないんです。あの子と夫のために」

 陶子は歩の目を真っすぐ見てそう言い切る。その瞳に疑いの影はなく、純粋無垢な光だけが映っていた。


 やっと分かった。柚木がなぜ、あの父親と離れることにならないよう振る舞うのか。余計なことをしないようにと、絵本を作ることをやめたのか。

 歩と同じだ。母の負担を少しでも減らしたくて。その母が大好きな父を庇いたくて。自分の日常の小さな幸せを犠牲にしながら、歪みを見えないように隠している。

 陶子が見る未来。それは、家族三人があの家で幸せに暮らす未来だ。退院すれば、それを陶子に見せることができる。自分が、歪みを隠しきることができれば。

 全ては、母が見ている未来に向けて家族が進むために。

 柚木が、そういうやつだと知っていたのに、私は。


「……そうなんですね」

 歩はその一言しか発せなかった。陶子の見る雲一つない青空のような未来に、違う、と真正面から言うことができなかった。ただ、その場に立ち尽くすだけだ。

「すいませんね、こんな話。でも、全くの他人で家族の話ができる人なんてあんまりいないものですから、つい話してしまいました。……歩さん、ご家族は?」

「……父と、弟が一人です」

「お母様は?」

「すいません、両親、離婚してるんです」

 歩は一定の声で答えた。それを聞いて陶子は慌てて「ごめんなさい」と謝罪する。歩は、謝ることじゃないです、と心を痛める陶子を慰めた。

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