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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第15章 削除するように忘れようとしても
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第15章 削除するように忘れようとしても 2

 翌日の放課後。歩は松田先生と職員室にいた。

「そうか……。少年、やめちまったのか」

 松本先生は自分の机に座りながら、残念そうにそう言った。松本先生には柚木が絵本をやめた理由を家庭の事情らしいぐらいしか伝えていない。よその家の事情を喋るのは、あまり良くないと思ったからだ。

 歩は立ったまま斜め下の床を見つめる。事務処理をする先生のタイプ音と、印刷機が授業用のプリントを次々と吐き出す音に、自然と耳が集中する。

「……大丈夫か?」

 松本先生の声にはっとして「いや、大丈夫です」と、歩は取り繕うように答えた。

 松本先生は姿勢を正し、歩の目を見る。

「少年の件、一応学校にも言ってはいたんだけど、これからは校内で預かるのは、なしってことになった。すまん」

 松本先生は膝に手を突き、深々と頭を下げた。そんな、先生が謝ることじゃないのに。

「少年とは、まだ連絡とってるのか?」

「いえ、取ってないです」

「……無理強いするわけじゃないが、別に学校でやるのがダメってだけだぞ。せめて連絡とって、ちゃんと話でも聞いてやったらどうだ?」

 松本先生の提案に、歩は首を横に振った。

「自分が、あんまり首突っ込んでも、迷惑になるだけかなと思うので」

 歩がそう言うと、松本先生は「そっか……」と呟いた。

 しばらく間が空いて、松本先生は真剣な目で、歩を見つめ直す。

「藤井さ、無駄だったとか、そういうこと、思うなよ」

 最後、松本先生は歩にそう言った。

「後悔してもいい。ただ、無駄だったって頭の中で消すのは、やめておけ」

 俺は見てたから、と、松本先生は真摯に歩に向き合う。おそらく、歩の頑張りをなかったことにしたくなかったのだろう。

 ただ、歩は目を合わせられなかった。憶えておくことも、忘れることも、自信がなかったからだ。

「せんせー。ちょっとー……」

 体操服に上だけジャージを羽織った女子が廊下から職員室に入ってきて、松田先生と歩の沈黙を破る。空気を察して、尻すぼみになった声に「ああ、今行く」と松本先生は応対する。去り際、歩に「また今度な」と一言添えた。松本先生の椅子は半回転した後、歩の方に背をむけて、ぴたりと止まった。


 一週間が経った。九月の終わりに近づくにつれ、気温はどんどん下がっていく。早い人は長袖のシャツやブラウスを着始めていた。気温の一緒に、祭りの熱も冷めていき、校内はすっかりいつもの空気に落ち着いた。

 クラス内の噂話もほぼなくなった。ただ、柴高祭前の状態には戻らず、クラスの人間との間にはっきりと溝を感じるようになった。今まではただ、歩に対して無関心なだけであり、受け入れることも拒絶することもなかった。しかし、今は明らかな距離を置く意識を感じる。弦や瑠美、カトケンですらも声を掛けることが難しい空気が漂っている。拒絶ではない微妙な隔絶。居心地は良くない。

 しかし、歩はこんなの慣れっこだ。小学校でも同じようなことはあった。前に戻っただけ。それにこのクラスもあと半年だ。クラスが変われば、またリセットされる。今の関心事は、二学期の中間テストだ。クラスのことを気に掛けている暇はない。家の家事をして、勉強して、波風立てず過ごしていく。

 こうして、前と同じように過ごしていけば、また少しずつ忘れていけるだろうか。母の時のように。


 九月最後の日。昼休みに教室でお弁当を食べていた時だった。

「歩さーん。ちょっといい?」

 後ろからそう話しかけてきたのは、高木だった。取り巻き二人を引き連れて、歩の机の周りに立つ。

「……なんでしょうか」

 くすくすと、嘲笑じみた笑いを浮かべる高木を見て、なんとなく、嫌な予感がした。その予感が的中していたことはすぐに分かる。

「歩さんさ、まだあの絵本の子と絡んでんの?」

 やっぱりだ、と歩は胸の不快感と一緒に息を吐く。時間が経ち、またみんなが歩に無関心になったことで、高木が歩を暇つぶしに使うハードルが下がったのだろう。

 ものすごく、嫌だ。

「いや、してない。あの、なんで?」

「あー、そうなんだ。へえ」

 歩の質問を無視して、高木は取り巻きたちと好き勝手に話を展開させる。自分の都合のいい展開へ、力だけで持っていこうとする。

「なんで? なんかあったの?」

 高木がそう歩に尋ねると、クラス内の意識が少しこちらに寄った気がした。わざとらしく大きく伸びをして見せたり、終わりかけていた話を引き延ばしたり。高木の好奇心に当てられて、それぞれ、気づかれないよう聞き耳を立てているような気がする。

「……柚木、絵本を作るの、一回やめるらしくて」

「ああ、そうそう、柚木って名前だ。思い出した」

 また高木は自分の興味のあることだけに反応する。相手と会話のキャッチボールをするつもりはない。相手はただ話題を提供する人であり、相手がどう思っているのか考えない。みっともなく、自由気ままに相手の心にずかずかと踏み込んでくる。

「なんでやめちゃったの? 夏休み中、あんなにやってたのに」

 柚木の頑張りを見て来たかのような言いぶりが、歩の心に引っ掛かる。一回しか柚木と会ったことないくせに、なぜそんなことが言えるのか。

「さあ、知らない」

 知らない、と自分で言った言葉に心が抉られる。言い訳をして、詭弁を弄して、結局何もできなかった自分が、情けなくなる。

 高木は「ふーん」と、含みがあるような態度で言って、にやりと笑った。

「まあ、普通、小学生に絵を教えるとかないもんね。嫌になっちゃったんじゃないの、知らない高校生に教えられるのが(笑)」

 嘲笑混じりの話し方が、いやに鼻に着く。ただ、強い否定もできない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。何も言えない。

「歩さんからは? なんかカレに言ったの? ねえ?」

 高木の質問に歩は答えない。弁当箱に残ったご飯を、ただ見つめる。高木や取り巻きたちの無駄な好奇心を含んだ視線と、クラス人たちの変に寄った意識が、背中と顔の横に当たる。


 ああ、つらい。この視線が。この圧迫感がしんどい。

 何より、この状況に対し何もできない自分が情けない。もちろん、柚木がそんなこと思っていないだろう。ただ、確証はない。もしかしたら、途中から歩に嫌気がさしていたかもしれない。

 そして、ふと思った。こういう些細なことで、今後もずっと柚木のことを思い出すのだろう。そのたびに自分を責めて、情けなく思う。母のこともそうだ。無理に忘れようと思っても、何かをきっかけにまた思い出し、悩み、苦しむ。

 削除するように無理やり忘れようとしても、残るのは後悔だけなのだ。


 歩は弁当箱を見つめたまま、時が過ぎるのを待つ。嵐が過ぎて行くのを待つことしかできない。

 しかし、そこに新たな嵐が来た。瑠美だ。

 教室のドアをガラリと開けて、歩を睨みつけながらこちらにずんずんと歩いて来る。それを見たら、さっきまでの思い悩みが一旦頭から離れた。え、何? 何の用? マジで。

 瑠美は高木の方に手を掛け「ちょっとどいて」と高木をどかし、歩の席の横に立った。

「あんたさ、なんで部活来ないの?」

 腕を組んで、上から見下ろしてくる瑠美の目は、いつにもまして鋭かった。

「いや、その、なんというか、行く必要が無いといいますか、そう言ったというか……」

 しどろもどろになりながら答える歩に、瑠美は「あ゛?」と低く、どすの利いた声で聞き返す。瑠美が何か本当に怒っていることは察知できたが、理由に心当たりが無い。部活に来なかっただけで、いつもこんな怒り方をしない。

 歩が瑠美の突然の襲来に硬直していると、「ちょっと!」と高木が横から話に割って入る。

「豊橋さん、私が歩さんと話してたんだけど、何? いきなり?」

 高木の言葉を受けて、瑠美は目線を歩から高木の方へ滑らせる。そしてクラスの雰囲気を確かめるように周囲を見渡した後、再び歩を見下ろした。

「……はぁ」

 瑠美は呆れたようなため息を一つついた後、高木の方に向き直る。そして、にこりと口角を上げた。

「ごめん、高木さん。部活の件で話があって。高木さんは何話してたの?」

「柴高祭の話だよ。何かあったとか、些細な話」

「そっか、高木さんはどうだったの?」

「私? 私は普通だよ」

 高木が何のつもりだ、と警戒しながらそう答えると、瑠美はさらに口角を上げた。

「普通、だったんだ」

 瑠美は声のボリュームを明らかに上げた。

「そう言えば、隣のクラスの××くんに告白して、振られたんだって? そっちは大丈夫なの?」

 瑠美の声がクラスに響き、教室に、え? という沈黙が流れる。高木は、硬直していたが、瑠美は容赦なく続ける。

「一緒に柴高祭を回って最後に後夜祭で告白したんでしょ? でも、好きな人がいるって振られちゃって。ショックだったと思うけど、大丈夫だった?」

「ちょ、なんなのよ、いきなり!」

 高木がはぐらかすようにそう言うが、それがなおさらクラス中の耳目を集める。クラスカースト上位の大スキャンダル。みんな、こういう話は気になるのだ。クラスがざわつき始める。クラスの意識が集まったところで、瑠美はわざとらしく口を手で抑えながら「ゴメン、みんなには言ってないよね」と言い放つ。

「あんた……!」

「なによ」

 高木は、こいつ、と瑠美を睨みつけるが、クラスの空気に堪えられず、とうとう教室から出て行ってしまった。高木がいなくなり、クラスは一層ざわめく。

「は! 雑魚が」

 そんなクラスの空気を無視して、瑠美は吐き捨てるようにそう言うと、歩の顔をまた見た。ほんとを言うと、歩も外に出てしまいたいが、そういう空気ではない。

「あんた、もう部活に来ないの?」

 瑠美は歩にそう問うと、歩は黙り込む。すると、瑠美は「保留ね。分かった」と言いながらスマホを取り出した。手際よくスマホを操作して、何かのボタンを押すと、机の上にあった歩のスマホが震える。

「土曜日、ここ行くから。予定空けといて」

 送られてきたURLは、とある病院の公式サイトだった。

「ここは何?」

「少年のお母さんの病院」

「は?」

「集合時間は後で送るね、じゃあ」

「ちょっと、待って」

 歩は立ち上がり、瑠美を止めようとする。いきなり柚木の母の病院とか意味が分からない。しかし、瑠美は歩の制止を無視して、また教室の外へ出て行ってしまう。歩は瑠美へ伸ばした手をそのままに、ただ立ち尽くすしかなかった。

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