第1章 歩はさっさと終わらせたい 4
部活を終えて家に帰る途中、スクールバッグに入ったスマホが震えた。スマホの通知を確認すると、父からメッセージだった。
『今日、十八時には帰れる。晩御飯食べるので、よろしくお願いします』
父は歩が晩御飯の準備に困らないよう、必ず帰宅時間を準備が始まる前に連絡してくれる。母がいなくなり、家事を分担制にしてから生まれた習慣だ。
歩は家に着くと制服から部屋着に着替え、父の指定時間に間に合うよう、晩御飯の準備を始めた。炊飯器で米を炊きながら、朝の残りの味噌汁を温め、冷蔵庫の中にあった野菜と豚肉を炒める。十八時になると父は時間通りに帰ってきた。晴信はまだ部活で帰ってきていなかったので、テーブルの上にご飯、野菜炒め、味噌汁を並べ、二人だけで食事をした。
「今日から部活再開だろ。ワークショップの準備だっけか。楽しいか?」
「普通だよ、私は準備と事務局しかしないしね」
「歩は教えたりしないのか」
「あんまり部活も行けてないし、私が出しゃばるのもちょっと違うから、教えたりはしないつもり」
「なんだ、参加すればいいのに」
その一言に歩は、余計なお世話、と心で呟くが、父はそのまま話を続ける。
「部活、辞めるって言っていたけど、塾行けるぐらいの準備はあるから、そのこと気にしているのなら心配するな。父さん的には部活は続けてほしいんだ。文化祭も何か描いたら見に行くよ」
「あ、そう」
歩は目線を合わさないまま、野菜炒めを口の中に運ぶ。サラダ油に包まれた塩味が下の上で溶けて、咀嚼すると野菜の繊維を断つ音が響く。
「それとなんだけど……」
父はそう言ってから一拍、間を開けた。また話題を探しているのか、と思い顔を上げると父は真剣な顔をしていた。飛び石から次の飛び石へ飛び移るというより、崖から意を決して飛び降りようというような顔だ。内容を聞いてその覚悟を決めた顔の理由が分かった。
「母さんのことなんだが、一度会ってみたかったりするか?」
歩の箸が止まった。急な提案で頭の中が一瞬真空になる。たまに母と電話するみたいな話はしたことがあったが、母と会う、といった話題は、離婚以降初めてだった。
「お母さんが会いたいって言ってるの?」
「いや、母さんとは話してない。ただ俺が、歩にそういう気持ちがあるか聞いときたかったんだ」
「ハルには話したの?」
「いや、話してない。まず歩から聞こうと思った。」
父は持っていた箸とお椀をテーブルに置いた。
「今までこういう話してこなかったからな。歩や晴信がどうしたいのかだけ、確認したかった。別に嫌だったらこれきりで話は終わりだ。ただ、もし話してみたいとか、会いたいって気持ちがあるんなら、父さんの方で母さんに話そうと思う」
父は腕をテーブルの上に預け、真っすぐ私の目を見ていた。
歩の手の箸はいまだ空をつまんだまま止まっている。今更会ってどうすればいいのだろう。母と会って何を話せばいいか分からない。そもそも母は私たちに会いたいのだろうか。家族に疲れて家を離れたのであれば、過去のことを掘り起こさないように、会わない方が互いの為ではないのか。
返答に困り、どう応えるべきか悩んでいると、玄関から晴信の声が聞こえた。
「ただいま~、あち~」
固まった空気がすっとほどける。父は晴信の声がする玄関の方を見て、ふっと笑った。
「母さんの話、今すぐじゃなくてもいいから。ちゃんと考えておいてくれ」
そう言って父は「ごちそう様」と丁寧に手を合わせながら言い、食器をキッチンのシンクに持って行き、リビングダイニングの部屋から出ていく。
「おかえり、って臭! おいハル、ちょっとそのまま洗濯機の前行って服脱げ!」
「服、もう洗濯機に入れちゃっていい?」
「待て、いったん横のバケツに入れとけ。歩に怒られるぞ」
「あ、まじ? 今日姉ちゃんか。了解」
「俺なら問答無用で洗濯機突っ込むみたいな言い草やめろ」
歩は止まっていた箸をまた動かし始める。
父と晴信の会話を遠目で聞きながら食事を済ませ、食器をキッチンのシンクに下げる。晴信が晩御飯を食べている間に、晴信の洗濯物と普通の洗濯物を二回に分けて洗濯をする。晴信の衣服からは、汗の臭いと制汗スプレーのさわやかな香りが混じった変な臭いがした。この臭いに制汗スプレーはもう焼け石に水だろうと思いながら、それらを洗濯機に突っ込む。最初の洗濯を終えて食器洗いは晴信に任せると、歩は自分の部屋に戻りそのまま布団へと飛び込んだ。
枕に顔をうずめ、歩は、ふー、と肺の中の不快感を吐き出す。今日はいろいろありすぎて疲れてしまった。ワークショップのこと、部活のこと、母のこと。それらが頭の中が渋滞している。
一時間ほど布団の上で時間を潰した後、一階に降り、二回目の洗濯で洗った衣服を乾かす。その後お風呂に入って髪を乾かし、寝間着に着替えたらキッチンで水を一杯飲んで部屋に戻る。机の本棚にある数学のチャート式参考書・青を開き、授業進捗より少し先の範囲の問題を地道に解く。いつもならここから三時間ぐらいは集中が持つのだが、テスト終わりの解放感のせいか、一時間程度しか机に向かえない。今日はもう勉強は無理だな、と思い歩は布団にもぐった。
勉強しないまま眠る罪悪感の中、父の提案をどうしようかと考える。本音を言うと母に会う気にはなれない。会って何かを失うリスクの方が、大きい気がしたからだ。
ただ、そう思うと同時に、会わなければならないのではと、心の奥底で何かが問いかけてくる。
体を起こしベッドに座る。目の前の本棚の最下段には、中学の時に使っていたB6のスケッチブックが入っている。中学の美術部で書いたものをそのまま保存してあるが、高校に入ってから一度も開いていない。それどころか、絵をほとんど描かなくなってしまった。描くのは疲れるし、描いてとやかく言われるのも面倒だからだ。瑠美と松本先生以外には、中学で絵を描いていたことを言っていない。
考えが巡り、このままだと眠れなくなると思った歩は、もういいやと大きく息を吐いてそのままベッドに寝転んだ。考えてもおそらく答えは出ない。ましてややることも変わらない。母の件は考えがまとまったら答えればいい。歩はスマホに接続されたイヤホンを耳に着け、音楽を流す。
まずはワークショップを終わらせて、部活を辞めよう。そうすれば少なくとも一歩は進める。そう信じて、歩はそのまま目を閉じた。