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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第12章 柴高祭
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第12章 柴高祭 4

 美術室を出ると、清水先輩が投票シートにシールを張るよう柚木に促す。柚木は、瑠美の絵に投票をした。普通に瑠美の絵もよかったし、まあ、しょうがない。

「ちょっと休もうか。飲み物飲む?」

 柚木はこくっとうなずく。

「じゃあ、昇降口、行こっか」

「うん」

 二人は昇降口の方へ歩いていく。柚木の表情は、職員室へ迎えに行った時の重い表情に戻ってしまった。完全に予想外だった。少なくとも、そんな顔になるとは思ってなかった。

 空は一面、厚い雲に覆われている。日も傾き、校舎全体はもう暗い。ただ夕日の光が空を覆う雲に乱反射して、暗い空間を薄く緋色に染める。

 時刻はもう十七時。もう少しで一般公開終了の時間となる。

 昇降口の脇にある自動販売機の前で、歩は財布から小銭を何枚か取り出す。「何飲みたい?」と聞くと、柚木は少し躊躇ったように間を開けた後「サイダー」と答えた。歩は小銭を自動販売機に流し込み、四ツ矢サイダーと正午の紅茶無糖のボタンを押す。自動販売機が二本のペットボトルを吐き出すとそれを口から取り出し、柚木にサイダーのペットボトルを与えた。

 昇降口のすぐ横にあるピロティへ行き、壁際のベンチに座る。柚木はすぐにペットボトルの蓋を開け、ごくごくと喉に流し込む。喉が渇いていたのだろう。

 昇降口横のピロティは、校門側にも中庭側にも抜けられるスペースとなっていて、校門側と中庭側双方を見渡せる。そのため、柴高祭においては一番交通量の多いスペースとなるのだが、一般公開がもうすぐ終わるこの時間帯になると、ほとんど生徒しかおらず、人もまばらになる。通り過ぎる生徒も、撤収の段取りや後夜祭の話ばかりをしていた。

 何を言おう、と考えていると、中庭のステージの前に人だかりができ始めていた。その注目の集まるステージに上がってきたのは、カトケンとバンドメンバーだった。

「どうもぉぉぉぉぉぉー! カトケンバンドでーーーす! ちょっとトリの人が出れなくなったんで、急遽出てきました! 歌いまーす!」

 そうマイクを通して言い放つと、バンドの演奏が始まる。バンドメンバーは苦笑い。おそらく打合せなしで出てきたのだろう。それでも、演奏は滞りなく始まり、場を盛り上げ始めた。

 この演奏が終わると同時に、祭りが終わる。バンドメンバーの演奏と観客の歓声、薄暗くなったステージを照らす照明。その音と光が、これが祭りのフィナーレなのだと教えてくれる。

 歩は光の手前に座った柚木へ目を遣る。

「どうだった?」

「ん?」

「美術部の展示」

 柚木は手元のペットボトルに視線を落とす。

「うん、良かった。瑠美姉、絵、うまいんだね。意外だった」

 手元のペットボトルを親指でなぞりながら、いつも通りの声でそう答える。

「そっか」

 お互い、あの絵については何も触れない。柚木があの絵について話さないということは、おそらく、ここで触らないでほしいということだ。本来であれば、触れずにそっとすべきだろう。ただ、そこに触れなければならないのではと歩の中の一人が叫ぶ。

 しかし、そこに踏み込む決断ができない。歩はペットボトルの蓋を開け、中にある紅茶を喉に流し、ベンチから立ち上がる。

「私、一旦クラスのテントに戻るけど、一緒に来る?」

 柚木は首を横に振る。

「いい。ここから兄ちゃんのバンド、見てる」

「え、じゃあ、一緒に近くへ行こうか?」

「いいよ、なんか、もみくちゃになりそう」

「そっか。じゃあ……すぐ戻るから」

 歩はそう言って柚木から離れた。


 このまま先延ばしにするのはいけない。中庭のテントに向かいながら歩はぐるぐると頭の中で考える。

 分からないから決断ができないというのは詭弁だ。今、分からないのなら、この先もずっと彼の抱えているものが分からないのだから。何もないかもしれないし、と後回しにするのは言い訳だ。そんなの、やって何もなければそれでいい。それに、何もないとは思えない。

 今日を逃したら、ずっと聞ける気がしない。「何かあった?」と。そしたら彼のことを理解できず、進めぬまま終わってしまう気がする。

 それでは母の時と同じではないか。気に掛けているように見せかけて、そのくせ、母が抱えているものにはびびって手を出さなかった。

 同じだ。


 テントではすでに撤収の準備を初めていた。煌々としたステージで歌うカトケンを横目に、焼き機を拭いたり、食器などを洗ってまとめたりしている。奥の方では瑠美が机の上にキャッシュボックスと収支表を広げて、お金の計算をしていた。

「瑠美、お疲れ様」

「ういーす、ほんと疲れたよ」

 そう返事をしながら、瑠美はキャッシュボックスのお金を集計し続ける。制服のままで、汗もあんまりかいてない。ほんとに疲れているのかこいつは。

「どうだったの、カレは?」

 瑠美がからかうように質問しても、歩から返答がない。瑠美は何か変だと察して顔をあげる。歩は真っすぐ瑠美を見ていた。

「ごめん、テントの撤収、私なしでやってもらうのは……あり?」

 瑠美は歩の目を見て、大きくため息をついた。また何かを察したからだ。

「いいよー。むしろ、あんたがいない方がスムーズ」

「ありがとう」

 歩はテントからまたピロティの方に歩き始めた。

 やることがある。聞くことがある。

 しかし、ピロティに着いたころには、柚木はその場にいなかった。周りを見渡してもどこにもいない。昇降口を見回し校舎の一階を探すが、どこにもいない。

 嫌な予感がする。

 途中「あ、歩さん」と後ろから声が掛かる。声の主は弦だった。全体の実行委員としてフル稼働していたため、大変だったのだろう。柴高祭実行委員の腕章はもうよれて、笑顔も引きつっていた。しかし、その時の歩には弦を気に掛ける余裕はない。歩は「柚木見なかった?」と弦に尋ねるが、弦は見てないと首を横に振った。弦は「どうかしたの」と心配するが歩は「ごめん後で」と、また走り出す。

 歩はまたピロティに戻り、今度は校舎の外を探す。校舎の周りを回った後、やっと見つけたのは校門前。ただ、一人ではなかった。大柄の男。四十歳ぐらいだろうか。背が高く、体格も良い。スラックスと半袖のワイシャツを着たきちっとした服装。しかし、顔を見た時の第一印象は「威圧的」だった。

 そして、その男が柚木の腕を掴んでいる。

「ほら、柚木。もう帰るぞ」

 男性が柚木にそう叫びながら、柚木の腕を強引に引っ張る。帰る、という言葉を使うということは保護者なのだろうか。だが、少なくとも良くないことが起こっていることは、歩でも分かった。

「柚木!」

 歩は呼び掛けに、柚木は反射的に振り返る。そして、悔しそうに、悲しそうに顔を歪ませた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 柚木は叫びながら男性の腕を思い切り振り払った。そして、男性の脛を思い切りつま先で蹴る。男が地面に崩れると、男が片手に持っていたスマホを奪い遠くへ投げ付けた。男性のスマホは昇降口前のコンクリートに着地し、カラカラと回転しながら地面を滑る。「お前……」と男性が狼狽する間に柚木は校門の外に駆け出していく。

 何が起こっているか、全く理解できなかった。ただ、この状況が、六月のワークショップの時と重なる。

 追いかけなければ。歩は男性を横目に通り過ぎ、柚木を追うため駆け出す。もう訳が分からない。けど、一人にしちゃだめだ。

 校舎の姿が離れていく。祭の喧騒が離れていく。生徒たちの歓声や、スピーカーから流れるギター、ドラム、ベースの音、カトケンの声が遠ざかる。体を照らしていた熱が一気に無くなる。

 そうして初めて、その熱がどれだけ温かかったのかが、分かった気がした。

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