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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第10章 目の前の壁が怖いんじゃなくて
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第10章 目の前の壁が怖いんじゃなくて 6

 別れ際、歩は松本先生に「なんで先生になったんですか?」と聞いてみた。すると、松本先生は困ったように笑いながら答えてくれた。

「俺は、お前みたいにしっかりとした学生じゃなかったよ。家の家事のことなんて考えてなかったし、毎日ぐーたらして、友達と遊んで、飯食って寝てただけ。けど、勉強とか、人に教えるのだけはうまかったんだよ。だから、それを活かしたかっただけだ。俺ができるのはそれだけだからな」

 じゃあまた学校で、と行って、松本先生は駅の方へと歩いていった。


 スマホを見ると、瑠美から五分ほど前にメッセージが届いていた。

『いま、買い物終わって、ここにいる。どのくらいで来れる?』

 送られた位置情報は美術館前の通りにあるビルを指していた。歩はスマホのキーボード入力で手際よく返信する。

『今から行く』

 カフェ前のおしゃれな小道から一本横にはずれ、美術館がある通りに出る。冷房の中にずっといたため、寒暖差で蒸し暑く感じると思っていたが、少し日が傾き始めたおかげでそこまで熱く感じない。通りには抜けるように風が吹いていて、じんわりとかいた汗を消し飛ばしてくれる。

 美術館のそばにある五階建のビル。そこが瑠美の言っていた集合場所だ。外から見える柱には茶色のタイル張りが施されており、作りからして古そうな建物だった。その一階にこれまた昔ながらの書店が入っており、瑠美たちはその書店の入り口の端で待っていた。

「ごめん、待った?」

「遅い! 返信が!」

 到着が遅れたことを謝ったつもりだったのだが、瑠美は返信が遅かったことに対して怒る。実際に遅れるよりも、その連絡がないことの方が瑠美にとってはダメらしい。

 柚木は、ヤンキー座りしているカトケンの横で体育座りしていた。いつもならスマホでもいじってそうだが、今日は店の中を眺めながらじっとしている。

「おい、藤井来たぜ」

 カトケンがそう声を掛けると、柚木はまるで警戒を解いたミーアキャットのように顔を上げてこちらを見た。柚木が立ち上がると、カトケンも一緒に立ち上がり柚木の頭をポンと優しく叩く。

「よし、じゃあ、そろそろ帰ろっか」

 弦がそう言うと、みんなで美術館の方を背に、もと来た道を戻っていく。歩と柚木は、横並びで三人の後ろに付いて行く。

「パンケーキ、おいしかった?」

「うん、まあ」

 そっけない返事ながらも、柚木の顔からは満足感がにじみ出ていた。それを見た歩もつい笑みをこぼす。

「瑠美姉って、いつもあんなに食うの? 一人だけパンケーキとパフェ食って、その後の買い物でも、たい焼き二つ食ってたよ?」

「ああ、瑠美、甘いの好きだからね。……ていうか、何? 瑠美姉って?」

「いや、パンケーキのお店で、反社の姉ちゃんって呼び方やめろって怒られて、じゃあどう呼べばいいのって話になったんだけど、メガネの姉ちゃんって呼び方もなんか嫌だったらしくて。最後に自分で瑠美姉ちゃんって呼びなさいって言われた。だから瑠美姉」

 なんか逆にカタギじゃない感じが増している気がするんだが、そこは大丈夫なのだろうか。ただ、何はともあれ、あの三人ともうまくやれたようで安心した。

 そう、うまくやれてしまうのだ。柚木は。


 しばらく歩くと駅前から伸びている通りが交わる交差点に着く。ここを左に曲がり、そのまままっすぐ進めば浦和駅だ。もうほぼ駅前ということもあり、車の量は美術館の周りよりずっと多い。信号の色が変わるまで、横断歩道の手前で車の行き交いを見ながら待つ。

 柚木の方に目を落とすと、柚木は今まで来た道をちらちらと見ていた。やはり、もっと原画展をじっくり見たかったのだろう。惜しむ気持ちと、少なくない悲しみが目に出ている。

 結局、今日、柚木は何も得られていない。

 歩は大きく深呼吸をする。不自然に心拍数が上がる。はぁ、面倒くさい。

「ちょっといい?」

 信号待ちの間、談笑している三人に声を掛ける。瑠美も、弦も、カトケンも、いきなりどうした、と言ったような顔で歩を見る。

「どうしたの、歩さん?」

「ああ、あの……」

 わたわたと何かを言っている歩を見て、三人は一層不思議そうな顔をした。心拍数はさらに上がる。ただ疑問を抱くような目を向けられただけで、自分が何か異物感を生じさせているのではと感じ、焦ってしまう。

 でも言わなければと、歩は言葉を続ける。

「……ちょっともう一回、柚木と原画展、行ってきていい?」

「え、今から行くって、もう十五時半だよ? 大丈夫?」

 瑠美が雑踏の音にかき消されないよう、しっかりとした声でそう言う。やばい、そこらへん考えてなかった。歩は思わず柚木を見る。

「……時間、十七時半ぐらいに帰れれば大丈夫そう?」

 歩は柚木に小さく尋ねる。聞いているのは時間だけではない。そのつもりはあるか、大丈夫なのか、と問いかけるように、時間を確認する。すると、柚木はゆっくり頷いた。

「大丈夫。私が家まで送るし」

 歩がそう言うと、瑠美たち三人は顔を見合わせる。そして、瑠美と弦は何か察したようにうなずきあった。

「分かった。じゃあ、俺たちはこのまま帰るね」

 瑠美も「じゃあ私も帰ろ」っと、弦に続けて言う。

「え、じゃあ俺ももう一回展行こうかな」

 そう言いながらカトケンは歩たちの方に歩み寄ろうとすると、弦がカトケンの服を後ろから掴む。

「バカ。お前も帰るんだよ」

「え、なんで?」

「カトケン、空気読んで」

 訳も分からないのに弦と瑠美からボコボコに言われ、カトケンはしっかりへこんでしまった。なんかごめん、カトケン。

 信号機が変わると、瑠美、弦、カトケンは横断歩道の向こう側に渡る。そして、三人とさよならをし、歩と柚木はまた美術館に向かった。

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