第10章 目の前の壁が怖いんじゃなくて 4
「びっくりしたー。近所のカフェに自分の生徒いるんだもん。なに? こっちに遊びに来たの?」
松本先生は歩の向かいに座り、ショルダーバッグを隣の席に置いて、自分で汲んだお冷に口を付ける。なぜこの人は、さらっと同じテーブルに着いているのだろうか。普通に別のテーブルに座ればいいのに。
「いや、普通にお出かけですけど」
「普通にお出かけってなんだよ」
クラスの人と出かける経験がなさ過ぎて、適当に返す文句すらまともに思いつかない。言い淀む歩を見て、松本先生は「いや、美術部も柴高祭の準備も休みだから、実行委員のやつらと来たんだと思って」と続ける。「いや……」と歩は反射で否定しようとすると、それと同じタイミングで、机の上にある歩のスマホが震えた。スマホを手に持ち画面を確認すると、瑠美からの着信であった。松本先生もそのことに気付き、真顔でこちらを見る。歩は少し気まずそうにしながらも、スマホを耳にかざす。
「もしもし、歩? 私」
ジャズのBGMが遠くに聞こえる中、瑠美の張りのある声が前に出る。
「……なに?」
「いまどこいる?」
「公園の近くのカフェ」
「あ、そう。パンケーキ屋があったからみんなで入ってるんだけど、来る?」
「いや、私はいいや。もうちょっと休んでる。あ、柚木の分のお金は後で――」
「いいって。お前はあいつの親か」
瑠美の突っ込みに歩は黙る。そう言えば、親に許可を取らず柚木を連れまわしているが、親に連絡した方がいいのではないだろうか、と今更ながら思う。
「まあいいや。パンケーキ食い終わったらちょっと買い物するから、それ終わったらまた連絡するね。じゃ」
瑠美はそう言って一方的に電話を切った。本当に騒がしい。歩はため息を吐きながらスマホをテーブルに置いて、松本先生に向き直る。松本先生は両肘をテーブルに着けながら、眉をひそめていた。
「やっぱり一緒に遊びに来てんじゃーん、嘘つき」
松本先生は口を尖らしながらそう言う。いい年したおっさんが何を子供みたいに、と思った。ただ、いい年してこんな感じで振る舞っても許されるのは、おそらく松本先生ぐらいだろうとも思う。
「先生ってここら辺に住んでるんですか?」
歩は話をそらすように松本先生にそう質問すると、松本先生は何も気にせず「ああ、そうだよ」と答えた。
「住んでんのは駅の反対側だけどね」
「結構遠くないですか」
「んなことない。歩いて、十五分ぐらいじゃないか?」
十五分といっても、この暑さの中で歩いて来るのは大変だろうに。そんなことを思っていたら、女性の店員がアイスコーヒーを持って、歩と松本先生のテーブルに近づいてきた。
「お待たせしました。アイスコーヒーです。どうぞ」
店員が声を掛けると、松本先生はすっと反射的に背筋を伸ばす。アイスコーヒーを受け取ると「ああ、あざます」と感謝の言葉を小声で言う。店員さんがカウンターに戻る時も、松本先生はその後ろ姿を目で追う。ああ、そういうことですか。
「……なんだよ?」
歩の目線に耐えられず、松本先生は照れ隠しにそう聞いてしまう。
「いやあ、何でもないですよ、別に」
歩は察したことを悟られないよう視線をそらし、グラスを持って刺さったストローを口に付ける。学校の先生がお気に入りに店員さんのために、ちょっと遠目のカフェに来てるなんて。思わぬことを知ってしまった。
「よく来るんですか、こちらには」
歩は話をそらすつもりでそう言うと松本先生は動揺を抑えるように咳払いをして、メガネの位置を直した。
「いや、別に……。お気に入りのカフェではあるけど、普段はあんまりだな。まあ、普通に忙しいし」
「たぶんここに来るのは二、三カ月ぶりだな」と松本先生はなんでもないように言う。高校の先生は夏休みだからってお休みであるわけではない。学校の裏の仕事や、部活もあるだろう。おそらく今日休みを取れているのも、美術部や柴高祭実行委員が休みだからだ。そんな貴重な休日に、生徒とこういう風に相対するのは、気が滅入ってしまわないだろうか。
「なんか、すいません。お休み中に」
「え? どうした、いきなり?」
「いや、休み中に生徒と会うの、嫌かなっと思って」
歩がそう言うと、松本先生は一瞬黙った後、「ああ、そういうこと」と納得したように言う。そして、小さなため息を一つつく。
「ほんと藤井は気にしいだな。別に大丈夫だよ、俺は学校と私生活であんまり変わんないから。気にすんな。休みの日に生徒と遭遇なんてよくあることだし、藤井と遭遇したぐらいで気が滅入ったりせんよ」
「それにだなあ」と松本先生は力を込めて続ける。
「部活とかよりも、研修とかで休みが取れないことの方が腹立つんだよ! なんだよ、あのおじいちゃん先生にずっと怒られ続けるやつ! 俺たち教師だぞ! 介護職じゃねえんだよ! しかも受講報告みたいなのも作らなきゃいけないし! マジで普通に生徒と授業してた方が楽だわ!」
握りこぶしを作りながら小さく叫ぶ。高校教師、突然の心の叫び。いや、私にそんな愚痴聞かされても。
そして、松本先生は、だから、と続ける。
「休日に藤井みたいな真面目な生徒と遭遇するなんて、そんなに苦じゃないわけ。まあ、そこは遭遇する生徒次第なところは確かにあるけどな」
そう言いながら、松本先生はアイスコーヒーのグラスに口を付けた。歩はまた気を遣わせたことに気付き、視線をまた手前に落とす。すると松本先生は「いや、だから気にすんなって。そこまで気にしいだと逆に引くぞ」と苦笑いをする。また気を遣わせてしまい、歩はさらに申し訳なさを感じた。
その後、松田先生が「それよりさ」と何か聞きたいことがある様子で話を切り出した。なんだろう、と思い、歩は顔を上げる。
「お前、隈やばいぞ。パンダみたいになってる」
「……」
歩は無表情で松本先生を見つめる。さっきまで申し訳ないと思っていたのに、なぜこの先生はそれを台無しにするのか。こんな風に空気が読めないから、松本先生は生徒から舐められるのだ。




