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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第1章 歩はさっさと終わらせたい
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第1章 歩はさっさと終わらせたい 3

 画材の整理が終わった後、歩は部活に参加せず、松本先生と一緒に職員室へ向かった。前々より相談していた、退部の件の話をするためだ。

「――本当に辞めちゃうの?」

 パイプ椅子に座る歩を見て、松本先生はそう問い掛ける。

「いやぁ、塾に行けないから大学受験の勉強したいのも分かるけどさ……。夏休み前に辞めちゃうのはなぁ……」

 松本先生は「うーん」とうなりながら細い腕を組んで考え込む。退部をどうにか止められやしないかと、言葉を探しているようだった。

「まだ二年だし、別に辞めなくても良くないか? せめて、柴高祭が終わるまではいたらどうだ。九月末から勉強を始めても遅くないだろ? 言っとくがな、俺、お前が成績いいこと、知ってるんだぞ」

 先月買い直したというメガネをくいっと持ち上げながら、松本先生は得意げにそう言う。もう四捨五入をすれば四十となるような年齢になるのに、生徒に対してそんな得意げな態度をとってくる先生はこの人ぐらいだ。

「いや、家のこととかもしなきゃですし」

「まー、そー……。でもなぁ……」

 前々から退部の件は話していたが、松本先生は毎回どうにか辞めないようと説得してくる。部活を辞めるだけなのになんでこんなに構ってくるんだろう。歩は松本先生のこのしつこい説得が少し嫌になってきていた。

「気遣ってくれるのはうれしいんですが、二年に入ってからあんまり行けてないし、辞めても問題ないですよね?」

「じゃあ辞めなくてもいいだろ? 退部しなくてもいいじゃん。どうだ、今年こそ柴高祭で何か作品作ってみたらどうだ? 去年は結局何も出さなかっただろ」

「いや、だから受験勉強とかがあるんですって。絵を描きたいとかそういうモチベーションないんですよ」

「描き始めればやる気なんて後からついてくるって。そんでいつの間にか続いているもんだよ」

「そんな筋トレみたいに言わないでくださいよ。てか、先生、国語の先生だし、絵なんて描いたことないでしょうが」

「描かなくたってそんぐらい分かるよ、アイム、アンダースタン! ユー、アンダースタン?」

「無理に英語を使わないでくださいよ、国語教師の分際で」

 先生と生徒と思えないような態度でふざけたやり取りをしていると、他の先生から「何騒いでいるんだ」という痛い視線を集めていることに歩は気が付く。しかし松本先生はそれでも構わず、辞めなくてもいいんじゃない? と説得を繰り返す。


 松本先生の言う通り、今の歩の成績なら九月か十月ごろから本格的に受験勉強をしても間に合うのは確かだ。家の家事があるというものの、弟の晴信ももう中学生であまり手がかからなくなり、やることと言えば洗濯と掃除、ご飯の準備ぐらいだ。受験勉強が加わったとしても、今まで通りの頻度であれば部活に参加することも不可能ではない。

 それでも歩は夏休み前に部活を辞めたかった。夏休みに入ると文化祭で開催する作品展示会の準備が始まるからだ。毎年九月ごろに開催される文化祭、通称「柴高祭」で行われるこの展示会では、各美術部員が一つ以上の作品を夏休み中に制作して展示する。作品の形式は自由のため、普通の絵から立体の作品まで各部員が趣向を凝らして制作する。

 歩は去年、家庭の都合を理由にして、この作品制作を辞退した。もともとマネージャーとして入部した身でもあるし、何より歩にとって、文化祭は人が無駄に多い、億劫なイベントとしか思っていなかった。しかし、そのせいで他の部員に余計な気を遣わせてしまった。準備期間中は部活に行って他の人が柴高祭の準備をする中、一人道具の整理だけをして帰る。当日も、展示作品のない歩はただ一人、展示会の受付をやり続ける。他の部員も、仲間はずれな歩をどうにかしたい気持ちはあるのだが、やらせられることは受付ぐらいしかない。結果、最後まで互いに変に気を遣い合う、非常にいづらい空間となってしまった。

 今年もあれを繰り返すのは、なんとしても避けたい。どうせ週一しか参加しておらず、来ても来なくても変わらないような状態ならば、夏休み前に部活を辞めて、そんな状況になるのをなんとか回避しようと歩は考えていた。さらに柴高祭の準備が無くなれば、夏休みの時間を勉強に充てることができる。一石二鳥だ。

 高校に入学した時から、歩は大学受験に向けてコツコツ勉強を続けている。父に塾のお金を出させないようにするためだ。自分のために家へ負担をかけるのは気が引けた。歩の志望校は理系の大学で偏差値もそこそこ高い。塾なしで合格するにはかなりの努力がいる。だから歩は真面目に授業を受け、自習も欠かさず行い、毎月のお小遣いで参考書を買い、勉強した。結果、今では学年でも上位の成績をとれるようになり、このままいけば志望校にも手を伸ばせるほどになった。

 頑張る理由はそれだけではない。狙いは給付型の奨学金だ。歩は大学進学後、一人暮らしをしようと考えていた。大学に行くにも、一人暮らしをするにもお金が必要だ。奨学金をもらえるよう勉強をしっかりしなければと、高校入学の時から一人、学校の自習室と家で勉強に励んできた。

 早く一人暮らしをしたい。自分で住む場所も決められるし、周りに気を遣わなくて済む。大学で技術系の職能を身に付けられれば、職に困ることもないだろう。

 その通過点である高校は、歩にとっては静かにやり過ごしたい場所だった。クラスではカースト上位の生徒に目を付けられないようできる限り目立たないように過ごし、授業は真面目に受け、家で勉強した。可能な限り、波風立たせず過ごしたかった。

 美術部の退部も、このイベントごとに迷惑を掛ける状況を早くなくしたかったからだ。


「――私の中では辞めるつもりなんですけど。お願いですから、夏休み前に退部させてください」

 そう歩がとはっきりと意思表明をすると、松本先生は困ったような顔をしてため息をつく。そして机の上にある提出済みの退部届を見つめる。ふん、と短くため息をして、先生はもう一度、歩に向き直った。

「……本当に辞めるのか?」

 松本先生は真剣な目で歩と向かい合い、再びそう問いかけた。

「まあ。確かに家のこともしながら部活のことやるの、しんどいよな。他のやつらともあんまり仲良くなれないし」

 でも、と松本先生は続ける。

「それじゃあなんで、高校入って、美術部に入ったんだ?」

「瑠美に半ば無理やり入れられたんですけど」

「まあそうなんだけど……」

 そう言って松本先生はまた黙り込む。

 美術部を退部すると言って、松本先生が歩を止めることは大体想像ができた。一年の時に、部活を時々休み理由を聞かれて、家の事情を話すと「えらいなぁ……、ええ子やなぁ……」とまるで安っぽい感動ドラマで涙するおばちゃんの様に目を潤ませて、それ以降、おせっかいなぐらい歩に気を掛けてくれる。しかしそのおせっかいは単なる興味本位のものではなく、大人として、親身に寄り添ってくれようとしているものだとは感じていた。

「大学は一人暮らししたい、って前に言っていたよな。たぶん、家というか、親御さんから離れたいからだと思うけど。でもそういう風には見えないんだよな。すごい家のことも頑張っているように見えるから」

 歩は松本先生の言葉に応えず黙り込む。何か納得がいかないのに、それが言葉にできない。

「こうゆーの、押し付けになるかもだけど……。まだ学生のうちに、何かしたい事があるんだと思うぞ。俺は」

 たぶんな、と松本先生は付け加えながら、机に肘を掛け、歩の顔をみて少し微笑む。

「それなら、まず、部活でも何でもいいから、何かやった方がいいって。俺は部活を選択してくれると嬉しいけど」

 松本先生のその言葉を最後に、二人は沈黙する。壁際に並んだプリンターの紙を吐き出す音が浮き上がり、耳に響く。

 その沈黙を破ったのは、廊下から職員室に入って来た、体操服に上だけジャージを羽織った女子だった。

「松っちゃん! 十六時から進路相談じゃないのー? ずっと教室で待ってたんですけどー」

 は!? と松本先生は壁にかかった丸形の時計を見る。時計の針は午後四時ごろを指していた。「しまった! わりぃ!」と松本先生は叫びながら椅子から飛び上がり、積み上げられたプリントやファイルの中からピンク色のフラットファイルを引っ張り出して、職員室を出ていく。去り際、松本先生は一度止まり歩の方を振り向いた。

「この話はまた今度な。退部届は預かっておくから。まあワークショップもあるし、夏休み前までにもう一度考えておいてくれ」

 最後に「ワークショップも頑張ってな!」と親指をぐっと立てながら言い残し、松本先生は歩と自身が座っていた椅子を置いて去っていった。椅子は数回回転した後、また松本先生の帰りを待つかのように職員室の入り口の方を向いて止まった。


 松本先生がいなくなると、職員室の中には忙しさと息苦しさを感じる音であふれていることに気が付かされる。事務処理をする先生のタイプ音、印刷機が授業用のプリントを次々と吐き出す音、見回りから帰ってきた生活指導の先生のため息、電話越しに保護者へお辞儀をする先生の謝罪の言葉。そしてそこに教頭先生と偉そうなおじさんたちとの談笑がスパイスとして加えられている。

「はい、はい。すみません。こちらで確認致しますので……」

 大人が謝る声を聞くとなぜがいたたまれなくなる。これらの気分が底に沈んでいくような無機、有機の音が一つ一つ重なり合って、この重苦しい空気を作っている。

 松本先生の目の下にある深い影。それは松本先生も他の先生と同じく大変で、限界に近いことを物語っている。そんな状態でも松本先生は明るく、親身に歩に構おうとする。

 正直、やめてほしいと思う。どうせ辞める人間に、松本先生の時間をかけて欲しくない。構うだけ無駄だ。

 美術のワークショップは六月三週目の土曜日に終わる。それから柴高祭の準備が本格的に始まる夏休みまでの間は、美術部での目立った活動はない期間となる。そこが退部を宣言する最後のチャンスだ。

 ワークショップが終わってから、もう一度美術部を辞めると先生に伝えよう。職員室の真ん中で、歩は決心が揺らがぬようそう言い聞かせた。

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