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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第10章 目の前の壁が怖いんじゃなくて
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第10章 目の前の壁が怖いんじゃなくて 3

『世界絵本原画展』には、本当に多様な絵本が展示されていた。動物たちが一緒に暮らす街の日常、男の子が船にのって世界中を旅する冒険譚、奇抜な色合いで描かれた理想の王国の物語、フランスの戯曲が原作の悲劇、時空が切り裂けている物語、戦争がテーマとなった窮屈で辛い物語。これぞ童話というものから大人が見てもぎょっとするような内容のものまで、様々な絵本が展示されていた。画材や表現も様々で、水彩、色鉛筆など小学生でも扱う画材で作られたものから、油彩、アクリル、版画、水墨画、コーラジュ、CGなど画材も様々だ。その道の人から見たらたまらない展示会なのだろう。ただ、一般の高校生からしてみると「なんじゃこりゃ」というのが正直なところだった。一般的な童謡のような内容のものはまだ理解できるが、もはやアートと化した絵本については全く理解ができない。

 そんな内容の展示会なので、高校生組はすぐに飽き、館内の順路をどんどん進む。そんな高校生組を見て、柚木は絵本を閉じ、ペースを合わせるように順路を進んでいってしまった。他の展示は軽く見る程度で、特にじっくり見るわけでもなく、気になった絵本もちょっと開いてみる程度。高校生組のペースを合わせるように進んだ結果、柚木と歩も三十分ほどで外に出てしまった。


 美術館を出た後、建物の裏手の道に周り真っすぐ進む。表の通りに比べるとこぢんまりとした道だ。くすみカラーのタイルで舗装された道、昭和を感じる古いデザインの街灯、四方に走る電線、両脇には三階建てほどの低層マンションや一軒家、コンビニ、定食屋が並んでいる。おしゃれさと生活感のバランスが心地よく、来る時に歩いてきたおしゃれ道よりも、歩はこちらの方が好みだった。

 しばらく歩き、道沿いの壁が竹垣に変わる。暗い色のビルは消え、空を走る電線もなくなり、空の青と木々の緑のみとなる。お寺と小さな公園が並んだその緑の区画は、街へ自然の空気を流していた。

 とりあえずその公園に入り、一回休憩することとなった。


「っん!」

「おい、ちゃんと俺のところ投げろよー」

「うるさい! お前が走ればいいじゃんか!」

 柚木とカトケンが立派なグローブを付け、キャッチボールをしている姿を見ながら、歩たちは大きな樹の周りを囲った円のベンチに座って一息つく。カトケンは公園で遊ぶつもりでグローブを持ってきていたのだろうか? 何か大きいバッグを持って来ているなと思っていたが、これが目的だったのか? と歩はぼーっとした意識の中で思った。

「こんな暑い中、よくキャッチボールなんかできるな……。やっぱり子供ってすごいね」

「一人ガチガチの高校生だけどね……」

 弦がタオルハンカチで汗を拭きながら呟き、歩がそれに小さく突っ込む。瑠美がそれにさらに「いや、あれも子供だから」と毒づいた。

「で、どうだったの、少年は? すぐに出てきちゃったけど」

 瑠美はそのまま柚木の様子について歩に聞く。歩は一つ間を開けて答えた。

「なんか、気になった絵本はあったみたい。けど、すぐに見るの、やめちゃってた」

「え、なんで?」

「……私たちがさっさと出て行くのを見て、見るのやめちゃったんだと思う」

 歩は正直に答えると、弦が「なんかゴメン」と謝った。それに対し瑠美は、「別に勝手に見てれてばよかったのに」と不貞腐れる。柚木が本当に何を思っていたのかは分からない。見る限り、ちょっとは楽しんでいたようには見えた。ただ、見たいものが見られず、気を遣い、ただ気持ちが削がれただけになっていないかだけ、少し心配だった。

 向かいの道にあるお寺から吹く風が、入口を通って公園を抜ける。木々とお寺の冷たさを含んだ風は、歩の肌ににじんだ汗を揮発させ、体の火照りを奪っていってくれる。寝不足のせいか、体温が急に下がるとついうとうとしてしまう。意識が遠くなりつい体が前後に揺れる。

 突然、ドン、と背中に衝撃を感じた。瑠美が歩の背中を平手で叩いたのだ。

「私たち、ここら辺のお店とか回ってるから、あんたどっかで休んでたら?」

 瑠美の平手で急に意識が覚醒し、不自然に背筋が伸びる。

「いや、いいよ、私も行く」

「いや、そんな船こきながら言われても。あんたこの後、歩けるの? 嫌だよ。いきなり倒れたりとかしたら」

 そう言われると歩も反論ができず、渋々了承する。

「じゃあ、柚木とどこかのカフェとかに入ってる」

「いや、柚木もうちらが連れて行くって」

「いやあ、さすがにそれは……」

 そう言い掛けると「めんどくさいなもう」と瑠美がイライラした口調で言いながら立ち上がった。

「カトケン、少年、ちょっとここら辺の店回りたいから、一緒に行こ」

「え? おお、分かった」

 瑠美がカトケンたちに声を掛けた後、歩の方へ向き直す。

「病人みたいなやつに付いてこられても迷惑。一人でそこら辺のカフェとかに入って寝てろ。あ、弦君も、それでいいよね」

「ああ、いいよ」

 弦も瑠美に同意しながら立ち上がる。

「柚木はカトケンと遊んでるから大丈夫だよ。ほら、どっか行け」

「何かあったらメッセージで連絡して、歩さん。じゃあまた」

 そう言って、瑠美と弦はカトケン、柚木と一緒に公園を出て行く。去り際に、柚木は歩の方をちらりと見る。何か言いたげであったが、最後は小さく手を振って、カトケンと一緒にどこかへ行ってしまった。

 そして、緑の公園に残されたのは、歩一人となった。

 休め、と言って放られても、どこに行けばいいんだ。とりあえず歩は公園を出た。外で休むのはちょっと熱すぎる。どこか一寝入りできそうなカフェはないかと、歩はスマホを取り出し、マップを検索する。すると、来た道を少し戻ったところにカフェがあった。くすみカラーのタイル道を戻ったところにある、小さなカフェ。白く塗装された壁に木製の扉。入口の前には『今日のおすすめ』といちおしメニューがいくつか書かれた黒板のスタンド看板が置いてある、イタリアンな雰囲気のカフェだ。

 そんなおしゃれなカフェ、普段なら絶対に入らない。しかし、靄が買った意識は、そんな必要の無い恥じらいを忘れさせる。

 扉を開けると、まずソフトなジャズ音楽が耳に流れ込む。次に感じるのはコーヒーの香り。店内はおしゃれな調度品と手描きの壁画で溢れている。カウンターにはブラウンのカフェエプロンを付けた二十代ぐらいの女性が、グラスを整理していた。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

 店員の女性に案内されるまま、歩は一番奥のシート席に座る。木の厚い天板のテーブルの上にはパウチ加工がされたハンドメイドのメニューが置いてある。メニューにはコーヒー、紅茶などカフェメニューと混じって、パスタなどの食事や、ワインなどもある。純粋なカフェというよりは、食事やお酒も出すカフェレストランのようなお店らしい。

 お冷が出てきたところで、アイスティーだけ注文した。

 冷房が効いた木の香りがする空間は、休息(睡眠)にはぴったりな場所だった。アイスティーが届き、残り三分目ぐらいまで飲んだところで歩はグラスを机の端に寄せる。店員さんの様子を見ようとしたが、食器が飾られた棚で店員の様子が見えない。なら、あちらからも見えないだろう。いけるか、と歩は腕にはタオルハンカチを乗せてその上に頬を乗せる。タオルの肌触りが心地よい。早く眠りに入りたい。ただ、なかなか眠りに入れない。浅い眠りのような状態が、ずっと続く。



 模試、国語は良くなかったな。記述の練習が全然できてなかった。出題文は理解できていても、全然回答にまとめられない。何回も書き直してしまう。あれでは最後まで問題解けない。練習しないと。

 英語はペース配分、下手すぎ。配点が多い長文に時間をかけないといけないのに、前の小問に時間をかけすぎた。間違えるリスクも少ないし、最悪落としても点数少ないのだから、見直しはほどほどにもっと長文に時間をかけるべきだ。

 数学と理科は解けない問題じゃないのに、焦ってしまった。焦ってしまうのはどうすればいいのだろうか。受験までに慣れるものなのだろうか。大丈夫なのか、本当に。


 柚木の絵本も、本当に終わるのか。最初は夏休み中までのつもりだったが、この流れだと、夏休みが終わった後も手伝わないと無理だろう。柚木の母の誕生日は十月と言っていたが、間に合うのか。柴高祭の準備も、自分だけ遅れてる。早く準備しないと。間に合うのか。


 そう言えば、母の件もすっと保留のままだ。どうしよう。


 保留された続けた問題が積み上げられて、頭の中を占領する。



 歩は汗を大量にかいた状態で目を開ける。思案していたうちに、いつの間にか気を失っていた。

 冷房がしっかり効いている店内なのに、体は火照り、大量の汗が服に滲みている。熱でもあるのかと思ったが、体の熱はすぐに冷気に奪われて、いつもの体温に戻っていく。残るのは汗だけとなり、それが気化していくことでさらに体の熱を奪う。むしろ肌寒い。

 歩はタオルハンカチで額と首周りの汗をしっかり拭う。スマホの画面を見ると、時刻は十四時四十三分。カフェに入ったのが十四時過ぎだったので、寝ていたのは一時間弱ほど。思ったより時間が経っていなかった。あんなに長く感じたのに。そのままスマホのロックを解除し、メッセージアプリを開く。瑠美たちからは特に連絡はない。そのあとはスマホをいじりながら、お冷とアイスティーを飲みながら暇をつぶす。あと三十分ぐらいゆっくりしたら、瑠美たちに連絡しよう。そんな風に思い始めたころ、カフェの入口からドアベルの音が聞こえてきた。

「いらっしゃいませ、あ、こんにちは。いつものやつで大丈夫ですか?」

「ああ、ハイ、大丈夫です。ありがとうございます」

 店員の挨拶に答えたのは男性の声だった。瘦せ型で、半袖の白いシャツにベージュのチノパンを履いた三十代ぐらいの男性。肩に生地がよれたショルダーバッグを掛けていた。店員さんとのやり取りから察するに、おそらく常連さんなのだろう。店員さんとのやり取りを終え、テーブル席が並んだ方に向くとフチなしの四角い眼鏡と、黒色の髪に混じった白髪が、窓からの太陽光できらりと光った。その人は歩が座っているテーブル席の方へ歩いてくる。

 歩は気にせず、また目線をSNSのタイムラインに戻す。指で投稿を流して情報の海を泳いでいると、その外から「あ」という声が聞こえた。入ってきた男性だ。歩の席の近くで立ち止まっている。どうしたのだろう、と思い歩は男性の方に顔を上げる。

 そこには、歩がよく知っているお人好しのおっさんが立っていた。

「藤井……じゃん」

「先生……じゃん」

 松本先生との突然の邂逅に、歩は思わず反応をそのままオウム返してしまった。

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