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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第9章 全国統一模試 記述式
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第9章 全国統一模試 記述式 2

 一緒に学校を出た後、柚木は「姉ちゃんいなくても別にできるし」と一人で図書館へと向かっていった。薄々、歩を気遣って早めに切り上げたのだろうということは気が付いていた。自分のことで手いっぱいになった歩を見て、負担をかけてはなるまいと思ったのだろう。

 その気遣いに、歩はどう対応したらいいか分からない。半ば無理やり押し付けられたこととは言え、絵本作りのサポートは一度受けた仕事だし、それにちゃんと集中できていない状況は、柚木にも申し訳ない。ただ、その柚木本人から今は大丈夫と断られてしまった。自分が何もできない、という罪悪感だけが残る。

 しかし、そんなこと気に掛けている暇もなく、やることはどんどん押し寄せる。二日なんてあっという間に過ぎる。

 そして、とうとう模試の日を迎えてしまった。


 当日、二日後の日曜日、六時前。歩は自分で設定した目覚ましが鳴る前に目を覚ました。といっても、ぐっすり眠れたわけではない。昨日は早めに床へ入ったが、なかなか眠りに入れなかった。昼間は一日、家事や勉強をしていたためちゃんと疲れているはず。ただ、頭だけが無駄に冴えていき、結局、眠りに入ったのは三時ごろだった。

 洗面所の水を手で顏に当て、疲れた目を癒す。タオルで顔を拭き終えると、朝ごはんの前に着替えを済ませるため、歩はまた自分の部屋に戻る。部屋着を脱ぎ、制服の半袖ブラウス、スカート、靴下、最後にえんじの紐リボンを着け、すぐに出られる準備をしておく。そして、スクールバッグの中身を確認し始めた。

「財布、スマホ、イヤホン……は、いつも通り。いつもと違うのは、受験票と参考書……だけだよね、いいよね。筆記用具は受験と同じく鉛筆……」

 本当に必要なのは受験票と筆記用具ぐらいだ。しかし、それがなおさら歩を神経質にさせる。忘れ物がないことを何度も確認した後、電車の時間をスマホで確認し、全ての準備が整ったところでリビングダイニングへと向かう。

 ドアを開けると、味噌汁の匂いが鼻を突く。塩分と、大豆の成分が混ざった匂い。それだけの匂いだ。

「あ、歩。おはよう」

 薄暗い中、キッチンで父が寝巻姿で味噌汁を温めていた。

「部屋の電気点けなって」

「いや、今日晴れてるから。けどごめん。点けてくれるか」

 歩は黙って電気を点ける。そして、父の方を見ないまま食器棚からお椀を取り出し、ご飯をよそい始める。

「今日、模試だよな。その……いけそうか?」

「……」

「いや、調子はどうかなと」

「普通」

「そうか」

 いつも通り、食事をしながら父と淡々としたやり取りをする。頭は模試のことでいっぱいなのに、父のこの石橋を叩くような話し方が、心のささくれに引っ掛かる。こないだ父の方から謝ってくれたものの、まだうまく話すことができない。それはおそらく、歩が謝っていないからなのだが。

 朝ごはんを食べ終えたら、食器をシンクに下げ、そのまま部屋に戻りまたバッグの中身の確認をする。それでも電車の時間までまだ余裕があるため、ベッドに寝ころび時間を潰す。


 七時半。時間になると、歩は再三中身を確認したスクールバッグを持ち、玄関から外に出た。いつもの川沿いをいつもの制服姿で歩き、いつもの大通りに合流する。いつもはここで右に曲がるが、今日は左に曲がる。方向が違うだけで、いつも歩く道とは違う雰囲気となる。景色も、通りすがる人も、今までと何もかもが違う。

 バス停に着き、歩はベンチに座る。参考書に目を通そうと思ったが、頭に入ってこないため諦めた。さっさとアウトプットを終わらせて安心したい。正直、そんな気持ちだ。

 到着したバスに乗り込み、一番近くのJR駅まで乗っていく。少し車に酔ってしまった。胃の中で胃液と一緒に朝食がぐるぐる回って、喉まで昇ってきては降りてを繰り返す。体の中を刺激しないようゆっくりと歩きながら駅に入り、改札をくぐる。そして階段を下ってホームに出た。

 電光掲示板に自分が乗る予定の電車があることに、少しほっとする。

 電車の中でイヤホンを取り出し耳に着ける。音楽を流すが、あんまり集中できない。音楽に集中する必要はないのだが、何か別のことに集中して気をそらしたい。

 冷房が効いているバスや電車の中にいたはずなのに、脂汗がずっと、額や背中を湿らせていた。


 着いたのは大宮駅。歩は電車から降りて電車のホームから改札口へ続く階段を、人込みの間を縫いながら上っていく。改札を出るとタイル張りの大きな連絡通路が東西に延びており、道の真ん中では地方の物産展コーナーが並んでいた。道の脇のガラス扉からは併設されているショッピングモールにアクセスでき、おしゃれな化粧品や服がウィンドウに飾られている。

 ただ、歩の視界にはそんなもの入っていない。あるのはスマホに写された会場の地図と、会場へと続く道路だけ。連絡通路の階段を降り、駅を出てそのまま目的地に歩く。イヤホンの向こうから、繁華街に流れる音楽や雑踏の音が薄く聞こえる。

 地図上の自分を示す矢印が目的地の目の前で止まった。顔を上げると、そこには高層のビルが建っていた。弦が通っている塾の大宮校。少し古めだが、弦が通っていたところよりも一回り大きい。本当は近くの会場が良かったのだが、一般応募ではここしか空いていなかった。スマホの時計を確認すると、まだ試験開始三十分前。十分余裕がある。

 ビルの自動ドアをくぐり、受付のスタッフに受験票を見せると何か話しかけてきた。そこでイヤホンが着けっぱなしであることに気付き、急いで耳から取る。感じ悪いやつと思われていないだろうかと、少し気になった。

「四階の402の教室へ行ってください」

 スタッフの指示に従い、歩は階段を上っていく。壁や天井は学校に似ているが真新しく、床はタイルカーペット。普段と違う環境に体がどんどん強張っていく。

 プラスチックの室名札に「402」と書かれた教室に入る。教室内には樹脂とプラスチックの白い机が並んでおり、すでに十名弱の人がいた。すでに地歴公民のうち一科目の受験を終えた生徒たちだろう。歩は地歴公民のうち一科目しか受けないため一時間遅めに来たが、二科目受ける人はもっと早くに来ている。私服や、中には歩と同じく制服で来ている人もいた。

 歩は黒板や机に書かれた受験番号を頼りに自分の席を見つけて座る。時間はまだ九時半、歩は参考書を開き、テスト直前のチェックシートに目を通そうとするが、これもまた頭に入ってこない。脂汗が額と背中を湿らせている。横隔膜がうまく下がって行かない。何か液体状のものがお腹のあたりに溜まっていて、横隔膜の行先を邪魔している。


 午前は地理と国語、午後は英語、数学二科目、理科二科目。受験するのはこの五教科七科目だ。この中から志望大学の受験に必要な科目が判定に使われる。歩の第一志望は国公立のため、受験科目全てが判定に使われる。


 午前中、地理は思ったより解けたことに驚いた。苦手な暗記科目であるし、理系の大学では配点が低くなりがちなので、そこまで対策に時間を割いていなかったのだが、おそらく、逆に参考書を絞って集中して仕上げたのが功を奏したのだと思う。国語の手ごたえは、何とも言えない、というのが本音だ。マークシート式の現代文は得意なのだが、記述だと曖昧な答え方になってしまう。記述すべきことは分かるのだが、文章にうまくまとめられず、指定文字に全く満たない回答になったり逆にオーバーする分量になってしまって、調整に時間を食ってしまった。

 午前の模試が終わり、生徒たちが外のコンビニに昼食を買いに行く中、歩はバッグからおにぎりと水筒を取り出す。朝、父が作ってくれていたものだ。一口食べると口の中で米がほどける。ただ、甘さはあまり感じない。冷えた小さい粒たちが、口の中で転がっている感じ。なぜか巻かれた海苔の香りだけが鼻に残る。口蓋に張り付いているからだ。

 さっさと昼食を済ませると、歩は体を守るように机の上に突っ伏す。午後の科目は英語、数学、理科。暗記より集中力が重要。そのために目を休めたかった。

 そんな中、他の受験者の談笑が聞こえてくる。午前中どうだったとか、次やばいとか、そういう声が。友達がいるということは、この塾の塾生だろうか。緊張感が全く感じられない。おそらくいつもの塾の延長線みたいな感覚で受けているのだろう。

 そんな人たちの愉快そうな声を聞いていると、お腹に溜まっていた液体がドロドロになって、渦巻いて、口から溢れ出そうになった。


 結果から言うと、午後はあまり良くなかった。英語では配点が多い長文読解にたどりつくまでに時間がかかり、最後まで解くことができなかった。数学では長い計算の記述問題で途中ミスが発覚し、その修正に時間が取られ、以降の問題は部分点狙いの中途半端な回答となってしまった。理科に関してはあまり記憶がない。

 もちろん、全ての科目で回答はできる限り埋めた。ただ、手ごたえとしてはなんとも言えない、最悪なものだった。


 十九時。試験終了の鐘が鳴り、答案用紙が順番に回収される。確認が終わり試験官から終了の旨が伝えられると、受験者は一斉に立ち上がり帰り支度をし始める。歩もそれにつられて、ゆっくりと帰る準備を始める。

 建物の外に出ると、空には紺と淡い橙のグラデーションが広がっており、薄っすらと星が見え始めていた。脂汗で湿っていたインナーは夕暮れの風ですぐに乾き、心地のよい肌触りになる。

 大宮駅に向かいながら、付近の建物を見回す。大きなショッピングモール、銀行、化粧品店、ファーストフード店、飲み屋街。大宮駅を降りた時には気付かなかったものが、たくさん目に入ってきた。

 大宮駅に着き、中のお店や物産展を横目に見ながら改札をくぐる。ホームの屋根にぶら下がっている蛍光灯に灯りが点き、その無機質な光で古びたベンチと地面のコンクリートを照らしている。電車に乗り込み、歩は一番端の席に座る。席の衝立にもたれ、腕と頬で冷たさを感じながら、遠くにいる高校生たちの談笑を聞き、目を閉じる。


 高校生活、いろいろ頑張って、勉強して、我慢して、こんなもんか。

 本当にこのまま勉強して、志望校に行けるのか。不安になる。


 電車を降りて、改札をくぐり、駅前のバス停でバスを待つ。イヤホンは着けているが曲を流す気にならない。ただ、息を深くしながら遠くを見る。線路沿いに立っている街灯を数えるように、ただ、目で遠くを追っていく。

 バッグの中に入れていたスマホが震える。取り出すと、瑠美からのメッセージだった。

『https://xxx.xxxx.xxxx.jp/museum/art-museum/exhibition/index.html』

『明日、打合せじゃなくて、ここ行くから。来て』

 瑠美の強制招集メッセージ。歩は機械的に『考えとく』と返す。今はあまり頭が働かない。


 時間も、体力も、お金も、もうあるかも分からない自分の楽しみも、その時にしかできないことも諦めてきたのに、結果は微妙。

 どうすればいいんだろう。そんな言葉がポツンと、空回った頭の中の、ど真ん中に浮いていた。

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