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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第8章 どうしようもない。それでも弦は為すべきことを
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第8章 どうしようもない。それでも弦は為すべきことを 2

 学校に到着し、車を降りると歩はそのまま図書室へ直行した。弦との作業は昨日と同じく図書室でやることになっている。

 図書室に着いたが、中には誰もいない。ただ、席に近づくと椅子の上に弦の物らしき鞄が置いてあった。外しているのだろうか。

 すぐそばの窓は開いていて、そこから吹き込む風が防炎ラベルの付いたベージュのカーテンを揺らしている。歩は自分のスクールバッグを別に椅子に置き、開いた窓に歩いて近づく。図書室は東向きに窓があるため、午後は日差しが入ってこない。電気なしだと少し薄暗いが、その冷たさは夏では逆に心地よい。図書室の窓からはちょうど昇降口前のスペースと校門を見下ろすことができる。しかも柴高はちょっとした高台の上にあるため、周辺の住宅街も窓一面に広がる。誰もいない図書室で見る風景は、解放感が一入(ひとしお)だ。

 そんな景色を眺めながら窓から入る風で涼んでいると、遠くの方から、ひずんだ電子音に乗って歌声が流れてきた。音楽室の方からだろうか。おそらく誰かが、バンドの練習でもしているのだろう。

「あ、歩さん、お疲れ」

 背中の方から、いつもの柔らかい声が聞こえてくる。弦だ。

「いま来た」

「そっか。今日もゴメンね。ありがと」

 そう言いながら弦は自分のバッグが置いてある隣の椅子に座る。手には印刷物が数枚入ったファイルを持っていた。

「それ、印刷してたの? 柴高祭のやつ」

「いや、これは私物。じゃあさっそく始めようか」

 そう言いながら弦は持っていたファイルを自分のバッグに入れ、代わりに昨日と同じファイルを出す。

「今日は昨日の続きと、最後に数字の集計をお願いします。たぶん昨日よりは早く終わると思う」

 そう言いながら弦は昨日と同じ資料を机の上に広げ始める。それを歩は自分の方に集め、集計用のシートに目を通す。

「了解。それで……」

 一通り目を通した後、歩はそう言いながら歩は弦のバッグの方に目線をやった。

「今日、弦君は何をやるんですか?」

 歩は機械のような棒読みでそう弦に問う。すると、弦は自分のバッグを漁り、何かの冊子を取り出す。

「今日は……現代文のテキストです!」

 バッグの中から、じゃん、と弦はおどけたように自分の参考書を見せる。が、歩は微妙な顔で、また弦を睨みつける。

「……すみません」

 完全に歩に仕事を任せて、自分は自分の勉強に勤しんでいる現状に、弦はしおらしく頭を下げる。その切り替えとテンションの落差を見て歩は逆に可笑しくなり、ぷ、と笑ってしまった。


 やる作業は昨日と同じ。提出された名簿の数字をひたすら別の用紙に写し続ける。それが終わったら最後に電卓で集計。その結果を集計表に写し、最後に弦にチェックをしてもらう。

 窓から吹く風を受け、それに乗ってくるバンド演奏を聞きながらも、歩と弦は黙々と作業を続ける。騒音のような音楽が常に外から入ってくる割には、作業に集中できるのが不思議だ。どこかで似たような感覚になったことがある気がするが、それが何なのかは漠然として出てこない。

 まあ、そんなことはどうでもいい。歩は頭を切り替え次々と名簿から数字を書き写す。ふと顔を上げると、弦は机に肘をつきながら現代文の参考書を目で追っていた。いつものさわやかな、周りの人を不快にさせないように意識された表情ではない。文章に入り込み、集中した表情。ある意味、無防備な姿だ。


 名簿の転記がほぼ終わり、歩はペンを机の上に置く。スマホの時間を覗くと、もう十五時を回っていた。二時間もぶっ通しで作業していたことに気付いたせいで、体も疲れに気づく。体を動かそうとしても、体が完全に固まってうまく動けない。

「うぅー……」

 歩は掌で目を押さえ、疲れた視神経をいたわりながら背もたれに体重を預ける。背中を静かに伸ばし、体を一気に弛緩させる。すると体の強張りは取れたが、同時に作業に対する集中も一気に流れて出てしまった。まだ集計が残っているのに。

 弦は変わらず、参考書の文章を追っている。二時間たってもなお集中は途切れない。先に無防備と思ったのは勘違いだったと思わされる。弦はただ、すべきことを淡々とこなしているだけなのだ。

「……ごめん、ちょっと休憩してくるね」

「うん。お疲れ。写してもらったやつ、確認しておくね」

 歩の申し入れに、弦はにこやかに対応する。さすが弦だ。もう怖い。そう思いながらも、歩はスクールバッグから財布だけ取り出し、教室を出て行った。

 歩は一階まで階段で降りて、昇降口脇の自動販売機でヨントリーの天然水を買う。そして昇降口横のピロティにあるベンチに座った。片手をベンチの上について、ペットボトルの蓋を開け、水を一気に口に流す。冷たい液体が、喉を通って食道、胃壁へと伝い、空の胃の中で溜まっていく感覚があった。そういえば、今日はまだお昼ご飯を食べていない。家を出るのがぎりぎりで食べていなかった。胃の中で揺れる水が、胃が空っぽであることをより思い知らせてくる。

 歩は、「はあー……」と低い声を吐き出しながらベンチの上で横になり、水の入ったペットボトルを目の上に当てる。冷たい感触が、疲れた目にじんわりと浸食する。朝が早かったからだろうか、今度は眠気も襲ってきた。


 昇降口正面の反対側から、図書室で聞こえていたバンドの音が聞こえる。壁がない分、さっきより音は大きい。演奏の合間に、バンドメンバーたちの会話も聞こえてきた。

「ねー、もっかいだけ、さっきの曲通させてくれよー」

 ワイワイと言い合う会話の中で、聞き覚えのある声が遠くに聞こえる。カトケンだ。そういえば前に、バンドの練習をしているとか言っていたことを思い出す。学校の外で練習しているかと思っていたが、音楽室で練習していたのか。

 カトケンの提案に、えー、という声も聞こえたが、「ほんと、もっかいだけ! おねがいだよ~!」と、カトケンが言うと、しばらくしてまた演奏が始まった。ここで歩は初めてカトケンがボーカルをやっていることに気付く。歌はまあまあうまい。いや、普通にうまいな、と、素人ながらに思った。

 そんなことを、ぼー、と考えていた時だった。

「歩さん、お疲れ様」

 突然呼びかけられ、歩は反射で「はぁい!」と言いながら起き上がる。そこには弦がペットボトルを二本持って立っていた。いつからいたんだろう、と歩はじんわり背中に汗をかく。

「今来たところだよ。俺も休憩しようと思って。ハイ、俺からのおごり」

 弦は歩の思っていることを見透かしたようにそう言いながら、片手に持っていた正午の紅茶無糖を渡し、隣に座ってきた。

「歩さんよく飲んでるから、好きかなと思って。けどもう水買っちゃってたね」

「……ありがと。後で飲むよ」

 弦の洞察力に感服しながらも、歩は貰った飲み物をありがたくいただく。「そっか」と弦は言って、自分用に買ったミルキンソンの炭酸水を開けて飲み始めた。弦はペットボトルの三分の二まで飲んだ後、ベンチの背中側にある校舎の壁に体重を預け、指で目頭の内側あたりを軽く押さえる。

「お疲れですか」

 歩に話しかけられると思っていなかったのか、弦の反応が一拍遅れる。

「ああ。ちょっとね」

「塾って、やっぱり大変なんだね」

「いやあ、塾が大変というか、柴高祭もあるし……まあ、他にもいろいろね」

 弦は含みのある苦笑いしながら、薄目で前の方を見る。弦のことだ。きっと塾や学校以外にも人間関係があって、それこそいろいろ大変なんだろう。まあそれも弦っぽいが。

「歩さんもなんか疲れてなかった? すごい眠そうにしてたけど」

「……午前中、朝から家で大掃除してたから」

 寝ているところをがっつり見られ、歩は内心恥ずかしく思いながらも、それを気づかれないように受け答える。

「ああ、こないだ話してたね。お父さんと一緒にやってたの? 今日、校門まで車で来てたよね」

「……なんで知ってるの?」

「図書室から見えた」

 図書室の窓は東向きで校門側を向いているため、窓から校門周りを見下ろすことができる。もちろん、歩が父の車で来たところも丸々見える。そんな当たり前のことに歩は今更気が付いた。

「……見てたんだ」

「うん」

 どういう理由か自分でも分からないが、ともかく見られたくないところを見られていた事実に、歩は沈黙する。

「そんな恥ずかしがらなくていいじゃん」

「いや、恥ずかしいわけじゃないけど、なんとなく見られたくなかったなと言いますか」

「ふぅん。まあ、その気持ちは分からなくもないけど」

 弦はそう言いながらスラックスのポケットからスマホを取り出す。そしてメッセージアプリを起動した。何回か画面をタップし、何かを見つけると弦は小さく息を吐く。遠くから聞こえるバンドの演奏の中に埋もれてしまいそうなぐらい、小さな吐息だった。

「クラスのグループ?」

「ああ、うん。またなんか言ってる」

 弦はそう言いながら、メッセージアプリを終了させる。もういちいち確認するのも馬鹿らしいといった様子だ。

 結局、誰がメッセージグループの件にけりを着けるか、まだ誰もはっきりと言っていない。ほぼ弦で決定なのだが、誰も明言はしていない。おそらくメッセージでのやり取りでは誰が言うかすぐに決まらないだろう。今日言わなければ決定は来週になる。それでは遅い。

 今言うべきだな、と歩は思う。しかし、どう切り出そうか。

「今日、俺がメッセージ飛ばすよ」

 歩がまごついている間に、弦はポンと答えを投げる。またもや心を見透かしたように先回りする弦の横顔を、真っすぐ見直す。

「前も言ったけど、私が言ってもいいよ。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、誰がやっても同じだし。なら私がさっさと投げちゃうよ」

 歩がそう申し出るが、弦は首を横に振る。

「いや、俺がやるよ。俺がクラスの代表だし、それに……」

 弦は一拍開けたあと歩の方をみてにこっと笑った。

「歩さんが言っても、聞いてくれないよ。どうせ俺のところにクレームが来るに決まってる」

「……」

 弦の率直な意見に歩は思わず沈黙する。いつもと同じさらりとした笑顔で言うものだから、心へのダメージはいつもの二割増し。しかも、自分が言っても聞いてくれるかは確かに微妙なところで反論もできない。

「でも、ありがとう。そう言ってくれて」

「ああ、うん」

 生返事をしながら、歩は脳内反省会を進め続ける。自分が言えばどうにかなるだろうと思って妙に出しゃばってしまった! 恥ずかしい! 一度反省会が始めると、なかなか止まらない。

「あ、えっと。ほんと、あいつら余計なことするよね」

 歩がダメージを受けたことを察して、弦は話を高木たちの話題にそらそうとするが、その気遣いがさらに歩の羞恥心を増幅させる。額や背中から脂汗が出たが、ピロティに流れる風はそれを乾かし、歩の体温を下げようと手助けしてくれた。

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