第1章 歩はさっさと終わらせたい 2
マンションの前には、住宅街の合間を縫うように流れる川がある。川沿いには遊歩道が整備されているが、街路樹の下には雑草が生い茂っており、川の中も藻が大量発生している。きれいとは言えない。しかし、夏場は涼しく、歩くと心地よい。
その遊歩道を歩いていくと、車が行きかう大きな通りに合流する。住宅、コンビニ、シャッターが下りた商店が並ぶ通りをまっすぐ進むと、かつて歩が、現在は晴信が通っている中学校がある。運動場を覗くとサッカー部が朝練に励んでおり、その中に晴信の姿もあった。朝からあんなに運動するなんてほんと元気だな、と運動とは無縁の歩は毎回感心する。
中学校を通り過ぎ、さらに道を進むとちょっとした高台がある。その高台の頂上にある桜の木に囲まれていた建物が、我らが埼玉県立柴川高等学校、通称柴高だ。
中間テストの最終日は現代文と日本史のテストのみだったため、学校は午前中で終わった。テストが終わり、緊張が解けたクラスは、テスト前よりもより一層活気づいている。そんな中、歩は窓際の前から二番目にある自分の席に座って、空にひかれた一本の飛行機雲をぼーっと追っていた。寝不足の中、テストで張り詰めていた緊張が解けて、歩の頭の中も完全に弛緩しきっていた。
「なに空なんか見つめちゃってんの?」
そんな意識を、同じクラスで美術部の瑠美が吹き飛ばす。肩上できれいに揃えられた黒い髪と楕円の大きなメガネだけが机の端から覗いている。何をそんな呆けているんだ、と揶揄するように、机の前に座り込みながら目を細めてこちらを見つめていた。
「ごめん、寝れてなくて、ちょっとぼーっとしてた」
「ふーん。珍し」
自分から聞いたにもかかわらず、瑠美は生返事を返しながらその場で立ち上がる。そして顎で廊下の方を示した。
「今日の部活、出るんでしょ、図書館のやつの打合せ。早く行こ」
「早くしろ」という言外の圧力を感じる。その圧力に屈するのはとても不本意だが、瑠美が言う通りこの後は美術部の打合せがある。歩は朦朧とした意識を振り払い教科書が入っていないスクールバッグにスマホと筆箱を放り込む。
「ごめん、行こう」
テスト期間中は教科書が必要ないため、スクールバッグはただの布同然のように軽い。慣れない重さのバッグを肩にかけ、歩は瑠美と一緒に一階の美術室へ向かった。
美術室は一階の外周沿いに面した場所にある。学校を一周ぐるりと囲むように植えられた桜の木のせいで、葉が付く夏は少し薄暗いが、それが日よけとなるため涼しく過ごしやすい。また、普通の教室よりも大きく人口密度が低くなるため、空気が澄んでいるようにも感じる。気に入っている教室の一つだ。
瑠美と一緒に美術室へ入ると、先輩、後輩含め十数人の部員がすでに木製の美術机に座って談笑していた。運動部や帰宅部ほど騒がしくはないものの、やはりテストからの解放感からかみんなそわそわしている。
週に一度か月に一度しか部活に参加しない歩は、普通に話せる人が美術部内に瑠美しかいない。そんな歩がテスト明けの和気あいあいとした会話に混ざれるわけもなく、歩は隠れるように窓際の一番後ろに座った。六人座れる机だが、歩を含めて三人しか座っていない。残り二人も、前の机に座っているグループと会話している。
しばらくして顧問の松本先生が「すまん、遅れた」と謝罪しながら入ってくる。すると瑠美は「よし」と言って立ち上がり、黒板の前に立つ。
「じゃあ始めるよ。テスト終わり一発目は毎年恒例、絵本作りワークショップの打合せです」
瑠美は黒板に『柴川図書館 小学生絵本作りワークショップ』と書いて、テスト明け最初の部活打合せを始めた。
柴高の美術部では、毎年最寄り駅の近くにある図書館で小学生向けの絵本作り講座を開いている。五年前、美術部の顧問になった松本先生の提案がきっかけで始まり、今では毎年開催されるようになった恒例のワークショップイベントだ。
このワークショップは毎年二年生が仕切る決まりとなっており、今年はなんと瑠美と歩が全体のまとめ役に指名された。とはいっても、ほとんどは瑠美が取りまとめをやっており、歩は道具の準備や当日事務局の運営しかやらないことになっている。瑠美が歩の家の事情を知っていることもあり、しぶしぶではあるが「いいよ、私やるから」と全体の取りまとめを買って出てくれた。
瑠美が一通り内容について説明した後、当日準備の手順についての話を歩に話を振る。
「当日の段取りは、歩から説明お願いします」
歩は「はい」と返事をして、後ろの席から窓際に沿って部員の前まで進む。そして当日の段取りについて説明を始めた。
「ワークショップは六月の第一土曜日から、毎週土曜、計三回の開催となります。ただ、大きな準備が必要なのは初日の道具の運び入れだけです。それ以降ワークショップ最終日までは図書館に荷物を置いて行っていいことになっています。ですので、初日は学校から道具を持ってくる担当の人だけ、八時半に学校集合になります。それ以外の人は九時半に直接図書館へ集合してください。荷物運び担当の人は先生が運転する軽トラに荷物を積んで図書館まで道具を持ってきたら、みんなで図書館内のホールで準備をします」
松本先生が大げさに頷きながら歩の説明を聞くのが少々煩わしいが、他の部員もちゃんと説明を聞いてくれている。当日の準備、役割分担について詰まることなく説明し終えることができた歩は、安心しながらまた隠れるように席に戻る。戻り際、瑠美が「お疲れ」と一言、歩が一仕事終えてきたかの様にねぎらってきた。緊張していたのがばれていたのだろうか。
「一応これで説明は以上です。何か質問ありますか?」
瑠美の呼びかけに特に反応はなかったため、瑠美が「それじゃあ、各自当日は準備お願いします」と言って、ワークショップの打合せは終わった。
打合せが終わった後、歩は美術準備室で一人、ワークショップ用の画材を美術準備室でまとめていた。
「一年は前言ったデッサン練習の続きやって。二年は小学生に配る教材の準備ね。先輩、去年大きい荷物図書館に入れるときってどうしてましたっけ? あ、弦君。ごめんまだ部活中だから、またあとでね」
隣の美術室から、瑠美が美術部の部員に指示を出す声が聞こえてくる。それを聞いて、去年のワークショップを思い出した。去年も当時二年生だった一つ上の先輩が仕切りを担当し、さらに一つ上の先輩がサポートしながらワークショップを進めていた。もうすぐ文化祭もあるのにと面倒くさがりながらも、瑠美や先輩たちが小学生に何かを教えるのはとても楽しそうで、大変そうながらも最終日が終わった後はみんな笑顔だった。
松本先生からまとめ役に指名され、今年も去年と同じようにできるだろうかと不安だったが、瑠美がうまく部員をまとめて進めてくれるおかげで、今年も何とかなりそうだと思えるようになった。絵がうまくて、責任感があって、ちょっと怖いけど、面倒見が良い。そんな瑠美なら今年だけでなく来年も後輩たちにビシビシ指示をしてワークショップを進めていくだろう。そんな姿が目に浮かんだ。
ここの美術部の人はみんな、寛容で大人な対応をしてくれる。部活にほぼ参加せず、存在感がほぼ皆無の幽霊部員である歩を、変に避けるわけでもなく、干渉するわけでもなく、それでも部員として分け隔てなく接してくれる。
居心地のよい空間。そこからふと、歩は前に抱えた段ボールへ視線を落とす。段ボールの中には。絵本用の真っ白な冊子やペンが入っている。それを美術準備室のドア横に積み上げた。そして、あの中に来年には自分はいないのだ、と、その場に甘えないよう自分へ言い聞かせた。