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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第6章 できることを精一杯
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第6章 できることを精一杯 3

 七月最後の月曜日。クラスの柴高祭実行委員は再度美術室に集まった。今日は担当ごとの夏休み以降のタスクと申請書を作成するのに必要な確認事項の洗い出し、最後に歩が作成した看板とクラスシンボルのラフを共有した。

 打合せの中心となったのは申請書の件だ。やはり予算書等を作るには販売するベビーカステラの量や味を決めないとどうにもできない。弦も資料に目を通して同じことを考えていたらしく、頭を抱えていた。結局、販売する味は弦が早めにクラスのメッセージグループで確認するとのこととなり、準備する量については過去の入場者数や似た商品の実績から売上を予測し、そこあら算出することになった。

 そして、看板やクラスシンボルのデザインについては、歩の方で軽くラフを描いたものを共有した。専門店のようなシンプルパターン、和風、お祭り風、かわいい風。一応、四種類。

「やっぱ歩、まだ描けるじゃーん。私に押し付けようとしたこと忘れないからね」

 瑠美が肘で横腹をつつきながらダル絡みしてくる。うざい。

「歩さん、ありがとう。これ、グループにあげとくね。後は出店の内容がちゃんと決まってからかな」

「看板のデザイン決められないから、早めがいいんだけど。まあ、しょうがないよね」

 歩は小さくため息をつく。弦は「本当ごめん。急ぐから」と手を合わせる。あとは各自が次回までにするタスクをまとめて、本日は解散となった。


 打合せが終わったのは十二時過ぎ。瑠美が「よし、今日は終わり」と言うと、廊下から美術部の人間がどっと入ってくる。美術部と文化祭実行委員の活動日は曜日が一緒となっている。美術部も美術室を使うので、このように午前午後で文化祭実行委員と美術部が入れ替わりとなるのだ。

 午後から活動する先輩たちが、歩に軽く声を掛けてくれた。しかし歩は軽く会釈をして逃げるように美術室を去る。柴高祭は去年と同じく作品を作る予定はないことは伝えているが、やはり美術室の人と喋るのは気まずい。


 昇降口横のピロティに出る。天気はうんざりするほど晴れ晴れとしているが、ピロティの日陰はコンクリートから漏れだす冷気のおかげで空気がひんやりとしている。ピロティの壁際にある木製のベンチに座り、スクールバッグからコンビニで買った卵のサンドウィッチを出す。正午の紅茶無糖で流し込んだ後、歩は周りを見渡し、誰もいないことを確認する。そして鞄を枕にしてベンチの上で横になった。

 ここ一週間、意外と大変だった。予算書作ったり、看板のラフ書いたり、それをしながら受験勉強や家事をして……。しかも考えることが多いから、夜もあまり熟睡できない。

 なんでこんなことになったのか、と歩は今更になって考え直す。無理やり瑠美に突っ込まれた実行委員会なのに、なんでこんなに頑張っているのか。

 校舎の壁か木製のベンチに塗られた塗料の匂いか分からないが、つんとした匂いが夏の空気に乗って歩の鼻まで流れてくる。風が吹くと、それにどこから来たか分からない湿った土の匂いが流れてくる。ただ、その風が汗で湿った制服の中を通るとひんやりとして心地よい。


 ヴッ


 バッグの中に入ったスマホが耳音でいきなり震え、歩は驚きながら飛び起きる。やばい、あと少しで寝そうだった。

 スマホを取り出すと、松本先生から『来たぞ、少年』とメッセージが来ていた。歩はベンチから体を起こし、職員室へ向かう。職員室では先週と同じく松本先生が柚木に絡んでいた。柚木の格好は先週と同じく黒い長袖のトレーナーに七分丈のズボン。松本先生を柚木から剥がした後、歩は柚木と一緒に自分のクラスの教室に向かった。いつもは美術室だが、今日は美術部がいるので使えない。

 教室に着くや否や、柚木は自分のバッグから数枚のスケッチと自由帳を机の上に出す。紙にはたくさんの図形の組み合わせで描かれたドラゴン。自分で練習したのだろう。

「これ、最後らへんに描いたやつなんだけど」

 柚木はそう言って、自由帳に書かれたドラゴンを指さす。薄い線で描かれた骨組みの上に、描きかけだが肉付けされたドラゴンがある。相変わらず鱗などの細かいところが異常に描きこまれているが、全体のバランスも取れるようになっていた。また、別の紙にはドラゴン以外にも人やナイフなどの小道具の練習もしている形跡がある。

 自分で本を読みながら、練習したのだろう。

「……いいじゃん」

「うん」

 柚木はスケッチを見ながらうなずく。ちょっと照れているようだった。

「OK、じゃあ今日は、最後まで描いてみ」

 机を向かい合わせにして、先週と同じく向かい合わせに座り作業を始める。柚木は練習、歩は勉強。今日は柴高祭のことはもう考えたくない。

 柴川高校の校舎は上空から見下ろすとアルファベッドのHのような形をしている。Hの真ん中部分の一階には、昇降口と双方向へ通り抜けられるピロティと呼ばれるスペースがある。本来、ピロティとは一階部分が柱だけの吹き抜けになっている空間を指すため、この双方に抜けられるだけのスペースをピロティと呼べるかは微妙なのだが、ピロティという呼び名がもう完全に浸透してしまい、先生を含めみんなそう呼んでいる。Hの一方の空間には校門と車が入るためのスペースがあり、もう一方には中庭と二階建ての体育館がある。H型の校舎の隣には、一周二百メートルのトラックが描かれた運動場がある。

 歩のクラス、二年三組は運動場とは反対側の棟の二階、中庭に隣接する場所にある。そのため廊下の窓を開けていると、中庭から吹く風が教室を通り、夏のじめっとした空気を一掃してくれる。また、夏休みということで歩と柚木が使っている以外の椅子は全て机の上にあげられている。そのため足元が広くなり、より一層、空気の通りが良く感じられる。


「……はぅぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げて、歩は机から顔を上げる。そもそも、なんで机の上に突っ伏していたのかも覚えてない。柚木は黙々と絵を描いている。時計の針は午後の三時半を指していた。

「私、どのくらいから寝てた!?」

 歩は柚木にそう尋ねる。柚木は、やっと起きたのか、みたいな顔をした。

「結構早めに。十四時より前にはもう寝てたよ」

 ほぼ勉強し始めじゃん、と、歩は額と背中から薄く汗が出る。

「なんで起こさないのよ!」

「いや、起こさない方がいいのかと思って。てか、なんで俺が怒られなきゃいけないんだよ」

 柚木は椅子の背もたれに体重を預け、伸びをする。そして「トイレ行ってくる」と言って教室の外へ出ていった。

 歩は自分の掌で目を覆う。この感覚、覚えている。歩、父、晴信の三人で家事を分担し始めたころは、慣れない家事で三人ともてんやわんやだった。その疲れのせいか、歩も授業中よく寝るようになった。

 完全にそれだわ、と、その感覚をもってして初めて疲れていることに気付く。椅子から立ち上がり、歩は念入りに背中を伸ばす。そして、寝ちゃいかん、と自分の頬を叩いた。

 柚木が戻ってきて、絵の練習を始める。そして、歩も同時に机に戻り数学の参考書を開く。

「……姉ちゃん、まだやんの?」

「何が?」

「勉強」

「やるよ」

 柚木はじっとこちらを見る。なんか怒っているのか、と思っていると、柚木はスケッチ用の紙を歩の参考書の上に乗せた。

「絵、描いてよ」

「……は?」

「姉ちゃん、俺が練習してる間、ずっとなんかやってんじゃん。たまには一緒に描いてよ」

「いや、だから私勉強するって――」

「まだやんの? 姉ちゃん、寝落ちした時、頭叩き付けてたよ? 引くって、普通に」

 そんな感じだったのか、と歩は額に手を当てる。すると、確かに額がジンジンと痛む気がした。


 歩の目の前から参考書が消え、代わりに一枚のB4用紙が置かれる。面倒くさいな、と歩は率直に思った。絵を描くぐらいなら睡眠に充てたい。ただ、寝ようとしたら柚木が怒りそうだ。さて、どうしたものか。とりあえずシャープペンシルを持って描いている(てい)を取りながら、柚木の様子を見る。

 柚木は黙々と、自分の目の前の用紙に向かう。鉛筆のカリカリと削れる音と、柚木が来ている黒のトレーナーが紙に擦れる音が、腕を動かすたびに聞こえる。

「……あんたさあ、なんで長袖のトレーナー着てるの?」

 柚木をぼーっと見て、ふいに出た疑問を投げかける。

「は?」

 柚木は手を止めて歩と目を合わせる。

「いやぁ、だって暑くない?」

 歩がそう言うと、柚木は自分の袖をさする。なんか恥ずかしそうだ。

「……なんか落ち着くんだよ、長袖」

「ん?」

「落ち着くの、長袖。なんか、布に包まれてると安心する感じ? 分からない?」

 歩は、あー、と声を出す。その気持ちは分からなくはなかった。歩も夏であってもTシャツの上に何か羽織ったり、半袖ではなく七分袖とかを好んで選んだりしてしまう。なぜかは分からないが、露出を減らすことが精神安定につながる気持ちは、なんとなく共感できる。

 とはいえ、夏まで長袖のトレーナーは着ないでしょ、とも思うが。

「親に言われないの? なんで長袖着てるんだって?」

「いや、俺んち、家に親いないし」

 柚木の返答を聞いて、歩の体がかちっと強張る。しまった。変に踏み込んだ質問をしてしまった。

 そんな反応をした歩を見て、柚木は「いや、そういうのじゃなくて」と、何か否定するように手を横に振る。

「父さんは仕事で昼間いなくて、母さんは病気で入院してるだけ」

 そうあっけらかんと柚木は言った。歩は少し視線を下に落とし、シャーペンの先を見る。確かに想像していたものとは違ったが、十分センシティブな話題ではないのか、とも思う。

「……なんか、ごめん」

「え、何が?」

 柚木はなんの謝罪か分からず、首を傾げる。

「いや、何でもない」

 柚木に気取られぬよう、歩はシャーペンを握り直し、柚木の顔を窺わぬように目の前の紙に視線を落とす。柚木にとってはそこまで気にする話題でもないようだ。歩は心の中で胸をなでおろす。

 何を描くかしばらく考えて、昔読んでいたノベライズの小説に出てきた竜人の村長を描くことにした。シャーペンを紙に着け、しゃっしゃ、と紙の上を撫でる。

「……じゃあ、入院中のお母さんにあげるんだね、絵本」

「分かんない。病院出たり入ったりしてるから。誕生日には出てくるかも」

 柚木はそう言いながら、用紙の上に鉛筆を走らせる。

 そういえば、歩の母も体調を崩して、よく寝込んでいたなと思い返す。幼稚園のころ、布団の近くに、スポーツドリンクと空の洗面器を置いて寝込んでいた。空の洗面器は、もどしそうになっても布団を汚さないようそこに吐き出すだめだ。入院するほどではなく、理由もいまいち分からないが、おそらく心労だったんだろうと、離婚した後になんとなく察した。

 まあ、柚木の母はそういうことではなく、単に病気で入院しているそうだが。

「お見舞いとか行ったりするの」

「たまに」

「その時に、自分で描いた絵、持っていったの?」

「まあ、そう」

 柚木は自分の用紙に視線を落としたまま返事を返す。顔を少し俯かせるのは、母の話をするのが恥ずかしいからかもしれない。柚木のことだから、嬉々として母に自分の描いた絵を見せたのだろう。

 柚木の母は、それを受け入れてくれたのだろうか。ふと気になった。

「あげた絵は、飾ってくれたりしてるの?」

「病院で絵を張ったりはできないから、引き出しとかにしまってるって」


 そう柚木が答えた瞬間、歩の頭の中にタンスの上に立てかけられた自分の絵の姿が現れる。飾るわけでもなく、捨てるわけでもなく、存在が宙ぶらりんになった絵が。


「大丈夫なの?」

 つい口からでた言葉に、歩は自分で驚く。柚木も歩の強い語気に驚いて、手を止める。歩は、あ、いや、と言いながら、何が大丈夫なのか補足する。

「病院とか、そんなに荷物置く場所ないし、ちゃんとお母さん全部きれいにしまえるかなと思って」

 歩が誤魔化すようにそう言うと、柚木は「何それ」と言いながらまた鉛筆を走らせる。

「まあ、最悪捨てていいよって言ってるし」

 柚木はそう、当たり前のようにポツリと呟いた。別に何ともないかのように。

「……捨てられちゃっていいの」

 今度は歩が呟くように柚木に問う。小さく、だけど真剣に問うような声に、柚木は紙の上に走らせていた鉛筆を止めて、顔を上げた。

「いや、捨てられるの、やっぱり嫌じゃん。それに、まあ」

 歩は言い掛けた言葉を飲み込もうとするが、柚木の真っすぐこちらを見る目に耐えられず、ぽろっと口から言葉を出す。

「迷惑かなとか、思っちゃわない?」

 そう、歩が呟くように言うと、柚木はまた「何それ」と、口調で返す。

「だから、いらないなら捨ててもらえばいいじゃん」

「まあ……そうなんだけどさ」

 煮え切らない歩の物言いに、柚木は少しいらつきを覚えているようだった。

 母からすると、捨てたくても捨てられない場合があるんじゃないか。タンスの上に立てかけられた絵を遠目に見る母。渡された絵を大切にしたいが、どう大切にしたらいいか分からずもてあます。その姿がどうしても頭に浮かぶ。

「……だってそれぐらいしかできないし」

 歩がそんなこと考え込んでいたら、柚木が呟くように、でも、しっかりとした声でそう言った。

「母さん、ずっと病院出入りしてるから、あんまり会えないし。だから会える時には、できるだけのことをしたい。それに」

 柚木は鉛筆をぎゅっと握り、鉛筆の先を紙に押し付ける。鉛筆の芯がひび割れ、破片が紙の上を汚す。

「会えなくなっちゃうことも、ありえなくないから。だから、何もしないってのは、ない」

「……嫌がれても?」

「……うん」

 鉛筆の先に目を落としたまま、柚木は少し間を開けて、自分の考えを確認するようにゆっくりと首を縦に振る。

「どちらにしろ、俺にはこれぐらいしかできない。嫌がられても、俺にはこれしかできないから。だからせめて、喜んでもらうように、頑張りたいから」

 そう言った後、柚木は「こんな話いいでしょ、姉ちゃんも絵描いてよ」と言いながら、逃げるように用紙へ向かい、鉛筆を動かし始めた。


 柚木は知っているのだ。自分が子供で、何もできないことを。迷惑を掛けるかもしれないことも。そして、それが変えられない事実だということも。

 その事実を知ったうえでも、柚木は前に進む。状況が変えられないからって彼が頑張らない理由にならない。それこそ、自分が許したくないのだ。何もしない自分も、何もできないままの自分を放置するのも。

 そして、いつか自分の母に本当に喜んでもらえる自分になることを信じている。


 歩はどうなのか。今の自分は大丈夫だろうか。母のことを避けて、何も考えない自分を許容できるのだろうか。


「できた。どう?」

 しばらくして、柚木がそう言いながら紙をすっと押し出す。

 そこにあったのは見覚えのあるドラゴンだった。そのドラゴンは太い二本足で地を掴んでいる。背は固い甲殻に包まれており、鋭い爪が付いた翼の被膜には赤の文様と、太い血管が走っている。ゲームの中では、それは空の王者と呼ばれている。

 飛竜 ギガレウス。

 の、ように見えた。まだちょっとバランスが悪かったり、書き込みが甘かったりする部分がある。ただ、最初に比べたら格段に上達している。その進歩ぶりに歩は驚いた。

「……いいじゃん」

「……本当にそう思ってる?」

 歩のリアクションがあまりに微妙なので、柚木が怪訝な顔そうする。

「いや、ちょっと驚いて。全然うまいよ」

 そういうと、柚木の頬が少し緩む。褒められてうれしいのだろう。

「姉ちゃんのも見せてよ」

 そう言いながら柚木は歩の用紙を取る。その紙には竜人の青年が描かれている。できたばかりの村の村長として、手続きのための書類を小さな木の机の上で必死に目を通し、サインし続けている。

 柚木は歩の絵を見ると、動きを止めて、じっとその絵を見る。

「……何? どうしたの」

「次、これ練習する」

 柚木は「これ、貰っていい?」と歩に尋ねる。歩は「別にいいよ」と答えた。素直に喜ばれたのが、少し恥ずかしい。

「マジ!? ありがとう」そう言って柚木は自分のバッグの中に歩の絵を入れる。そして「もうちょっとだけドラゴンの練習をする」と言いながら、また用紙に向かっていった。

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