第6章 できることを精一杯 2
リビングスペースの隣にある父の部屋。引戸のドアを開けると、本と畳の匂いがこもった熱気とともに顔にのしかかる。壁の半分は本棚で埋め尽くされ、その本棚に入りきらない本は畳の上に積まれている。本棚の反対側には窓と木製の机があり、机の上には父の私物であるPCが置いてある。冷房はなく、あるのは扇風機だけ。日差しが直接入ってこないため比較的涼しい部屋だが、さすがに七月下旬の午後一となると気温は三十度を優に超える。到底耐えられるはずもなく、歩は引戸を全開にし、リビングのエアコンをフル稼働させる。冷房から供給される冷気を扇風機で父の部屋に取り込むことで、やっとましな気温となった。
そんな部屋で、歩は父のPCとにらめっこしながら、柴高祭関連の申請書に目を通す。
まだ最初の打合せから数日ほどしかたっていない。申請書の提出も一番早いもので九月頭だ。期限には余裕がある。それでも今、先に申請書類をやっておきたい理由が二つあった。一つ目は、看板製作がおそらく八月上旬にならないと始められないから。二つ目は八月中旬に全国統一模試があるからだ。この二つが重なる八月に余裕を持たせるため、申請書類の整理は先にやっておきたかった。
出店する内容が決まらないと作成できないものもあるが、進められる箇所はあるはず。弦が贈ってくれた直近の実績をもとに、出店申請書や予算書を埋めていく。
部屋の中はリビングの冷房と扇風機の音だけしかしない。空気は涼しいが、窓際の机は外から熱波がじんわり浸食してきて、着ているTシャツに汗がにじむ。頭に着けたヘアバンドも、汗と熱波で蒸しタオルのようになっている。
机上の古い丸時計が午後の五時を指す。太陽が傾き始め、光は橙を帯び始めていた。
申請書はまだ三分の一も終わってない。というか、今日は申請書作成にあたり確認しなければいけない点のリストアップで一日をほぼ使ってしまった。予算書についてはほとんど手つかずだ。
そもそも、どの味を、一つ当たりいくらで、どのくらい売るかがまだ決まっていない状態で原価の計算なんかできるはずがない。加えてベビーカステラを出店しているクラスが直近数年では実績がなく、参考値もないため売上の仮置きもできない。こんな状態で予算書が作れるわけないのだ。
ほんとは十六時ごろから勉強したかったが、仕方がない。歩は背もたれに体重を預け、大きく伸びをした後、リストアップした確認点を実行委員のメッセージグループに投げる。
『たぶんこれらが分からないと申請書作れないです。来週、どうするか相談させてください』
歩は父の机から立ち上がり、頭のヘアバンドを取りながら父の部屋を出た。リビングにあるベランダの窓から外を見る。手前に住宅街が見え、奥にはポツポツとビルやマンションが立ち並び、空との境界に凹凸を作っている。
「……空が見える?」
空が見えることに歩は違和感を覚える。何かを忘れている気がしていた。
「……あれ? 洗濯物は?」
午前中に洗濯を回して外に干しておいたのだが、取り込むのを忘れていた。しかし、洗濯物はもうベランダにはない。なんで? と歩は不思議に思いながら周りを見回す。見つけたのはソファの上。すでに畳まれた洗濯物が置いてあった。また、なんで? と考え始めた時、リビングダイニングのドアが開く。入ってきたのは晴信だった。入ってきた瞬間に目が合ったが、晴信は無言のまま目をそらし、キッチンにある冷蔵庫の方に歩いていく。
歩は洗濯物が畳まれている理由をようやく理解した。
「洗濯物、ごめん、ありがと」
晴信が冷蔵庫を開け、麦茶の入ったボトルを取る。
「うん、今日、夜の洗濯も俺やるから」
麦茶を注ぎながら晴信はそう宣言する。
「え、いいよ、今日私の当番だし」
歩がそう言うと、晴信は「できんの?」と、強い語気で言う。
「今日、洗濯物忘れてたじゃん。別にいいよそんぐらい。やるから」
そう言って晴信は麦茶が注がれたグラスを持って、リビングダイニングから去って行った。




