第6章 できることを精一杯 1
『お疲れ様です。弦です。今日、カトケンたちが邪魔しちゃってごめんね。俺は止めたんだけど、聞かなくて』
『さて、申請書の件、参考にする去年の申請書のファイルなんだけど、歩さんち、パソコンでExcelsのファイル開ける? なかったら来週印刷して持ってくるけど』
帰り道、弦からメッセージアプリで連絡が来た。クラス代表補佐の件だ。個人のメッセージでもこの丁寧な文章。打合せの時も思ったが、普段からこんなに周りへ気を配ってばかりで疲れないのだろうかと心配になる。
『お父さんのPC借りられると思うから大丈夫。後でメールアドレス送るので、そこ宛に送ってください。瑠美たちの件は気にしないで』
『ほんとごめんね、メールアドレス送ってくれたら、ファイル送るよ』
『それと』と、矢継ぎ早にメッセージが送られてくる。
『クラス補佐、あんまり無理しなくていいからね。瑠美が怖いなら、俺が誤魔化すからさ』
どうやら弦は瑠美の猫かぶりをちゃんと見抜いているようだ。瑠美の少し怖い部分を共有できる仲間ができたようで、歩は少し嬉しくなる。
『ありがと。できないことは引き受けないから大丈夫。それを瑠美が許すかは別だけどね』
そう送って、歩は手帳型のスマホケースをぱたんと閉じた。
帰り道、歩はスーパーに寄って夕飯の買い物をする。今日の晩御飯は惣菜コーナーの天ぷら、とり天、そして刺身の盛り合わせだ。刺身はちょっと高いので普段あまり買わないのだが、今日は晴信が不在でたくさん買わなくていいし、あると惣菜だけでも食卓が豪華になるので、まあいいか、とつい買い物かごの中へ入れてしまった。
家に帰ったのは十七時半ごろ。歩はさっそく夕飯の支度を始める。買ってきた天ぷらはレンジに入れて温め、刺身の盛り合わせは移し替えて冷蔵庫に入れておく。あとは炊飯器のスイッチを押して朝の残りの味噌汁を温めるだけ。その間、リビングスペースにある机で夏休みの宿題を消化する。父が帰ってきたのは、十八時ごろだった。
「ただいま。すまん、ちょっと遅くなった」
「おかえり」
父はワイシャツを肘までまくった姿で部屋の端にビジネスバッグを置き、片手に持ったジャケットはハンガーに掛けてタブリーズを吹きかける。喉を潤そうと冷蔵庫を開けると刺身を見つけて「お、今日は刺身か」と嬉しそうに声を漏らした。
歩も宿題を切り上げ、父と夕飯の準備をする。ご飯と味噌汁と手分けしてよそい、温めた惣菜と刺身を机に並べる。「いただきます」と父が言って、歩も追うように「いただきます」と言う。
「今日、文化祭の集まりだったんだろ。大変そうか」
「まあ、大変そう」
「はは、もしかして、また何か押し付けられたか?」
瑠美にね、と口から出そうになったが、言うのをやめる。
「まぁ、そんな感じ。申請書とかいっぱいあるらしくて、その準備も結構大変そう」
「へえ、そんなのあんのか。なんか、会社の稟議みたいで面倒くさそうだな」
「お父さんのパソコン、たまに使っていい? 申請書、Excelsで作らないといけないから。前くれたお父さんのPC、表計算ソフト入ってなくて」
「ああ、いいよ」
「ありがと」
「そう言えば」と父が続ける。
「今日、図書館の子とも絵本の練習やったんだろ? どんな調子なんだ?」
「どんな調子も何も、まだ絵の練習しかしてないからね。けど、まあ順調」
今日、柚木はあの後もずっとスケッチの練習をしていた。集中が続かず、手が止まることだけが心配だったが、どうやら最初に読むのを放棄していたあの本が相当気に入ったらしい。『ファンタジー世界を描く』はスケッチの技法はもちろん、プロのイラストも多数載っており、見るだけでも楽しい本だ。それが、柚木のイラスト練習へのモチベーションに繋がったのだろう。
「そっか、よかった。にしてもプレゼントか……」
父は何かに思い耽るようにそう呟く。
「俺もよくばあちゃんに絵を描いて渡したりとか、ケーキを一緒に作ったりしたよ。懐かしいな。社会人になってからはしばらく何もしなくなったけど、歩が生まれて一緒に暮らし始めてからは、みんなでお祝いしたりしたもんな」
まだ、祖母がいたころは誕生日に大きいホールケーキを頼んで家族でお祝いをしていた。祖母は大のケーキ好きだったので、藤井家でお祝い事をする際には、誕生日以外でもケーキを頼んでいた。
ただ、祖母が亡くなってからは、そこまで盛大にやることはなくなった。
「お母さんにさ」
いきなりその単語を歩が口にして、父の箸を持つ手が止まる。歩もふと自分の口から出た言葉に内心慌てたが、出した言葉はひっこめることはできず、そのまま続けた。
「お父さんは、何かプレゼントしたりしてたの?」
歩からの唐突な質問に父は箸をおき、鼻先を掻きながら考える。なぜ歩はそんな質問をしたのか。何を答えればいいのか。
「昔は、一緒に旅行行ったりとか、服とか、ペンダントとかあげてたよ。そんなに高いやつじゃないけど。母さんそれでも嬉しそうだった。」
ただ、と父は少し間を置く。
「結婚してからは、そういうの、俺個人からはしなくなったな」
「みんなと祝うようになったから?」
「それもあるけど……。何あげればいいか分からなくなっちゃったんだ」
父は水の入ったグラスを片手に取りながら続ける。
「結婚前みたいに服とかあげても、その、着る機会みたいなものも子育てしながらだとないだろうし、ただ、主婦として欲しいものってのも、あんまり分かんなかったからな。何かあげるだけで、邪魔になったらどうしようと思ってた。それならせめて家事ぐらい手伝ったらどうなんだって話なんだけど、それもできなかった。なんでだろうな」
そう言いながら、父はグラスに入った水で口の中を湿らせる。
「どうしたんだ、いきなりそんなこと聞いて」
「いや、お父さん、どうしてたんだろうと思って」
今日、学校でしたプレゼント談義の中で改めて思った。あの時の母に、何を贈ればよかったんだろう。何をしてあげればよかったんだろうと。そんなものがあったのだろうかと。そしてふと、父はどうしてたんだろうと思ってしまった。
ただ、父も歩と同じ、迷っていたことを初めて知った。父は仕事ばかりで、離婚するまでは家のことをあんまり考えていないと思っていた。けど、実際は歩と同じで、何をしていいか分からず、そのまま時が過ぎただけだったのだ。
「そっか……。すまんな。あんまり、参考にならないよな」
そのあとは沈黙のまま食事は進み、ごちそうさまをした後、歩はリビングダイニングを出て自分の部屋に戻ろうとする。
歩が自分の部屋に手をかけたその時、玄関の扉が開く。部活の練習試合から帰ってきた、晴信だった。
「ただいまー。あちー」
「おかえり」
歩がそう言うと、晴信の顔が若干曇る。部活を辞める予定だったことを聞いてから、ずっとこんな感じだ。
「……ただいま」
そして晴信は靴を脱ぎ、歩と目を合わさないよう顔を伏せながら通り過ぎていく、と思ったが、リビングダイニングのドアの前で止まる。
「……姉ちゃん」
「何?」
「明日は家にいんの?」
「午後は図書館行くかな」
「分かった」
そういうと晴信はリビングダイニングのドアを開いて中へ入って行った。
「お帰りハル……て、だから靴下は脱いでから入れって、臭くなるだろ」
「あーごめんー」
そんな言い合いをする父と晴信を、廊下から遠目に見る。
そして思う。昔もあんな風に、母と喋れたらなと。しかし、何度考えても、想像しても、その姿を思い浮かべることができなかった。




