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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第1章 歩はさっさと終わらせたい
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第1章 歩はさっさと終わらせたい 1

 午前六時。歩は目覚まし時計の電子音を止めるため、顔を布団にうずめたまま、目覚まし時計の頭を叩いた。

 遅くまで勉強していたせいか、まだ瞼が重い。今日は中間テストの最終日。いつもはテスト前日に詰め込むようなタイプではないのだが、昨日まで日本史Bのテスト範囲を勘違いしており、昨夜はそのリカバリを急いでしなければならなかった。歩は普段の授業も真面目に受けているため、少し勉強しなかったぐらいで赤点を取るようなことはない。途中、教科書を投げ出して寝てしまおうとも思った。しかし、何の準備もしないままテストに挑む不安に打ち勝つことができず、結局、夜の二時ごろまで机に向かい、日本史Bの教科書と睨めっこしていた。

 布団に顔をうずめ、「うー……」とため息をするように声を出した後、瞼を擦りながら布団から起き上がる。窓の前にある勉強用の机には、開きっぱなしになっている日本史Bの教科書、授業プリントと、充電器につながれたスマホが置かれている。

 カーテンを開けて、明けの弱い光に照らされた住宅街を眺める。小さなあくびを一つして、大きな伸びをした後、歩は寝間着のまま洗面所へと向かい、水道水で顔を洗う。五月になって夏の気配も感じられるようになってきたというものの、朝の水はまだ冷たい。疲労が溜まった目もいくらかすっきりしたところで、歩はリビングダイニングへと向かった。

 ドアを開けると味噌汁のいい匂いがした。部屋の中の電気はついていない。窓から入る明けの光だけがリビングダイニングを包んでいる。

 キッチンを覗くと小さな灯りが点いており、父がワイシャツにスラックス姿で味噌汁を温めていた。百八十センチ弱ある体の上にある頭を折り曲げて、鍋の中を覗き込む。鼻先にある眼鏡に、キッチンの灯りと味噌汁の入った鍋の像が映り込んでいた。

「……なんで部屋の電気点けないの?」

「ああ、歩。おはよう」

 父は歩に気付くなり、嬉しそうに朝の挨拶をする。歩は言ったことへの返答になっていないのが気にいらないが、諦めて「おはよ」とそっけなく挨拶を返し、部屋の電気を点ける。歩の機嫌が少し悪くなったことに気付いた父は「ああ、ありがと」と付け加えるように謝る。

 父が味噌汁をよそい、歩がご飯を盛って冷蔵庫にある納豆や卵を用意する。それらをキッチン前のダイニングテーブルに並べ、父と歩は向かい合わせに座った。

「いただきます」

 父は丁寧に手を合わせる。歩も小さな声で「いただきます」と言い、小袋に入ったたれとからしを納豆へ開け入れて混ぜる。会話はせず、歩と父は黙々と納豆を混ぜ続ける。

「……今日、最終日だっけ、中間テストの」

 父が沈黙に耐え切れず歩に話しかける。歩は口に含んだ納豆とご飯をしっかり咀嚼し飲み込んでから、やっと答えた。

「そうだよ。昨日言ったじゃん」

「いやそうなんだけど、テストの調子はどうなのかなって思って」

「普通」

「そうか。いや、昨日いきなり朝ごはん作ってって頼んできたから、大変なのかと思った」

「大丈夫だよ、授業は普段ちゃんと受けてるし。ハルはもう朝練行ったの?」

「ああ、もうお前が起きる時間にはもうとっくに」

「そっか」

 歩のそっけない回答に、父は寂しそうに笑う。小さいころは家に帰ってきた父に学校での出来事を話すのが日課だった。しかし、今では食事中の会話があまり続かない。歩はそれでもかまわないと思っているが、父は何か話そうと次の飛び石を探すように話題を考え、話し出すときは意を決してジャンプするように話し出す。話が続かないと、少し残念そうな顔をする。そんな気を遣いながら話す父を見ると、歩はどこか居心地の悪さを感じる。

 その後は一言も発さず、気まずい空気のまま、二人は黙々と食卓に並ぶ朝ごはんを口に運んでいった。


 父が母と離婚として二年と半年ほどたち、歩は高校二年生になった。

 離婚のことを父と母から聞いたのは、母が去る三週間前。歩が離婚の話を盗み聞いた日の次の土曜日に説明された。離婚する理由は「ちょっとケンカをしちゃって、それで一回離れることになった」みたいな説明をされ、それ以上の説明は何もなかった。それから母が去る三週間はあっという間だった。小学生だった晴信は母がいなくなることが嫌で泣いていたが、最後にはなんとか納得して、引っ越しの日も母をちゃんと見送った。

 残された歩たちは、そのまま同じマンションに住み続けた。母のいない新しい生活。家は慣れない家事でてんやわんや。高校受験を控えていた歩だったが、受験勉強に身が入らず、第一志望だったS高は模試の結果を見て諦めた。高校は通っていた中学のすぐそばにある高校に入学。高校では中学でもやっていた美術部に入部したが、家のことをしながら本格的に活動することは難しく、マネージャーとして週に一回、部活に参加している。

 勉強と家事とたまに美術部のお手伝い。それが歩の今の日常だ。


 キッチンでお皿を洗っていると、母はどういう気持ちでやっていたんだろうと時々想像する。おそらく、明日の仕事のこと、家族のこと、頭の片隅には実家のこと、そしてなにより次の家事のこと、いろんなことを頭の中で考えていたのだろう。「そりゃ辞めたくなっちゃうよね」と、歩は自然とそう思った。

 あれ以来、私は母と連絡を取っていない。


「帰り時間分かったら連絡するから。じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 朝食を終え、歩が食器を洗っている間に父は家を出て会社へ向かった。歩も洗い物を済ませ、自分の部屋に戻り学校の準備を始める。紺のブレザーとスカートの制服、胸元にはえんじの紐リボン、肩まで伸びた髪を軽く整えたら、スクールバッグを持って玄関へ向かう。母を含めた四人の家族写真が見守る玄関で、歩は静かにローファーへ足を滑り込ませる。

 忘れ物はないはず。

 スクールバッグに手を押し当て、筆箱とスマホが入っていることだけ布越しに確認をする。必要なものは最低限入っていることを確認して、歩はそのまま玄関を出た。

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