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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第5章 文化祭とプレゼントはやっぱり億劫
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第5章 文化祭とプレゼントはやっぱり億劫 1

 少年から「ちゃんと名前で呼んでよ」と言われて、歩は少年の名前を聞いていないことに今更ながら気が付いた。今まで「君」か「少年」と呼んでいて会話に支障が出なかったため、少年の名前など全く気にしていなかった。

「夏休み、ちゃんと付き合ってくれるんでしょ。それなのにずっとそんな呼び方じゃ気持ち悪いよ」

 川本(かわもと)柚木(ゆずき) 小学四年生。

 柚木、という名前の響きは、少年の見た目にぴったりだと思った。ほっそりとした体形、さらさらとした長めの髪。女の子だと言っても分からない。名は体を表すとよく言うものだ。内面は表せていないようだが。


「美術部、結局辞めなかったんだな」

 父は夕食の肉じゃがを小皿に取り分けながら、嬉しそうに言う。歩はそれを無視して、自分の小皿にあるジャガイモを口に運ぶ。

「文化祭も、出し物出するんだろ。父さん、見に行くわ」

「何? 姉ちゃん部活辞める感じだったの?」

 晴信はご飯を頬張った話始めたので、「こら、飲み込んでから喋りなさい」と父が注意する。歩は晴信に見向きもせず、黙々と食事を進める。

「そうだったんだけど、一旦、文化祭までは辞めないってさ」

「……姉ちゃん、なんで教えてくれなかったの?」

 晴信は口の中のご飯を飲み込み、歩を問い詰めた。歩は咀嚼したジャガイモを飲み込み、やっと口を開ける。

「……あんたには関係ないよ」

「はぁ?」

 歩は肉じゃがを取り分ける手を止めないままそう言うと、晴信は納得がいかないとまた詰める。すると父が「こら、やめろ」と、晴信をなだめる。

「喧嘩すんなって。結局、歩も辞めなかったんだし、良かったじゃんか。ほら、サラダ食え」

 ふん! と気に入らない様子の晴信は、父が取り分けたサラダを無視して自分のご飯を平らげる。そして食器をキッチンに持っていき「今日食器洗い、姉ちゃんだから」と言い捨てながら自分の部屋へ戻っていた。歩が美術部を辞めるつもりだったことを言わなかったのが、そんなに気に食わなかったのだろうか。


 一学期の最後を終え、明日から夏休みというのに歩は憂鬱だった。終了式二日前、少年が学校に来てしまったことで、受験に向けて粛々と勉強する予定だった夏休みの計画が全て崩れてしまったからだ。

 あの後、結局、歩は少年の申し入れを断り、学校に戻ったのだが、なぜか少年もそのまま学校に付いてきてしまった。さすがに学校の中には入ってこなかったが、普段遅刻しない歩が遅れて、しかも見ず知らずの子を連れて学校へ来たということで、クラスではあれはなんだ、と噂になった。そこまでならまだよかったのだが、瑠美がまた余計なことをした。ワークショップであった少年との出来事を周りに言いふらしたのだ。それにより噂話の声はさらに大きくなり、歩は見事クラスの注目の的になった。ほんと、学校でこんないたたまれない気持ちになるのは久しぶりだ。

 不幸はまだ続く。歩の柴高祭実行委員への加入だ。クラスの出し物である屋台の看板とクラスシンボルの制作係に、歩が任命されてしまった。

 クラスで美術部は歩と瑠美しかおらず、唯一絵が描ける瑠美は既に柴高祭の実行委員メンバーであるため、看板とクラスシンボルを作る担当がまだ決まっていなかった。クラスシンボルとは、名前通りクラスごとに制作するマークみたいなもので、クラスTシャツのデザインのもとになったりするものである。どうしても決まらない場合は、大変なのを承知で瑠美に頼もうという方向で話が進んでいたのだが、そこに歩のワークショップの件が話題に挙がり、絵が描けるならやってもらっちゃおう、と実行委員が勝手に歩を担当にしたのだ(もちろん歩が絵を描けること実行委員に教えたのも、勝手に看板づくりの担当に入れたのも瑠美だ。本当にありえない)。そのせいで、夏休みも学校へ行き、明けの柴高祭までに準備作業をしなければならなくなった。

 そして、少年こと川本柚木の件は、松本先生から「どうせ学校に来るんだから、一緒に教えてやればいいじゃん」と言われてしまい、柴高祭準備の傍ら、少年の絵本作りの手伝いをすることにされてしまった。

 こうして、歩の平穏静かな夏休みはガラガラと音を立てて崩れ去った。


 父と二人でご飯を食べ終え、歩は食器をまとめてキッチンのシンクへ下げる。歩が食器洗い始めようとすると、父がキッチンの反対側の縁に手をかけ歩と正対した。いつも夕食後は、リビングにあるソファで本を読むか、お風呂に入るかどちらかなのに。

「歩、美術部の先生から聞いたぞ、ワークショップに来てた子の絵本作り、手伝うんだってな」

「……断りたかったけど、そうなったの」

「いいじゃないか、学校でも教えていいって許可出たんだろ?」

「先生が言ってるだけだよ」

「あはは、なんか嫌そうだな」

 不満げな歩を見て、父は嬉しそうに笑う。

「だから勝手に先生が決めたの」

「けど断らないんだな」

「断ったけど、夏休み中は学校に来るって言ってたし。クラスの人たちも別にいいよ、みたいな空気だから、断り辛くなっただけ」

「そっか。瑠美って子だっけ、その子は一年からずっと仲いいんだな」

「部活が同じなだけだよ。ちょっと嫌いになりかけてる。あいつのせいだからね、夏休みも学校に行かないといけなくなったの」

「そっかぁ……」

 歩の嫌そうな顔を見ても、父はどこか嬉しそうに歩を見る。

「何?」

「いや、今日はよく学校のこと、よくしゃべるなと思って」

 そういやそうだな、と歩は急に父と顔を合わせられなくなり、手元のお茶碗と泡が付いたスポンジに目線を落とす。

「久しぶりに、こんなに学校の話、聞いた気がするから」

 そう父は嬉しそうに笑いながら言い、歩はそれを無視して淡々と食器を洗う。

「楽しそうで、なによりだなと思って」

「……どこが? 話聞いてた?」

「聞いてたよ」

 そんなやり取りをしていると、晴信が風呂の折れ戸を開ける音がこちらまで聞こえてきた。風呂好きな父は「おっ」と声を漏らす。

「風呂、先にもらうな」

 父はカーテンレールに掛かったハンガーにぶら下がるバスタオルと取り、ついでに一緒に掛かっている自分の洗濯物を立ったまま手際よく畳む。歩の洗濯物が干してあるところには、できるだけ触れないよう気を付けながら。

「なんか話があったんじゃなかったの?」

 歩がそう聞くと「いやこないだの話、しようと思ってたんだけど、今日はいいや」と言った。母のことだ。

「お母さん、前は実家に帰ったって言ってたよね。今も実家なの?」

「いや、実家はすぐに出て、今は一人暮らし、してるらしい。て言っても、住んでるのも働いてるのも東京だからな。住んでる場所が大きく変わったわけじゃないけど」

「そっか」

 洗濯物を畳み終え、父と晴信の洗濯物を分けてソファの上に置く。

「……母さんの電話番号だけでも渡そうか?」

「いや、そういうつもりじゃないって。いきなり私から電話かけるのきついでしょ。」

「そうだな。すまん」

 話したいのかなと思って、と父は申し訳なさそうに言う。

「母さんの件、いつでもいいからな。俺、風呂行くわ」

 そう言い残して、父は風呂場に向かっていた。

 歩はまたシンクに目を落とし、残った食器を洗い始める。リビングダイニングには食器を擦る音と、シンクに流れる水の音だけが響いている。


 ふと、母との別れ際のことを思い出す。泣いている晴信の手を握る歩にこう言った。

「また会えると思うから」

 憐れむような表情で言う母を見て、心にぽかっと穴が開いたような気がした。嘘をついていると思ったからだ。おそらく、母にはそんなつもりはない。

 そんな嘘、ついてほしくなかった。その場しのぎの優しさなんて、なんの意味もない。


「……姉ちゃん、洗濯物は?」

 晴信がいきなり話しかけて来て、歩は食器を洗う手が止まっていることに気が付いた。くたびれたジャージを着て、バスタオルで頭を乾かしながら機嫌悪そうな顔でこちらを見ている。

「お父さんが畳んだ。ソファの上に置いてる」

「うい」

 晴信は洗濯物をむんずと掴んで部屋に戻ろうとする。まだ美術部を辞めること言わなかったのを根に持っているらしい(なんで怒っているかも不明だが)。不機嫌な顔のまま晴信は部屋に戻ろうと背中を向ける。リビングダイニングのドアに手を掛けた瞬間、少し肩をすぼませたのを見て何か怪しく感じた歩は「ちょっと待て」と晴信を呼び止めた。

「……部活の靴下洗濯物にそのまま入れてないでしょうね?」

 晴信はドアの前でビタっと止まった。そして謎の沈黙。

「……戻しときます」

 不機嫌そうな態度が一変、肩をすくめ、申し訳なさそうに洗濯機がある部屋にスタスタと歩いていく。いつもなら怒るところだが、不機嫌な時でも家事のことはちゃんと言うことを聞く晴信を見て、沈んだ気分がふっと浮上し、少し笑いが出た。

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