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忘れていたのは、一点だけ  作者: 朝倉 淳
第4章 歩は終われず、延長戦へ
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第4章 歩は終われず、延長戦へ 2

「――まだ学生のうちに、何かしたい事があるんだと思うぞ。俺は」


 松本先生の言葉が、いまさらになって頭をよぎる。

 何かしておきたいことがある。だが、それが何か自分でも分からず、言葉にできないし、したくない。


 母は歩から何かすることを望んでいないかもしれない。それでも、改めて母と関わりを持つべきなのだろうか。わざわざ傷口を掘り返してまで、やらなければならないことなのか。母に負担を負わせてまで、やらねばならないことなのか。

 人に負担を負わせないよう、人との距離を調節して生きてく。それでも今の時代生きていける。それではダメなのか。


 したいことは抽象的なままで、動けず、動かず、どっちつかずのまま。そしてその場をぐるぐる回る。


 ワークショップが終わった次の月曜日から、歩は部活に行かなくなった。美術部退部の件も、ずっと保留にし続けた。

 その間、部活を辞めるか否かを考えていた。ただただ部活がつらいというだけだったら答えはすぐにでるのだが、歩にとってはそうではない。美術部の人たちは歩を受け入れ、美術部の一人として扱ってくれている。逃げる理由はない。

 七月頭の期末テストはそこそこの結果で終わり、終了式三日前。悩みに悩んだ挙句、歩は美術部を退部することを選んだ。もう、悩むこと自体が億劫になってしまったからだ。


「歩、終了式って今週だよな」

「うん」

「部活、もう辞めちゃったのか?」

 歩が作った回鍋肉を取り皿によそいながら、父は歩に問いかける。

「まだ。早めに先生には言うよ」

「まだって、もうすぐ終了式だけど」

「ずっと行ってないから。明日、先生にちゃんと辞めるって言う」

 目を合わさずとも、父が悲しい顔をしているのが分かった。

「……前にも言ったけど、塾とか、お金のことは別に――」

「もういいよ、お金の心配とかじゃないの」

 いつもの説得文句を言う前に、歩は父を止めた。

「ごめん、そういう理由じゃない。部活しながらいろいろしながら勉強するのがだるいだけ。ほんとそれだけだから」

「謝るなよ。分かった」

 お金がらみのことじゃないのであれば、父にできることはもうない。

 夕食が終わり、父に食器洗いを頼んだ歩は、まだ帰ってきていない晴信に洗濯を託すメッセージを送り、風呂に入ってさっさと寝てしまった。

 翌朝、歩はいつも通り父を送り出し、登校の準備をする。制服の半袖ブラウスを着て、スカート、靴下を履き、胸元にえんじの紐リボンを結ぶ。肩まで伸びた髪を整え、スクールバッグを持つ。玄関へ行き、下駄箱からローファーを出して、靴ベラを使い靴に踵を入れる。

 忘れ物はない、はず。

 靴箱の上には、母を含めた四人の家族写真が、木製の写真立てに入れられて飾られている。あの市民公園の東屋で撮った写真だ。離婚した後も父は捨てず、そのまま残して飾っている。

 歩はその場に立ち止まり、靴箱に手を掛け写真を見つめる。父と柚木が満面の笑みで、母は微笑み、歩もそれにつられて笑っている。

 歩は、もういいよ、と小さくため息をついた。


 川沿いを歩き、大きな通りに合流したらそれに沿って歩いていく。夏の太陽に照らされながら、高台の上にある学校へと歩いていく。学校を一周囲むように植えられた桜の木には青々とした葉がついて、それらが作り出す陰の下は、空気がひんやりと冷たい。

 今日の放課後、職員室に行って退部届を松本先生に出せば、もう悩まなくて済む。八月には模試がある。勉強に集中したい。それでいいだろうと、歩はただ退部届を出すためだけに自分に言い聞かせる。

 遠目に校門が見えてきたところで、歩は校門の前に、明らかに生徒や先生ではない人が立っていることに気が付いた。

 その人は黒いトレーナーを着ていた。背はとても低い。低すぎる。小学生じゃないのか? 髪は少し長めのサラサラ髪で、手足は細く、日焼けしたような褐色の肌が印象的な子だった。

 もちろん、見覚えがある。

「あ、姉ちゃんだ」

 図書館のワークショップに参加していた、あの少年だった。

「忘れてんのかな、おーい」

 少年は校門の前で手を振り始め、他の生徒の視線を集め始める。歩は他人を装おうと視線をそらすが、手を振られている歩にも一瞬で注目が集まる。もういたたまれなくてしょうがない。歩は周りの視線を避けるよう俯きながら早歩きで少年の下に行き、そのまま少年の手を握って、その場から離れた。

 校門前の道をしばらく歩くと、歩の家の前にある川の上流に当たる。その川の遊歩道を歩いて少し下ると小さな休憩所がある。ひとまず少年をそこに連れていき、そこにあるボロボロの木製ベンチに座らせる。

「どうしたの、姉ちゃん?」

「何しに来たの?」

「え?」

「何しに来たのって言ってんの! 学校の前であんなことしないでよ!」

 歩はその場を行ったり来たりしながら汗で湿った髪をわしわしとかき乱した。あんなことされたら後でどんな目で見られるか……。

「……なんかごめん」

 急にしおらしくなって謝罪してくる少年を見て、歩は急に冷静さを取り戻す。何を少年相手にかっとなっているんだ、と自分を責めた。

「……いや、私もごめん、急に連れ出しちゃって」

 歩は少年の隣に座った。

「で、何しに来たの」

 少年は急にむっとした顔になって歩の目を見た。

「絵本、手伝ってくれるって言ったじゃん。忘れたの?」

 思いもしない理由を聞いて、歩はまた頭を抱える。

「ワークショップの間だけに決まってるじゃん……」

「えー、だってまだできてないよ」

「一人でやればいいじゃない。お母さんの誕生日、いつなの?」

「十月」

「まだ二か月ちょっとあるじゃん。さすがに一人でできるでしょ」

 少年は「いや、そうじゃない」と言って歩の方を向いたままベンチの上に正座した。

「作り直したいの。一から。だからお話の作り方とか、絵のかき方からちゃんと教えてください」

「はぁ?」

 突拍子のない少年の申し出に、瑠美や松本先生にしか言わない本気の「はぁ?」を繰り出してしまった。この少年はワークショップ後もずっと手伝ってもらえると思っていたのか。そんなわけなかろう。

 それに、歩は今日、美術部を辞めつもりだったのに。

「悪いけど、無理」

「えー、なんでよ、夏休みでしょ。姉ちゃんどうせ暇じゃん。忙しいの?」

 どうせ暇だろ、というレッテル張りにイラっとし、歩の語気が強くなる。

「今日で美術部、辞めるの」

 歩の強めの言葉に、少年の体が強張るのを感じた。それでも歩そのまま続ける。

「来年もう高校三年生だから、大学に入るテストがある。だから勉強に集中するの。うち、母親がいないから、お金の工面とかも大変だし、早めに準備したいの」

 少年の目を見ず、ベンチに座ったままの歩が言葉を重ねるたびに、少年に何か重荷が乗っているように感じる。歩はいたたまれなくなり、ベンチ下に置いたスクールバッグを持ち上げ膝の上に置いた。

「だから、ごめん」

 歩が立ち上がろうとすると少年が歩のブラウスの裾を引っ張った。少年の目は逃がさないと言わんばかりに、下から真っすぐ歩を捉えている。

「それとこれとは別じゃん。ちゃんと手伝ってよ。約束したじゃん」

「だから、その約束はワークショップの間だけだって」

「約束破るんだ」

「……勝手なこと言わないでよ」

「勝手なことじゃない。俺、約束破る人、嫌い」

 少年の目を見て、歩は少年すぐに引き下がりそうにもないことを悟る。学校の方から、朝のSHRの開始を告げるチャイムが鳴った。もう遅刻確定。最悪だ。

「私じゃなくても他に探せばいくらでもいるでしょ。小学校の先生とか。スマホで検索すればでもそういうページいくらでもあるんだし、一人でもできるでしょ」

 ネットの中には無料のコンテンツなんて腐るほどある。写真や動画、有名人から素人までの呟き、エキサイティングなゲーム。そして、物語の作り方や、絵のかき方だって、説明しているページは山ほどある。わざわざ私や他人に教わることへこだわらなくてもいい。

「それなのに、なんでわざわざ私の所に来るの?」

「特に理由はない」

「はぁ?」

 少年は歩の目を真っすぐ見て続ける。

「俺がワークショップで会ったのは姉ちゃんで、それ以外の人は知らない。姉ちゃん以外、知らないんだもん。自分でネット見ても、よく分かんないし」

 少年はベンチの上に正座で座り、背筋を伸ばして歩の目を真っすぐ見据えた。

「だから、作り方を教えてください。お願いします」

 少年はそう言って、両手をベンチの上につけて頭を下げた。


 一度生じた歪みは、そう簡単に修復できない。その歪みは次第に大きくなり、やがてその場にいる人間をも飲み込み、歪みの一部にしてしまう。

 だから、まず歪みを避けなければならない。誰かに迷惑を掛けたり、心配させたり、負担を負わせるぐらいなら、一人の方が良いはずだ。

 それを恐れていないのか、単に人の迷惑を考えていないのか、この少年はそれを飛び越え、食いついてくる。


 こうして歩は、ワークショップで出会った少年、川本(かわもと)柚木(ゆずき)と夏休みを一緒に過ごすこととなった。

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