Prologue
制服のブラウスだけでは少し肌寒くなった、秋の夕暮れ。
埼玉県にある七階建てマンションの五階。五○二号室。美術部の活動を終え中学校から帰ってきた藤井歩は、スクールバッグから家の合鍵を取り出し、玄関の鍵を開けた。家の中に入り、脱いだ靴をしまうため靴箱の扉を開く。すると、踵がすり減った母のパンプスの隣に、父のへたれた革靴が乱雑に突っ込まれていることに気が付いた。
歩は違和感を覚えた。時間はまだ十七時過ぎ。この時間に父が帰ってくることなんてほとんどない。
玄関前の廊下の奥にあるリビングダイニング。そのドアの明かり窓から、部屋の灯りが漏れていることに気が付いた。
「――考え直すっていうのは、無い?」
部屋のドアを開けようとした瞬間、中から歩の父、登の声が聞こえた。
「悪いところ直して、お前が楽にできるようにする。これから変えていくよ。だから……その……」
普段の父の声とは違う、祈るような、そして少し情けないような声がして、歩はドアノブへ伸ばした手をもとに戻した。聞いてはいけないことを聞いているような気がして、その場で体を強張らせ、息を殺す。父が座っているであろうダイニングテーブルは部屋に入って右にあるため、二人の姿は見えなかった。
「……前にも言ったけど、そういうことじゃないのよ」
歩の母、京子はしばらく間を開けてから言い放った。
「もうあなたがどうこうとか、そういうことじゃないの。うちの親戚の事もそうだし。もう頑張れる気がしないのよ。これからもやっていける自信がない。もう、幸せって思えないの」
今まで押し殺していた何かを吐き出すように、母はそう言った。
「歩も来年で十五歳だし、私がいなくても大丈夫よ」
「その、一回別居っていうのもダメか?」
「だからそういう問題じゃないんだって」
母がそう咎めると「そうか」と父は小さな声で言った。
まだ中学生の歩でも、両親が離婚の話をしていることぐらいはすぐに分かった。
走馬灯のように最近の父母の様子が頭の中を駆け抜ける。そういえば最近、父と母、二人で会話しているところをあまり見ていない。夕ご飯の時の会話も少しぎこちなかったというか、ピリピリしていた。休日の夜も、父が夕食の時間だけいないことも多かった。母からは「仕事の付き合いで、外に行って食べている」と聞いていたが、おそらく離婚の話しが進んでいる中、家族で食卓を囲むことが気まずくて、外で食事をとっていたのだろう。
その後も、父が何とかやり直せないかと祈りをささげたが、母は一歩も引かず、父もこれ以上言い訳ができなくなり、話は引っ越しの日程へと移った。
「引っ越し、来月だな。歩とハルには、土日で今後のことを話そう」
「うん」
「一応、その後でも定期的には連絡はするからな」
父は、繋がりを後にも求めるように、そして、何かを諦めたように最後にそう言った。
悲しいとか不安だという感情より、「あ、ついに来てしまった」という妙な納得感が先に来た。母の心労がどれだけのものだったのか、歩でも簡単に想像できたからだ。
小さいころは父方の祖母と歩たち家族で一緒に暮らしていたが、歩が小学校三年生の時にその祖母が他界した。そうなると、それまで祖母がやっていた家事が宙に浮く。しかし、父は仕事ばかりで家の事をろくにやらなかったため、その家事のほとんどを、母が仕事をしながら切り盛りするようになった。その大変さは、近くで見ていた歩が一番よく知っている。
また、母は自分の実家との関係があまり良くなかった。詳しくは聞いていないが、実家の反対を押し切って父と結婚をしたためらしい。母方の実家は東京にあるのだが、最後に行ったのは小学一年生の時で、それ以降、家族で東京に行くことはあっても母方の実家へ顔を出したことはなかった。唯一の頼みの綱になるはずの実家も母にとっては安息の地ではなかったはずだ。そんな中、母はずっと一人で家を守っていた。
そして、歩も、母の心労の原因の一つだった。祖母の他界でふさぎ込んだり、クラスでいじめられたりした歩を、母はずっと気に掛けていた。歩の前では笑顔だったが、裏では担任の先生とは真剣な面持ちで話し、歩に気づかれないようにしながら泣いていたことも知っている。中学に上がってからいじめは無くなり、途中から美術部にも入部したが友達はあまりできなかった。小学校の時のこともあり、そんな歩を母はずっと心配していた。
そんな心労続きの生活が今までずっと続いてきて、そしてこれからも続くのだ。
そんなの、心が持たない。
体調を崩して寝込んだ母の後ろ姿を思い出す。あの時、体調を崩すことが多かったのは、おそらくそういう心労が重なったためだ。
たまに家事を手伝ったりして、母を支える側の体を取っていた自分がいまさらになって卑怯に思える。母の苦痛を知りながら、自分が負担の当事者になっていることを認めるのが怖くて、見えないふりをしていた。
歩は一度玄関に戻り、ゆっくりと外に出た。外は夕日の光が弱くなり、赤と黒の境がはっきりと見えてくる。扉の横に座り込むと、手に部活で付いた鉛筆の跡がついていることに気が付いた。消えてしまえこんなもの、と歩は手のひらでその跡をごしごし擦る。しばらく玄関前に座り込んで、今夜はどんな風に父と母と話せばいいんだろうと、ブラウスの袖に顔をうずめて考える。
「何してんの」
そんな、およそ中学生には重すぎる課題について考え込んでいたら、弟の晴信が帰ってきた。ランドセルを背負ってはおらず、ジャージを着てサッカーボールバッグを肩にかけていた。日はほとんど落ちていて、風景は橙から黒へ色が転じ始めている。歩は咄嗟に声だけも高くする。
「遅いじゃん」
「そんなに遅くないよ。いや、だから何してのって。家の鍵、開いてないの?」
「何でもない。ちょっとお腹痛かっただけ」
「はぁ? どゆこと」
「お腹が痛かっただけだって」
「……?」
不思議そうに首を傾げる晴信を無視して「もう大丈夫だから家に入ろう」と歩は玄関の扉を開けた。張り裂けそうな胸を抑えて、いつもの声で「ただいま」と言い、父と母がいる我が家へ入っていく。返事をしてくれるのかと心配したが、中から母がいつもの声で「おかえりー」と声を返してくれた。その日の夕飯は、久しぶりの家族みんなでの食事となった。
家に引っ越しのトラックがやってきて、母が去っていったのは、それから三週間後のことだった。
母は、すでに何かを背負う余裕はなかった。そこから祖母が亡くなり、そんな状態で歩たちを一人で背負いこもうとした。歩は何もできず、ただ、気を遣って見ているだけ。
ああもう、面倒臭い。
誰かに迷惑を掛けたり、心配させたり、負担を負わせるぐらいなら、一人で生きていく方がずっと楽なのではないか。そうすれば、この、わけの分からない不快感から抜け出せるのではないのか。
中学二年の秋。冷気を降らす夕暮れの秋空の下、どうしようもなくそう思い知らされた歩は、自分の手で身をさすり、冷えた体を温めた。