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ピース・バタフライ

作者: はらけつ

パパアーーーーー

ビュンッ


パパアーーーーー

ビュンッ


ひきりっなしに、狭い道路を、車は駆け抜けてゆく。

歩道と云うものは無く、歩行者は、道路の両端に設けられた白線内を、恐々と歩く。

その幅は、普通に歩いてても、白線内からはみ出てしまうほど狭い。

ゆえに、車の交通と紙一重で、人は行き来している。


ジャーンは、車の起こす風に煽られ、家の生垣の方へ、少し倒れる。


生垣に眼をやると、葉に蜘蛛の巣が張っている。

その蜘蛛の巣に、蝶が一匹、捕まっている。

蝶の羽は、ジグソーパズル模様に赤・青・黄など様々な色が組み合わさった、美しい羽をしている。


ジャーンは、蜘蛛の巣を、指で掻き取り、壊す。

蝶は、瞬時に蜘蛛の巣から解き放たれ、飛んで行く。

ジャーンは、少し《ほんわか》と、心が温まる。

これぐらいでは、ピースは埋まらないけれど。



生まれいづる時、誰であっても、心のピースは空白だ。

全部で十個のピースを、二十三歳になるまでに、二十三歳の誕生日を迎えるまでに、埋めないといけない。

二十三歳になるまでに埋めないと、一人前大人と認めてもらえない。

よしんば、二十三歳を過ぎて埋めることができても、「二十三歳までには埋められなかった」と云うことで、二流大人扱いになる。

公的(役所的、書類的)にも、私的(世間的、人付き合い的)にも、二流大人として扱われる。


現在、二十三歳以上の人の内、一人前大人は約三割、二流大人は約七割。

割合にすると、断然、二流大人の方が多い。

一人前大人への道は、険しい。

なんでも、十個目の、最後の、ラスト・ピースを埋めるのが難しいらしい。


ジャーンは、二十二歳。

残るピースは、三つ。

ほぼ絶望的な戦い、になっている。


ピースが埋まる条件は、『《ほんわか》と心が温まる』こと。

ある程度、心が温まれば、心のピースは形成される。

それは、回数や行為内容、行為対象への規則性は見受けられない。

おそらく、ゲージのようなものがあって、それがFULLになると、ピースが形成されるのだろう。

だが、今のジャーンには、残り三つの内一つでも形成される気配すらない。



ジャーンは、鍵を差し込む。

ドアを、開ける。

「ただいま」、と呟く。


 ‥ シーン ‥


部屋は、暗いまま。


パチッ


スイッチを入れ、明かりを点ける。


部屋の中は、出て行った時のままの風景。

片付いているが、活き活き感が無い。

有っても、霊的なものや犯罪的なものなら困るが、なんか物足りない。


ジャーンは、『一人暮らしならば、そんなもんや』と思い直し、マグカップを取り出す。

マグカップに、コーヒースティックの粉末を注ぎ、ポットから湯を注ぐ。

スプーンで、かき混ぜる。

コーヒーの匂いが、立つ。

匂いを吸い込み、コーヒーを啜る。


コーヒーに一口付けて、立ち上がる。

本棚から、文庫本を出す。

腰を落ち着けて、コーヒー片手に、本を読み出す。


トントン


玄関ドアを、叩く音がする。


トントン


ウザいので、玄関チャイムは外している。


トントン


訪問者は粘り強く、ドアを叩き続ける。


トントン


ジャーンは根負けして、ドアの覗き窓を覗く。


ドアの外には、妙齢の女性が立っている。

おそらくジャーンと同世代くらい(ちょっと上か?)。

玄関ドア後ろの、ジャーンの気配に気付いたか、向こうも覗き窓を覗き込むようにしている。

心当たりは、無い。

全く、無い。


「どちら様ですか?」


ジャーンは、ドア後ろから、声を掛ける。


「お世話になった者です。

 お礼を差し上げたいと思って、伺いました」


女性が、返答する。

が、ジャーンには心当たりが無い。

全く、無い。


ジャーンは、もう一度、覗き窓を覗き込む。

女性は美しく姿勢を保ち、朗らかに困ったように立ち尽くしている。

悪意は、感じられない。

全く、感じられない。


ジャーンは『まっいいか』とばかりに、チェーンを付けたまま、ドアを開ける。

ドアを開けて、女性と対面する。

女性を、しげしげと見る。

心当たりが、無い。

僅かな記憶をまさぐっても、心当たりは無い。


女性は、変わらず意志を持って、ジャーンを見つめている。

『この人に間違いない』と確信して、ジャーンを見つめている。

二人の余りの温度差に、ジャーンは怯む。

怯み負けで、ジャーンから口を開く。


「あの~、どこかでお会いしましたか?」


恥を忍び、相手のことを覚えていないこと前提で、ジャーンは女性に訊く。


「はい」

「どこですか?」

「近所で」

「はあ。

 いつですか?」

「今日です」

「今日?」


ジャーンは、今日の記憶を辿り直すが、目の前の女性の映像は出て来ない。


意識しない内に、関わっていたとか。

それ、怖いなー。

『人が見てないからって、下手なことはできん』ということやな。

お礼しに家に訪ねて来てくれるんやから、そんだけ感謝されることをしたんやろう。

無意識とは云え。


悪意は、感じられない。

感謝の念しか、感じられない。

女性から湧き出る空気感は、ジャーンにとって好ましく、信用に値するものだった。


ま、いいか。

ちょっと、入ってもらっても。

最悪、女性一人やから、腕力的にも俺が勝つやろうし。


ジャーンは、チェーンを外し、ドアを大きく開ける。


「そんなとこでもなんですし、どうぞ」


部屋の中に、女性を誘う。


「はい。

 ありがとう御座います」


女性も部屋に入る。



というわけで、その日から、女性はジャーンの家に居る。

平たく言えば、同棲している。


日々、ジャーンの身の回りの世話(炊事、洗濯、掃除等)をしている。

ジャーンが大学に行っている間は、パートで働いている。


一緒に起きて、

一緒に朝飯食って、

それぞれ準備して、

それぞれ出て行って、

女性は先に帰って来て、家事をこなし、

ジャーンも後から帰って来て、用事を処理し、

一緒に夕食を食べて、

一緒にくつろいで、

それぞれに風呂に入って(たまに一緒に入って)、

一緒に寝る。


規則正しく楽しい毎日を、女性が来てから、ジャーンは過ごすようになる。

充実した毎日に、心は確実に《ほんわか》しているはずだ。

しかし、《ほんわか》ゲージが未だFULLになっていないのか、ピースは作成されない。


瑞々しい毎日を送っているのに、数週間すると、ジャーンの笑顔には翳が忍び寄る。

立ち居振る舞い、佇まい、雰囲気から、フッとしたはずみに、陰が忍び出る。

女性は、ジャーンの醸し出す黒っぽさに気付き、問う。


「どうしました?」

「へっ?

 何が?」

「最近、なんや元気が無い様な感じで」

「そう見えるかな」

「ええ」

「う~ん。

 そう見えるか~」

「なんか、心に引っ掛かっていることでも、あるんですか?」

「う~ん。

 あるっちゃ、あるんやけど」

「的確なアドバイスとかできひんかもしれんけど、

 聞くことぐらいはできますよ」

「聞いてくれるか?」


ジャーンは、吐き出したかったらしい。

心に、引っ掛かっていたらしい。

ピースのことを。


ジャーンは一切合財、ピースのことについて、女性に話す。

そして、残り三つが、なかなか埋まらないことを。

残された時間が、一年弱しかないことを。


女性は、ジャーンから話しを聞きながら、眉間に皺を寄せる。

聞き終えると、目を伏せて、視線を下げる。

下げた視線の行く先は、自分中に向かっているようだ。

女性は、しばらく、思い詰めた様に沈思黙考する。


ようやっと、女性が視線を上げる。

視線の行く先を、自分からジャーンに向ける。

その眼は、腹を括った覚悟と、僅かな希望が湛えられている。


「そのピースなんですけど」

「うん」

「なんとかできるかもしれません」

「ホンマに?!」

「はい、多分」

「うわっ、ありがとう」

「但し」


女性は、間を取る。

言葉に、溜めを作る。


「籠もって作業する時間が必要なんで、

 毎日数時間、収納の中に籠もります」

「あの、服とか季節家電とかなんやかんや入ってるとこやけど、

 そこでええの?」

「はい。

 私が入るスペースを、空けてもらえれば」

「それはええけど」


ジャーンも、間を撮る。

言葉を、恐る恐る出す。


「何、すんの?」


女性は、予期していた質問を受け流すかのように、にっこり笑う。


「それは、「悲願達成の暁には、明かします」と云うことで」


ジャーンは、全くもって釈然としないながらも、うなずく。

自分には、プラスにはなれど、マイナスにはなりそうもないので、うなずく。


ホンマに、プラスだけなのか?

ホンマに、マイナスにならへんのか?



その翌日から、女性は毎日、収納に籠もるようになる。

ジャーンが、服とか家電とかその他諸々を放り出して作ったスペースに、籠もるようになる。



『こんなTシャツ、あったかな?』


ジャーンは、部屋着用に、白いTシャツを何枚か持っている。

が、そのTシャツには、買った覚えがない。

正確には真っ白なTシャツと云うわけではなく、左胸のところに、指二本大くらいの模様が入っている。

赤・青・黄の色彩が組み合わさった、模様が描かれている。


ジャーンは、『まっいいか』とばかりに、Tシャツを着る。

そのTシャツを着た日の午後、ジャーンの精神部分、心部分がジワジワ、《ほんわか》し始める。


『あ、なんか来たかも』


ジャーンは、嬉しい予感に浸る。

《ほんわか》は、それから随時起こり、随時その強さは増す。

《ほんわか》が心いっぱい、胸いっぱいにに広がった時、ポコッと音がする。

ジャーンは、(心から)音がしたように感じる。


ピースが、湧き起こっていた。

八個目の、最後から三つ目のピースが、埋まっていた。

八個目のピースは、今までのピースと、ちょっと違っている。

今までのピースと比べて、原色系だ。

ある部分は、赤々と赤い。

ある部分は、青々と青い。

ある部分は、黄々と黄色い。

それらの色が入り混じずに組み合わさって、一つのピースを形成している。

まるで、一つのピースの中に、複数の色の異なるピースが嵌まっているようだ。


これで、残るピースは、二つ。

残された期間は、半年強。

依然、厳しい条件ではあるが、俄然、望みが出て来る。

今回のペースを今後も続けてことが可能ならば、二~三ヶ月で一ピースは埋まる。

ならば、ギリギリではあるが、あと六ヶ月くらいでピース埋めコンプリートも可能だ。


『二流大人?何それ』とばかりに蔑すむ、一人前大人になることへの道筋が見える。

未だ、道は細いが、ハッキリクッキリと示されている。


ジャーンは、ほぼ諦め状態から一転、勝算の立つ状態にまでこぎつける。

笑みが、こぼれる。

人知れず、自動的に顔がニヤける。

ジャーンは、機嫌良くニコニコして、終日過ごす。


が、対照的な空気が、部屋には存在している。

ジャーンが醸し出す明るい空気と対照的に、女性からは暗い空気が醸し出されている。

日を越え十数時間経ち、ジャーンは女性の様子に、やっと気付く。


「どうしたん?」

「はい?」

「どっか具合、悪いんか?」

「別に、大丈夫です」

「でも、顔色もなんか、悪い感じやで」

「ちょっと、頭痛がするんです。

 ようあることなんで、時間が経てば直りますよ」

「なら、ええけど」


ジャーンは、女性の『心配しないでください』オーラに配慮して、話を切り上げる。


『えっ?

 ええっ?!』


ジャーンは、二度見する。

女性を、二度見する。


女性は体の一部分が色を失い、透明になっている。

部屋の向こうが、透けて見えている。

透明になっている部分は、筋肉が無いような、脂肪が無いような、骨も無いようなペラペラになっている。


ゴシゴシ

ゴシゴシ


ジャーンは、目を瞑り、瞼を数回擦って、再び目を開ける。

女性の姿は、いつもとなんら変わり無く、そこにある。

女性は顔色は悪いが、いつも通り佇んでいる。


『見間違いか』


ジャーンは、思う。


『でも、かなりリアルな見間違いやったな』


ジャーンは、思い出し思う。



籠もり始めてから、明らかに女性の調子は悪くなる。

顔色は白くなり、体は厚みが無くなり、動きも始終フワフワしているように感じる。

そして、籠もる毎に、少しずつだが、それが進行しているように感じる。


「籠もるん、もうええんとちゃうか?」


ジャーンは、女性の身を案じ、思いを口に出す。

女性は力無く笑い、微かに顎を左右に動かす。


「あと、もう少しですから、続けます」


体の状態とは不釣合いな、意志強固な視線を、女性はジャーンに向ける。

ジャーンは、その視線を受け止める。

心がのけぞりながらも、受け止める。


「なら、無理しんときや。

 なんや、籠もるようになってから、調子悪いみたいやし」

「ありがとう御座います。

 気を付けます」


ジャーンの労わりの言葉を受けて、女性は真摯に返答する。

ジャーンはその言葉を聞くと、もう何も言えなくなる。

その代わり、女性の後ろから、髪を撫でる。



その後、女性の調子は、悪くなる一方となる。

病院に行く程の急激な衰弱では無いが、明らかに少しずつ体調を衰えさせていく。


ジャーンは、気が気でない。

ああ、まったくもって、気が気でない。

女性の確固たる意志を尊重して、「もう籠もんのやめたら?」とは言えないが、本音はよほど、そうして欲しい。

女性にお籠もりを止めさせるには、言うとかの正方法ではダメ。

女性の意志を、翻させることはできない。

だから、


押してもダメなら、引いてみな。

乗り越えられへんのやったら、地下掘ったらええやん。

乗り越えられへんのやったら、迂回したらええやん。


曰く、裏方法と云うか、もう一つの手を駆使したらええやん。

今までは、言葉とか手順を踏んで、女性の意志を最大限に尊重して、望んで来た。

それでは『埒があかん』となったら、多少、言葉とか手順すっ飛ばしても、多少、女性の意志を二の次にしても、そんな手を使わんとあかんやろ。

最優先すべきは、女性の身体、体調、精神、心。

その為には、少々のことやったら、悪者にもなる。


だから、


籠もっている最中でも、収納の戸を開ける。

開けて、女性の行為を無にする。

以後の行為を、不必要なものにする。

曰く、強制終了させる。


ジャーンは、思いを決め、覚悟を決め、腹を括る。

一旦心を決めると、女性の様子が眼に入るにつけ、一刻の猶予も許されない気に陥る。

『今日にも決行』を、決心する。



「じゃあ、今日も」

「おお」


女性が日課の如く、収納に籠もる。

閉じられた戸の中から、ガサゴソと音がする。

正直今まで、女性が籠もることにを、そんなに気にしていなかった。

が、一旦『覗く』と決めてしまうと、中が気になる。


『何してんねん?』


ガサゴソが終わると、中はおとなしくなる。

微かに、風の揺らぐ音はするが、他にこれと言った音は聞こえない。


『ホンマ、何しとんねん?』


万遍なく音がしていて、『なんか作業しとんのんやろなー』と思えたら、そんなに疑問も感じないだろう。

でも、こうもハッキリと音が指し示す通り、二部制と云うか前半と後半に分かれていると云うか、そんな感じになってると、なんか気になる。

必要以上に疑問点が、募って来る。


ジャーンは、『女性の身を案じる』理由のみで、収納お籠もりを強制修了するつもりだった。

が、今やそこに、『何しとんねん?』の、自らの疑問も加わる。

疑問解消動機は、ブースターのように、ジャーンのためらい、躊躇を削り取る。

ジャーンは自分でも驚くぐらい、造作無く、戸の引き出しに手を掛ける。

そして、戸を引き開ける。


女性は、いなかった。

脱ぎ捨てられた衣服が、端にかためられている。


収納の空きスペース中央には、蝶一羽。

そして、白いTシャツ一枚。


蝶は、仰向けになっている。

仰向け、逆さまになりながら、白Tに羽を押し付けている。

プルプル震えながら、押し付けている。

丁度それは、左胸の位置。


蝶は小刻みに震えながら、白Tに羽を押し続ける。

と、蝶の羽の一部分の色が、薄くなる。

対して、白Tの左胸部分に、色が乗り始める。

蝶の羽の、ジグソーパズルに組み合わさった模様が、白Tに移る。

蝶の羽の、ジグソーパズル模様の、赤・青・黄の色が、白Tに移る。


完全に模様と色は乗り移り、白Tの左胸部分には、色彩豊かなジグソーパズル模様が浮かび上がる。

対して、蝶の羽の一部分は、透明化する。

心なしか、その部分は頼りなく芯無く、ペラペラ感に包まれる。


作業が一段落すると、蝶は(溜め息をついたように)振動を止める。

そして、(何かに気付いたかのように)複眼の視線を、ジャーンに向ける。

その視線は、最初は驚きの感情を、いっぱいに含む。

が、徐々に、怒り、悲しみ、失望の感情を含む。


ジャーンは、蝶から寄せられるその感情に、いたたまれなくなる。

それ以上、蝶を見ることができなくなり、戸を勢いよく閉める。

ジャーンは戸を閉めた後、頭を抱え込む。

体育座りをした両脚の間に頭を突っ込み、頭を抱える。


戸の中から、音がする。

ガサゴソと、音がする。

音がやみ、ためらいの間が生じる。

ためらいの間を切り断つかのように、勢いよく戸が開かれる。

女性が、いる。

服を着た、女性がいる。


女性は、ジャーンと眼を合わさずに、収納を出る。

収納から出終えて、改めて、眼を上げる。

ジャーンと、眼を合わす。

女性はまた少し顔色が悪くなり、また体も痩せ細って来ているようだ。

体のペラペラ感も、増している。

手には、白Tを持っている。

左胸には、色鮮やかなジグソーパズル模様が付いている。


「これ」


女性が、白Tを差し出す。


「ああ。

 ありがと」


ジャーンは、受け取る。

言葉を発しようとするが、ジャーンの口から言葉も音も出ない。

数秒待っても、出ない。

女性は、吹っ切るかのように、自分から口を開く。


「お察しの通り」

「はい」

「蝶が私です」

「はい」

「助けてくれはった、蜘蛛の巣に捕まっていた蝶が、私です」

「あ、やっぱり」


ジャーンは、現実感皆無ながらも、薄々見当は付いていたらしい。


「じゃあ、この状況も、なんとなく察したはりますか?」

「いや、それは、イマイチ分かってへん」


女性は、「ふう」と一息つく。

数瞬の後、思い定めたかのように、口を開く。


「じゃあ、説明します」

「お願いします」

「収納に籠もって、私は蝶に戻っていました」

「はい」

「そして、ジャーンさんの白Tに、羽を擦り付けていました」

「はい」

「よく擦り付ける為に、仰向けになって羽を下にして、震えていました」

「はい」

「ここまで、OKですか?」

「OKです」


女性は、ジャーンの吞み込み具合を、確認する。

確認すると、『この勢いに乗って話を進めないと、進められない』とばかりに、続ける。


「何をしてたか?、と云うと」

「はい」

「羽の模様を、白Tに移り付けていました」

「はあ」

「私達の羽には不思議な作用があって、その色や模様から、

 見た人を《ほんわか》させるらしいんです」

「はあ」

「だから、その色模様を移したTシャツを着た人も、

 《ほんわか》するんじゃないかと」

「はあ」


確かに、した。

その思いを受けて、ジャーンは続ける。


「ほな、俺に《ほんわか》してもらう為に、

 白Tに羽の色模様を移していた、と」

「はい」

「その為に、収納に籠もっていた、と」

「はい」


そして、羽の色と模様が抜けてペラペラになって、自分の身体を損ねてまでも、俺を《ほんわか》させてくれようとした、と。

《ほんわか》させて、ピース埋めの手助けをしてくれていた、と。


ジャーンは、言葉にこそ出さなかったが、心では言葉を続けている。


女性の身体は、今のお籠もり前後でも、ペラペラになっている感じがする。

儚くなっている、感じがする。

身体全体的にも、色が抜けている感じがする。

顔色、肌色は、白を通り抜けて、そのものズバリ透明感が出ている。


このままでは、ヤバいんやないか?

このままお籠もり続けてたら、あかんのやないか?

身体、ペラペラに、儚くなる一向なんやないか?

ハッキリ言ってしまえば、死んでしまうんやないか?


ジャーンは、心配不安の思考に入る。

黙ってしまったジャーンを尻目に、女性は言葉を紡ぐ。


「でも、丁度よかったかも」

「えっ?」


今の状況と、女性の「丁度よかった」発言が結び付かず、ジャーンは問い直す。


「私達、人間に擬態している蝶の正体がバレたら、

 すぐさま蝶の世界に戻らなきゃいけないんです」

「はあ」

「 ‥ それと ‥ 」

「それと?」


女性は、無理矢理、微笑んで言う。


「もう身体が限界なんで、これ以上お籠もりして、

 『Tシャツに色模様移すの、キツいな』と思ってたんで」

「 ‥ 」

「だから、潮時、いいタイミングってことですね」


ジャーンは、黙って考え込むばかりで、何も言葉を思い付かない。

でも、これだけは訊いて置きたかった。

訊いて置かなければ、ならなかった。


「あの」

「はい」

「蝶の世界に戻ったら、こっちの世界には戻れへんの?」

「いえ。

 花の蜜とか集めに、来ますよ」


ジャーンは、安心する。

でも、どこか引っ掛かる。

「花の蜜とか集めに」に、引っ掛かる。

引っ掛かりに、おぼろげながら見当が付く。

それを、口にする。


「蝶の姿で?」

「はい」

「あくまで、蝶の姿で?」

「はい」

「今の姿、人間の姿では?」

「それはもう、無理です」


女性は、無理矢理、微笑む。

『だから、今の姿では、もう会えないんですよ』と、無理矢理笑いが物語る。


ジャーンは、心の底から上から側面から、心のそこらじゅうから湧き立つ感情を抑えきれずコントロールできず、女性の方へ腕を伸ばす。

感情を制御できず、左右両腕を女性に伸ばす。


スッ


女性は、右腕を伸ばす。

ジャーンの方へ、掌を見せて右腕を伸ばす。

「ストップ」とでも言うように、伸ばす。


ジャーンの左右両腕は、女性に届く前に、女性の右腕に堰き止められる。

女性は、三たび、無理矢理、微笑む。


「もう、行きます」

「もう?!」

「はい」

「全然、時間無いやん!

 むっちゃ急やん!

 いくらなんでも、急過ぎるやん!」

「でも、正体割れたら、「すぐさまその場で、帰還」なんです」

「でも ‥ 」


女性の即時帰還に至る要因が自分である為、一〇〇%自分原因である為、ジャーンは言い澱む。

女性は、顔を伏せる。

数秒、顔を伏せて、吹っ切るように顔を上げる。

誰にも心配させない、心配させようとしない笑顔をもって、ジャーンに言う。


「じゃ、行きます」

「えっ ‥ 」


ジャーンが固まっている間に、女性の身体は、縮み始める。

脚が縮み、腕が縮み、首が縮む。

服の中に、脚が引っ込み、腕が引っ込み、頭が引っ込む。


ドサッ


身体が完全に服の中に引っ込み、数瞬すると、服が床に落ちる。

床に落ちた服の中で、何かがもぞもぞ動く。

動いていたものは、落ちた服の首口から、姿を現す。

首口から、空中へ飛び出す。

飛び出した蝶は、羽を懸命に羽ばたかせて、宙を飛ぶ。


その羽は、元は色彩豊かなジグソーパズル模様だったのだろうが、今は見る影も無い。

所々に色と模様は残っているが、九割以上は、色が抜け透明になっている。

羽は、芯が無いような強度が無いような、ペラペラ感が強く、心もとない。

身体そのものも、痩せ細っている感じがし、健康的な状態とは言い難い。

現に、宙をふらふら彷徨って、飛んでいるような気がする。

飛んでいるけれど、地に足が着いていない感じがする。


部屋は、全ての戸が閉じ切ってあり、外に通ずる出口は無い。

蝶は、あっち行ったりこっち来たりを、繰り返す。

数度繰り返した後、ジャーンの元へ飛んで来る。

ジャーンにまとわりつき、ジャーンの周りを旋回する。

戸惑っているジャーンを尻目に、旋回を繰り返す。

何度も何度も、繰り返す。


それは旋回を繰り返すことで、懇願を表わしているように思える。

蝶の懇願、蝶の今のお願い。

ジャーンは、思い至る。


『外に出してくれ、ってことか』


ジャーンは、何度も何度も、自分の周りを旋回する蝶を見つめる。

本音として、蝶を逃したくない。

ここで、分かれてしまえば、もう二度と会えなくなる可能性が高い。

いや、その可能性は、ほぼ100%近い。

蝶の形であっても、手元に置いておけば、人間の姿に戻ることは無くても、何らかの安心感、満足感は得られる。


そう思い、ジャーンが旋回する蝶を見つめていると、走馬灯が廻り出す。

記憶が、ジャーンの周りを廻り出す。

蝶 ‥ 女性との記憶が、思い出が、ジャーンの周りを廻り出す。


グルグル

あはは

あはは


グルグル

なんでやねん

なんでですか


グルグル

すまんな

ごめんなさい


グルグル

ぎゅっ

ぎゅっ


‥‥ ‥‥


ジャーンは、廻転する記憶、思い出に促されるように、動く。

吹っ切った、吹っ切らなくてはいけない表情をして、動く。

窓際の方へ、動く。

窓に、手を掛ける。

『一、二、三』と、思いを込めるかのように数瞬溜めてから、窓を開く。


風が、窓から入って来る。

部屋の空気も、窓の外へ溢れ出る。

その空気に乗って、蝶も移動する。

窓の方へ移動する。

開いた窓の方へ、移動する。

蝶が目の前を飛び過ぎる時、ジャーンの腕はピクッと動く。

手も、ピクッと動く。

だが、なんら行動を起こすことも無く、そのままの姿勢を保つ。


部屋の中

窓の内

窓の際

窓の外

外の空


蝶は飛び移動し、外に出る。

視界が利かない、夜の闇の中、飛び去ろうとする。


「あっ ‥ 」


ジャーンは、思わず声を漏らす。

蝶は、ジャーンの声に反応したかのように、声を聞いたかのように、その場で一巡り二巡りする。

そして、「じゃ」とばかりに、夜の中へ過ぎ去って行く。


ジャーンは慌てて、窓際に寄る。

窓から、顔を出す。

いや、上半身を、精一杯出す。


蝶は、見えない。

見えなくなった。

もう、遅いんやな。


ジャーンは、窓から上半身を出し続け、眼をこらして、夜の空間を見続ける。



明くる日、ジャーンは、生命維持活動(摂食と排泄)以外、停止する。

日がな一日、布団の中で、寝て過ごす。

考えることと云えば、蝶のことばかり。


ああすれば、良かった。

ああしてやったら、良かった。

ああすれば、良かったかも。

ああしてやったら、良かったかも。


なんで、ああせえへんかってん。

なんで、ああしてあげへんかってん。

なんで、あんなことしてん。

なんで、あんなことさせてん。


後悔は、続く。

悔いは、残り増える。


ジャーンは、後ろ向き思考に終始する。

その最中、心がジワジワする。

明らかに、《ほんわか》とは違う、ジワジワ。

心に湧き上がるジワジワを捉え、ジャーンは戸惑う。


『なんやこれ。

 《ほんわか》と違うぞ。

 もっと、痛いって云うか、切ないって云うか、そんな感じ』


ジャーンは、悩む。

悩んで、至る。

思い至る。


『ああ。

 《悲しみ》や、これ』


そうジャーンが思い至った時、《悲しみ》が心いっぱい、胸いっぱいにに広がった時、ポコッと音がする。

ジャーンは、(心から)音がしたように感じる。


九個目のピース、最後から二つ目のピースが湧き上がり、湧き起こる。

九個目のピースが、埋まる。


九個目のピースも、八個目のピースのように、

ある部分は、赤々と赤い。

ある部分は、青々と青い。

ある部分は、黄々と黄色い。

それらの色が入り混じずに組み合わさって、一つのピースを形成している。


いや、一点、異なるところがある。

『青々と青い』のではなく、『青々青々と青い』。

曰く、八個目のピースより九個目のピースは、青みが明らかに強くなっている。


ジャーンの心のピースは、九個目まで埋まる。

大きい感情の効果さえあれば、《ほんわか》でなくとも、ピースが形成されることが判明する。

この得た情報に合わせて、残された期間・日数を勘案すれば、心のピースが全て埋まる(十個のピースを得る)望みが出て来る。

俄然、勝算が出て来る。


が、九個目までは埋まるものの、十個目が埋まらずにタイムオーバーとなる人は多い。

その数は、誤差の範囲とか云って、無視できるものではない。


十個目に、どんな苦労が?

どんなハードルが?

今まで通りの方法から、ちょっとヒネらなくてはいけないのだろうか?

謎は、残る。



が、ジャーンにとって、そんなことは『当分、どうでもいいこと』になっている。

蝶を失った、行かせてしまったダメージは、思いの外大きい。

その精神的ダメージから立ち直ることを、何より優先しなくてはならない。


実際、俄然改善したピース状況を他所に、ジャーンは日々を過ごしている。


起きる。

食べる。

寝る。

起きる。

食べる。

寝る。

起きる。

食べる。

寝る。


このように、生命を維持する為だけ、最低限の活動を行なう。

日がな一日を、本能的な活動だけ行なって過ごす。


周りの風景からは、あの時から、色が失われている。

あの人もこの人も、白黒。

そこもここも、白黒。

あそこの物もここの物も、白黒。

なんやかんや周り全部、白黒。

ジャーンの心象風景が改善されない限り、色は回復しないのだろう。



数ヶ月も経っただろうか。

なんやかんや言っても、時の流れが一番の薬。

ジャーンの生活も、徐々にだが、通常に戻りつつある。


あの生活では、健康的に身体を保つことはできないのは、必然。

いつもの生活に戻ること。

これもまた、生命維持の為の、本能的活動であるのだろう。


ジャーンの周りの風景にも、薄ぼんやりではあるが、少しずつ色が付き始めている。

が、蝶との別れの前とその後では、同じ色であっても異なって見えているようだ。

付いて来た色も、厳密には、前の色と異なるに違いない。


傷は、残るだろう。

いや、一生の心の傷になるに、違いない。

心の傷を完全に治すことなんか、できない。

心の傷は抱えて生きることしか、できない。

でも、心の傷をものともせず、生きることはできる。

それが、前とは色が異なっいても、『色の付いた風景の中に生きること』、なのだろう。

他の言い方をすれば、『風景に点在する地雷を踏んで爆発させても、ものともせず生活を送ること』、なんだろう。

たまには痛むことが、あるにせよ。



ジャーンの生活が穏やかになるに連れ、心では傷が疼くことが減る。

が、それに伴い、他の動きが出て来る。

心が、ジワジワして来る。

ジャーンには、この感覚は覚えがある。


『えっ、このタイミングで?

 この時に於いて?』


感情的には、高ぶるどころか、穏やかに静かになって来ている。

《ほんわか》とか《悲しみ》とか、正の感情であるにせよ負の感情であるにせよ、ピースが埋まるほどの心の動きはしていない。

しかし実際に、心はジワジワしている。

ピースが、埋まる前兆だ。


ジャーンは、感情を殊更静める。

蝶との別れから得たものは、感情のコントロール方法。

それを、行なう。

感情を、自己制御する。

が、感情を制御すればするほど、心のジワジワは強く速くなって来る。


『あかん。

 なんでか知らんけど、逆効果や』


十個目のピースが埋まろうとしているのだから、本来は目出度いこと。

なにせ、ピースがコンプリートするのだから。

でも、ジャーンにとっては、『訳が分からす気持ち悪い』『釈然としない』思いが先に立っている。


ピースはグングン成長し、ピタッと嵌る。

拍子抜けするくらいに、十個目のピースは埋まる。

全十ピース、コンプリート。

これでジャーンも、一人前大人の仲間入り。


でも、謎は残る。

なぜ、十個目のピースは、いわゆる感情的とは真反対のことで埋まったのか?

感情制御に反応して、促進したのか?

ジャーンは、沈思黙考する。


『なんや、それまでの九個のピースと、最後の十個目のピースは、

 種類が違って、生成方法が違う感じやな』


考える。

考え抜く。


『あっ、これかも』


ジャーンは、納得できる想定が付く。


『九個目までのピースは「感情の起伏の大きさ」、

 言わば「豊かな感情」を捉えて生成される。

 そしてこれは、子供期、少年少女期に必要とされるもの』


うんうん。


『対して、十個目のピースは「感情の起伏のコントロール」、

 言わば「感情制御」を捉えて生成される。

 そしてこれは、大人期、成人期以降に必要とされるもの』


なるほど。


『だから、十個揃ってピースができないと、一人前大人にならへんのやろう。

 九個目までのピースと、十個目のピースでは作り方が違うんやから、

 みんな、十個目のピースで苦戦するんやろう。

 で、それを乗り越えた約三割が名実共に、一人前の大人になると』


そういう訳か。


『大人になるには、

「喜怒哀楽、様々な感情を知り、

 その上で、それら感情の制御をできるようにならんとあかん」、

 と云うことか。

 《ほんわか》がピース作成のカギとされたのも、

 それが、感情に於いては、一番ポピュラーやからか』


ここでやっと、ジャーンは気付く。


『ってことは、何、俺、

 十個のピース、二十三歳までに全部埋めて、

 様々な感情を知り、それらの感情を制御するスベを、

 身に付けたってこと?

 一人前大人の仲間入り、ってこと?』


禍福は糾える縄の如し。

人間万事塞翁が馬。

幸せと不幸は、表裏一体。


ピースが埋まらず凹んでいたところに、『蝶との出会い』がピース埋めへの道を開く。

『蝶との別れ』が、ピース埋めを完成させる。

出会いと別れを短期間に経験し、ジャーンの心模様、感情は上下に大きくゆれ動いた。

でも、その揺れ動きが無ければ、ピースは埋まらなかったわけで。

一人前大人になれなかったわけで。



ここのところ、ジャーンは、部屋に引き籠もりがちだった。

無理も無い。


こんな感情の状態で、

周りの風景には色が無く、

生命維持活動以外、何もする気が無かったら、外にも出ないだろう。


久し振りに、ジャーンは、外に出ることにする。


その前に、まずは換気。

窓を開け放ち、収納の戸を開け放ち、玄関のドア以外の全ての戸という戸を開け放つ。

澱んでいた部屋の空気を、入れ換える。


久々に、外に出る。

日が、眩しい。

外の空気が、美味くて爽やか。

身体と心に、穏やかな活気が滲み込んで来る。


色も、眩しい。

周りの風景の、色が眩しい。

周りの風景が、眩しくって違う。

色からして、違う。

いや、厳密には、赤なら赤、青なら青、黄なら黄と、色目自体は以前と同じ。

でも、色の持つ雰囲気が、なんか違う。

あえて言うなら、色の持つ瑞々しさとか深みが、なんか違う。


なんか笑える。

周りのいろんなものが、いつの間にやら、爽やか過ぎる。



ジャーンは、周辺を巡る。

いつものルートを、巡る。

引き籠もる前に、いつも通っていた道を辿る。


パパアーーーーー

ビュンッ


パパアーーーーー

ビュンッ


ひきりっなしに、狭い道路を、車は駆け抜けてゆく。

ジャーンは、車の起こす風に煽られ、家の生垣の方へ、少し倒れる。


生垣に手を突き、手にサワサワしたものが付く。

手に、蜘蛛の巣が、引っ付く。

手に絡まる蜘蛛の巣を、指で掻き取り引き剥がす。

引き剥がし、丸める。

丸めた蜘蛛の巣は、その場に捨てる。


道路を、道を進むに連れ、ジャーンは刮目する。


ああ、こんなんやったんか。

ああ、こんな感じやったんか。

みんな、ビックリするくらい、色鮮やかで眩しいやん。

なんや、いろんなもんが、輝いて見える。

いや、多分、俺の心の持ちようなんやけどな。

でも、自分にはそう見える以上、今現在はそれらは、

俺にとっちゃ明白な事実。

早い話、世界は輝きに満ちている。


前に進む為には、バックステップが必要。

高く飛び上がる為には、しゃがみ込むことが必要。

ステージを上げる為には、時に凹むことも必要。


今よりも、いい感じの心の持ちようになりたいんやったら、

今よりも、いい感じのやつになりたいんやったら、

いっぺん、下がらんとあかん、後退せんとあかん、溜めんとあかん。


俺は、いっぺん落ちたから、そこから這いずり上がったから、今みたいになってんのか。

なんか、ライダーとかサイヤ人とか、スーパーヒーローもんみたいやな。

むっちゃピンチになって、それを挽回したら、前より強くなる感じ。


ジャーンは、周りの風景がそう見えている以上、前よりはいいやつになったらしい。

それを証明するのは、これからの生き方、人生の歩み方。


まあ、大きく構えんでも、日々の生活をどう過ごすかやね。

人間は慣れというか、そういうもんがあるから。

それは大事なことやけど、馴れ合いや怠惰も引き起こすからなー。

今の気持ちを大切に随時思い出して、克己心持って、日々臨も。



ジャーンは、一変した世界の中、家に帰る。

玄関のドアを、開ける。

ジャーンは、誰もいないのに、癖で帰宅の挨拶をする。


「ただいま」


 ‥ コト ‥


清冽な空気に、晒される。

そこらじゅうから、爽やかな空気が入り込む。

澱んだ空気は、一掃されたらしい。


開け放ってあった、そこらじゅうのものを、閉めて廻る。

大きな窓を、閉める。

小さな窓を、閉める。

風呂場の戸を、閉める。

トイレの戸を、閉める。

収納の戸は、閉めてある。


 ‥ えっ?


 ‥ コト ‥


部屋の中のあらゆる戸は、出かける時に、漏れなく開いておいたはす。

その中には勿論、収納の戸も含まれるはず。

が、収納の戸は、事実として閉まっている。


『開け忘れた?

 ここだけ、開け忘れた?』


いや、それは無い。

ここは、この場所は、ジャーンが最も空気を入れ換えたかったところ。

ジャーンの心の傷に最も密接な分だけ、雰囲気一切合財入れ換えたかったところ。

忘れるはずが、無い。

なんなら、真っ先に、開け放つべきところ。

実際、真っ先に開け放った覚えがある。


 ‥ コト ‥


収納の中から、なんやら音がする。


 ‥ コト ‥

 ‥ コト ‥

 ‥‥‥‥ ‥‥‥‥

 ‥ ガサゴソ ‥

 ‥ ガサゴソ ‥


最初、小さかった音は、急に大きくなる。

微かに物が動くかのようだった音が、衣擦れの音のようになる。


明らかに、中に、何かいる。

留守中、何かが、部屋に侵入している。

その何かが、収納に籠もり、収納の戸を閉めて、身を隠している。


ジャーンは、中を見たい。

侵入者の正体を、明らかにしたい。

しかし、それにも増して、怖い。

もし、侵入者が泥棒目当てで刃物とか持っていたら、ジャーンは、ただですまない。

その可能性は、無きにしも非ず。

いや、一番高い可能性かもしれない。


ジャーンは、葛藤する。

矛盾に、葛藤する。


開けたい、開けたくない。

見たい、見たくない。

知りたい、知りたくない。

もやもやを解消したい、解消せずとも無事に済ませたい。


 ‥ ガサゴソ ‥


ジャーンが逡巡している間に、収納の中で、次の動きが起こる。


 ‥ ガサゴソ ‥


動きは、続く。


 ‥ スウー ‥


収納の戸が、静かに引き開けられる。

薄い隙間の分だけ、戸は引き開けられる。


 ‥ スッ ‥


その隙間の狭い空間から、何かが出て来る。

出てきたのは、四本の指。

指は、手刀の形に、縦に綺麗に並んでいる。

戸の隙間に差し込まれた指は、曲がる。

戸の方に、曲がる。

そして、戸を掴む。


ああ、開けようとしているのか?

戸は、開けられてしまうのか?

出ようとしているのか?

出てしまうのか?


ジャーンは、怖れと期待、不安と好奇心の入り混じった、複雑な感情を抱える。


戸は、動く。

戸が、動く。

戸が、引き開けられる。

空間が、広がる。

収納内の空間が、広がる。

開けた者が、露わになる。



収納の中には、収納の空間には、見慣れた顔があった。

あの女性が、座っている。


女性は、おずおずと、収納から出て来る。

ジャーンの前まで出て来ると、正座をして座り直す。

女性は、下着の上から、ジャーンの白Tを着ている。

白Tの胸のジグソーパズル色模様は、元々薄くなっていた。

女性が来ている白Tを改めて見ると、色模様は、ほぼぼんやりとしか残っていない。


ジャーンは、現実を認識できず、フリーズし続ける。

言葉が、出て来ない。

口を開くことすら、できない。

女性を、見つめるのみ。


女性は、正座を正して、ペコッと頭を下げる。


「またよろしく、お願いします」


ジャーンは目を更に見張り、一瞬、間を取った後、足を踏み出す。

感情を制御できず、溢れる思いをコントロールできず、前へ踏み出す。

女性の方へ、踏み出す。


そして、


ぎゅっ

ぎゅっ


なあ、こんな時ぐらい、大目に見てくれや。



制御できひんのか、しょーがねーなー。


十個目のピースは、点滅する。

赤・青・黄と、ウインクするように点滅する。


{了}

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